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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■神の導きを知る / 板倉邦雄

2019年08月20日 | Weblog
2019/7/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「神の導きを知る」という題でお話ししましょう。

私たちの人生は、一寸先は誰も分りません。一寸先は闇です。ですから私たちは、明日はどうなるのか、将来のことが知りたいのです。キリスト信徒はいつも、神の導きと計画を尋ねて祈り考えています。

 さて使徒ペテロは今見た夢・幻は何のことだろうか、と一人思案に暮れていました。今見た夢・幻とは、天から大きな風呂敷のような容れ物が降りてきて、その中に今まで汚(けが)れたもの、食べてはいけないもの、とされていた動物たちが入っていました。「それを料理して食べなさい。」と主なる神様がペテロに夢・幻の中で言われたのです。主なる神様は三度もその事をペテロに見せ、教えられました。

 ちょうどその時です。コルネリウス百人隊長から遣わされた人たちがペテロの滞在している家を尋ね当てたのです。神様の導きの第一は、神のことばや命令が両者--コルネリウスと使徒ペテロに与えられているということでしょうか。

 さてペテロは、屋上でなおも幻について思い巡らしていますと、聖霊が語りかけます。
 「ご覧なさい。三人の人たちがあなたを訪ねてきています。さあ、ためらわないで彼らと一緒に出かけるが良い。わたしが彼らをよこしたのである。」

 この聖霊様による語りかけは、ペテロの心にどれほどの平安と確信を与えたことでしょうか。第二に神の導きは、不安や心配のあることに導くことはありません。そこでペテロはその人達の所に降りていって、「私がお尋ねのペテロです。どんな御用ですか?」

 三人は答えました。「正しい人で神を畏れ敬い百人隊長コルネリウス様があなたを家に招いてお話を伺うようにとのお告げを聖なる御使いから受けましたので参りました。」

 ペテロは彼らと連れ立って出発しました。神の導きの第三は、具体的な招きでしょう。ペテロは信仰による第一歩を踏み出したのです。信仰による一歩一歩、そこに神は道を造るのです。

  (PBA制作「世の光」2019.7.16放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■わたしに従いなさい / 岩井基雄

2019年08月19日 | Weblog
2019/7/15放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三月曜日の今日は、キリストが弟子たちに語られたことばから、キリストに従う祝福を一緒に考えてみましょう。

 先に、素晴らしい信仰告白し、キリストから称賛されたペテロでしたが、十字架に向かう苦難を語ったキリストを人間的な考えで諌めてしまい叱責を受けました。しかしキリストはペテロだけではなく他の人々の愚かさや弱さもすべて御存知の上で、自分に従って来るようにと彼らを招かれたのです。聖書はこう語っています。
 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。
  「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

  新約聖書 聖書マルコの福音書 8章34節

 この「自分を捨てる」とは自分中心の考え方また自分の握り締めているプライドやこだわりを捨て去ることなどを意味します。それは自分の十字架を追うことでもあります。十字架刑の受刑者は自分で十字架の横木を背負って死刑場であるゴルゴタの丘に進み行きます。すなわち十字架を負うということは自分の死そのものを背負うことであり、自分に死ぬこととも言えるでしょう。これこそがキリストに従う道だ、として群衆をも招きました。何と厳しい招きでしょうか。

 しかし実はそこにこそ本当の愛と恵みへの招きありました。なぜなら私たちの自己中心的な罪のためにキリストが身代わりに罪の裁きを受け、私たちが自分中心の歩みから離れて真理と愛のために生きることができるようにキリストが道を備えられたからです。しかしキリストは一人ひとりを命がけの愛で愛し、共に歩んでくださるからです。

 この愛を受け取っていくとき、私たちもまた真実な愛へと変えられ続け、キリストに従うことができる者へとされ続けていくのです。すなわちこのキリストの招きは、祝福と栄光の道への招きでもあるのです。そして自分自身への傾きから自由になり、罪赦されて歩む道は、周りの人々にも祝福を届ける器とされる豊かな恵みに満ちているのです。

