晩年の橋川文三は、昼間から酒を飲んでいたという。人伝えに聞いた話だから何ともいえないが、やっぱりそうだったのだと思う。橋川の「美の論理と政治の論理―三島由紀夫と『文化防衛論』に触れて」という文章が、あまりにも衝撃的であったからだ。昭和43年7月号の中央公論に掲載されたものだが、それを読んだ三島由紀夫は激怒して「橋川文三氏への公開状」を執筆している。良き理解者の振りをして、実際は冷たくあしらわれたという思いを、三島は抱いたのだろう。「ともあれ私は、最近の三島がかつての尊皇攘夷派に似ているように思っているが、いうまでもなくそれは冷笑の意味ではない。私は、およそある一つの文化が危機にのぞんだとき、その文化が『天皇を賛美せよ!野蛮人を排斥せよ!』というのと同じ叫びをあげるのは当然のことだと思っている」と橋川が書いてはいても、最終的には三島と一線を画した。「危機感が狂気を生む」との見方を橋川がしたとしても、あくまでも識者の意見として述べただけだ。しかし、日本人の心の底の深淵を覗き込んでしまったために、正気ではいられないから、橋川は酒をあおったのである。最近になって、三島や森田必勝の叫びが痛切に感じられるのは、危機が以前にも増して深刻になっているからに違いないし、平成維新の新たな攘夷の高まりも、それと無縁ではないのである。
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