 キリストはあなたをも招かれます。「わたしに従ってきなさい。」と。あなたはどのようにお答えなりますか? キリストはあなたを待っておられます。

 (PBA制作「世の光」 2019.7.15放送でのお話より )
 
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■戦う欲望 / 羽鳥頼和

2019年08月17日 | Weblog
2019/7/13放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 聖書は実際にあった事実の出来事を通し、人の本当の姿を語ります。それは私たちと無関係なことではありません。今日は、聖書に記録されているイスラエルの王の代変わりの時のことをお話しします。日本では天皇の代変わりが平穏の内に行われました。しかし旧約聖書のサムエル記に記されている王の代変わりはそうではありませんでした。イスラエルの二代目の王が立てられる時、イスラエルに争いが起こりました。サウルが死んあと、ユダ部族はダビデを王として立てました。一方、サウル王の部下であったアブネルはサウルの息子を王として立てたのです。こうしてダビデの家とサウルの家の争いが始まります。

 始め、それぞれ代表選手が出て一騎打ちをして勝敗を決めようとしました。その戦いは壮絶を極め、ヨアブがアブネルたちを打ち負かしました。しかしそれで戦いは終わりませんでした。ヨアブは負けたアブネルたちを討伐します。逃げるアブネルはその途中でヨアブの弟であるアサエルを殺してしまいます。王となったダビデはサウルの家と和解しようとしますが、ヨアブはアブネルを殺してしまいます。ヨアブはアブネルを赦せなかったのです。そしてヨアブ自身も最後にダビデ王の後継者争いの中で殺されてしまいます。

 イエスのことばを思い出します。「剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイの福音書26章52節) また新約聖書のヤコブの手紙のこんなことばも思い出します。「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。」(ヤコブの手紙4章1節) 妬みや利己的な思いのある所には、秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いがある。自分の心に手を置いて反省したいと思います。

 聖書は私たちの本当の姿を教え、そしてイエス・キリストによる救いを教えてくれています。

 明日は日曜日です。聖書の教えを聞くために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2019.7.13放送でのお話より )
 
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■イエス様の模範 / 関根弘興

2019年08月16日 | Weblog
2019/7/12放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス・キリストは、この中で一番偉いのは誰か、と議論していた弟子たちにこのように語られました。マルコの福音書10章45節 「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

 「人の子」とはイエス様ご自身のことですね。天の御国で一番偉い方は一体誰でしょう。もちろんそれはイエス様です。そのイエス様が神の栄光をかなぐり捨てて、人となって仕えるために来てくださった、と聖書は教えています。そして多くの人のための贖いの代価としてご自分のいのちまで与えてくださった、と記されていますねえ。

 ここで言われている「贖いの代価」とはちょっと難しいことばですが、奴隷を自由にするための身代金を表すことばなんです。実は聖書は、人はみな罪と死の奴隷状態にある、と教えています。不自由の中にいるのだ、という訳ですねえ。でもイエス様が、ご自分のいのちを贖いの代価として支払ってくださったので、私たちは罪と死の力から解放されて自由になることができる、と約束してくださっているんです。

 更にイエス様は、その自由を特別な限られた人のためではなくて、多くの人のために贖いの代価を払ってくださった、と記されていますよね。具体的には、イエス様が十字架についてくださったということを通して、この大きな恵みを知ることができるんです。イエス・キリストは罪など一つもありませんから、十字架につけられる理由がありませんね。しかし私たちの罪を背負ってご自分のいのちと引き換えに私たちの罪を赦すために十字架についてくださいました。

 イエス・キリストが仕えるために来たというのは、ご自分のいのちを懸けて一人ひとりに救いを与えるためでした。聖書は、誰でもイエス・キリストを救い主として信じ、イエス・キリストが十字架で私たちの罪を洗ってくださったという事実を感謝して受け入れるなら、罪の赦しと永遠の救いを得ることができる、と約束しているのです。

 私たちはイエス様の姿の中に、しもべの生きた模範を見ることができます。人は神のようになってすべてを支配したいという高慢な思いを持つことがありますが、それは混乱と分裂と破壊を産むだけです。でもイエス様は神であられる方なのに、罪ある私たちを愛し、徹底的に仕えてくださいました。そこに救いが開かれていくのです。

     (PBA制作「世の光」2019.7.12放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 自由への励まし-113 偽証してはならない / 大嶋重徳

2019年08月15日 | Weblog
2019/7/11放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。

 十戒第九戒には「隣人に対し、偽証してはならない。」(申命記 5章20節 新改訳第三版、参照出エジプト記20章16節)があります。この戒めは個人的な陰口や悪口をも戒めるものです。

 では偽りの証言ではなく私たちが口にすべきことばとは一体どのようなことばなのでしょうか。パウロという人は新約聖書で、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ人への手紙4章29節、新改訳第三版 )と語りました。

 この「役立つことば」という表現は神様に対して用いられるときは「賛美することば」という意味で訳されます。そして人に対して用いるときは祝福することばとして訳されています。つまり、偽りの証言などの悪いことばを口にするのをやめたあと、私たちが口にするべきなのは神様を誉めたたえる賛美であり、人間関係の中で互いに祝福を語り合うことばです。私たちの口から出ることばを賛美の歌とするのです。その時に、慰めと励ましに満ちたことばで生きることとなるのです。

 また「徳を養う」という表現は家を建てるときのことばで、教会を建て上げる表現で用いられます。つまり私たちが口にすべきなのは悪口陰口ではなく、交わりや人間関係を建てあげることばを語りなさいと言うことです。私たちが日々、人間関係を建て上げることばで語ることを養われていくのであれば、悪口や陰口に慣れて、偽りの証言をする事の逆のことが起こります。お互いを建て上げることばを見につけていった人は、その人の生きている社会と世界、家族に対して恵みと優しさをもたらす人となります。

 第九戒は、優しいことばをかける人となりなさい、と私たちを光の生き方へと、自由をもたらす生き方へと促しているのです。私たちが傷ついている時、私たちを慰め励ましてくれた人のことを忘れることができないでしょう。私が激しく落ち込んでいた時に友人が、「俺はシゲの味方やからな。」と言ってくれた時、心がどれだけ明るくどれだけ暖かくなったでしょうか。イエス様のことばは私たちを慰め、私たちを力づけてくれます。「あなたを愛している。あなたがいてくれて嬉しい。わたしはあなたと共にいる。」 イエス様のことばは今朝もあなたに鳴り響いています。この愛のことばに力付けられ、私たちも愛のことばを言う者へと変えられたいと思います。

    ( PBA制作「世の光」2019.7.11放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■塩の契約をもって / 福井 誠

2019年08月14日 | Weblog
2019/7/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。
 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものですね。今日も聖書を開いてまいりましょう。歴代誌第二13章5節 「塩の契約をもって」と題してメッセージをお伝えいたします。
 「イスラエルの神、【主】が、塩の契約をもって、イスラエルの王国をとこしえにダビデとその子孫に与えられたことを、あなたがたが知らないはずはない。
 
 ソロモン王様以降、イスラエルは北側と南側の二つの王国に分裂して行きます。そして北側ではヤロブアムが、南側ではレハベアムが王様となりました。ヤロブアムにレハベアム。良く似た名前です。ヤロブアムはヘブル語で「民は増える」を意味し、レハブアムは「民は増え広がった」を意味します。ソロモン王の後、新しく民が増えた新興勢力となったヤロブアムに対して、ソロモン王から増え広がったイスラエルを継承したレハブアム。当時の王様のイメージが重なることばなのですねえ。

 さて、このヤロブアムの時代、南側ではレハブアムからその子アビヤに王位が継承されていきます。そしてアビヤはヤロブアムに戦いを臨みました。しかし南側のアビヤの軍隊は40万。北側のヤロブアムは80万と、力の差は歴然としており、アビヤの軍隊はヤロブアムの軍隊に挟み撃ちにされ絶体絶命の危機に陥っていくのです。けれどもアビヤがまことの神を呼び求めると、神はアビヤに味方し、ヤロブアムを打ち破ってくださったというのですね。
 
 その時になぜ神がそのような勝ち目のない戦いでアビヤを助け出してくださったのかを説明するのがダビデの子孫に与えられた「塩の契約」ということばです。

 かつて神はダビデにその子孫を永遠にまで祝福される約束を交わされましたが、アビヤはその約束が今の自分にも有効である。というのも腐敗を起こさない塩と一緒に交わされた永遠に変わることのない塩の契約だったからだと言っている訳です。そして神は確かにその約束の真実さをこのエピソードで示されました。

 ここで思い出すべきはイエス・キリストが十字架上で私たちのために神と交わされた罪の赦しの契約です。キリストのゆえに私たちは神と和解し、神の祝福を受ける者とされた、という約束です。それは今も信じて受けるべき永遠に変わらない塩の契約なのです。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2019.7.10放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神がきよめた物 / 板倉邦雄

2019年08月13日 | Weblog
2019/7/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「神がきよめた物」という題でお話ししましょう。

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は、「神がきよめたもの」という題でお話ししましょう。今日のお話の始めに、新約聖書が書かれた時代、紀元1世紀、ユダヤ人が外国人と接することは現在の私たちが天皇陛下に個人的に面会を求める以上に難しかったということです。
ユダヤ人からイエス・キリストの話を聞くことなど不可能でした。

 さてローマの百人隊長の使いがようやくヤッファの町に近づいていた頃でした。ペテロは祈りをするために屋上に上りました。昼の12時頃です。ところが彼はうとうとと夢心地になったのです。見ると天が開けて大きな敷布のような容れ物が四隅を吊るされて地上に降りてきました。その中にはあらゆる種類の四つ足の動物や這うもの、また空の鳥などが入っていたのです。そして彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」と言う声が聞こえました。しかしペテロは答えました。「主よ、それはできません。きよくないものや汚れたものを食べたことがありません。」
 すると再び声があってペテロにこう言いました。「神がきよめたものを、きよくないと言ってはならない。」 こんなことが3回もあって後、その容れ物はすぐ天に引き上げられました。

 外国人であったローマの百人隊長コルネリウスとユダヤ人であった使徒ペテロが会うためにはペテロの方にこそ準備が必要でした。なぜなら外国人の住居に入るのはけがれることになるからです。市場で外国人の着物に触れたかもしれない、と家に帰って水で手を洗ったほどでした。ましてや当時ユダヤを支配していたローマの百人隊長の所へ行くとなるとなおさらでしょう。ですから、父なる神様はペテロに今まで、宗教的にけがれる!とされた地上のあらゆる動物のまざったシーツを見せて、料理して食べろ、と三度も言われたのです。天の神様はイエス様を信じる人なら誰でもどこの国の人でも受け入れようとしていることをペテロに示したかったのですね。神の造られたものでけがれたものなどはありません。神様にはえこひいきや差別、人々を分け隔てすることはないのです。神の造られたものはみな良いものです。

  (PBA制作「世の光」2019.7.9放送でのお話より )

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■モーセの両親の神への信頼と知恵 / 岩井基雄

2019年08月12日 | Weblog
2019/7/8放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第二月曜日の今日は旧約聖書の「モーセの両親の神への信頼と知恵」について学んでみましょう。

 エジプトで神の民イスラエルが増え強くなることを恐れたエジプトの王ファラオは助産婦たちに、生まれたユダヤ人(※ヘブル人)の男の子を即座に殺害するように命じましたが、助産婦たちは王よりも神を正しく畏れ、男の子を生かしました。そこでファラオは生まれたユダヤ人の男の子をみなナイル川に投げ込むように、と命じたのです。それは神の民にとって大きな試練でした。
 あるユダヤ人夫婦に男の子が生まれました。王の命令はすぐナイル川に投げ込むことでしたが、二人は三ヶ月間その男の子を隠しておいたのです。しかし隠し切れなくなった時、彼らはパピルス製の籠に瀝青や樹脂を塗って防水をし、そこに男の子を置いてナイル川の葦の繁みにそっと置いたのです。その子の姉が見守る中、水浴びをするために来たエジプトの王女がその籠を見つけ男の子を発見します。その時です。見守っていた姉のミリアムが進み出て、その子のために乳母を呼んで来ることを申し出るのです。許可を得た姉は、自分の母すなわち男の子の実の母親を連れてきました。聖書はこう語ります。
 ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。
   旧約聖書 出エジプト記2章9節、10節

 この両親は神への信頼と知恵を用いて王女から賃金をもらって実の息子を育てることができたのです。そしてその息子に神を畏れる心を養っていきます。その子は王女によって水の中から引き出した者としてモーセと命名されますが、彼こそ神の民イスラエルをエジプトから引き出す者となるです。これらのすべてのことの背後に神様の知恵とご計画があったのです。神様はあらゆることを、いや全てのことを働かせて益となることを私たちにしてくださいます。

(PBA制作「世の光」 2019.7.8放送でのお話より )
 
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■偉い人は仕える人 / 羽鳥頼和

2019年08月10日 | Weblog
2019/7/6放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 イエスは、偉くなりたいと思っている弟子たちに、ご自分の身をもって大切なことを教えられました。今日は新約聖書マタイの福音書20章から、イエスが教えられた事をお話しします。

 イエスがご自分がこれから十字架にかかって死ぬこと、そして三日目によみがえることをあらかじめ弟子たちに語られた時のことです。イエスがよみがえられると聞いて、イエスが王座に着く、と勘違いした二人の弟子は、自分たちをイエスの王座の隣に座らしてください、と頼みました。それを聞いた他の弟子たちは、抜けがけだ、と怒りました。弟子たちはみな、偉くなりたかったのです。

 それでイエスはご自分の十字架での死のことを気に留めない弟子たちに、まず偉くなることについて教えられました。イエスは、この世の偉い人たちの間違った姿をまず教えられました。「この世の偉い人は人々に対して横柄に振る舞い、権力を振るっています。あなたがたの間ではそうであってはなりません。偉くなりたいと思う者は人々に仕える者になりなさい。人々のしもべになりなさい。」

 そしてイエスはご自分のことを弟子たちに言われました。「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。」

 このことを教えられたイエスはこの後、言われていた通りに十字架にかかって死なれます。イエスはご自分から人々を救うために身代わりとなって十字架で死なれました。十字架で死なれるイエスを見た弟子たちは、三日目によみがえられたイエスに会い、イエスのことばを思い出しました。イエスはご自分が仕える者となって十字架について死ぬことを教えておられたのです。イエスは人を救うために死んでくださったのです。これこそ究極の仕える者の姿です。イエスの十字架によって私たちは救われたのです。

 明日は日曜日です。イエス・キリストを礼拝するために、お近くのキリスト教会にいらしてください。
 
 (PBA制作「世の光」 2019.7.6放送でのお話より )
 
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■このうえない人生 / 関根弘興

2019年08月09日 | Weblog
2019/7/5放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 福音書を読んでいくと、イエス・キリストの弟子たちが何をいつも議論していたかが良く分かってきます。それは誰がこの中で一番偉いのかという議論でした。

 そんな弟子たちにイエス様はこう言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者はみなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」

 ある方はこういうことばを聞くと、「いや、私は偉くなりたいなどと思っていないので、このイエス様のことばは関係ないですねえ。」と、そう感じる方もいらっしゃるかもしれませんね。しかし、この「偉くなりたい」と訳されていることばには、この上ない人生を送りたいというような意味もあるんです。この上ない人生を送りたいと誰もが思いますよね。イエス様は、もしあなたがこの上ない人生を送りたいなら権力を振るう生きかたや威張り散らす生き方ではなく、仕え者・しもべになれ、と言われたのです。

 それでは、仕える者・しもべになるとはどのようなことなんでしょうか。聖書はどう教えているのでしょう。身体のことを少し考えてみましょう。もし身体の器官が自己主張したり自分勝手なことをし始めたらどうでしょうね。口がこれ以上食べ物をただ噛んで飲み込むだけじゃあ物足りないと言ってボイコットしたら、栄養は身体に入っていきませんね。手が足に向かって、(お前は)必要ないと言ったらどうでしょうか。身体の健康はそれぞれが自分の役割を知り、それぞれが仕えることに徹しているときに健康が保たれていくんですね。そしてどんな小さな器官も必要でないものなど何一つないのです。私たちはそれぞれが身体の器官の一部のような、そんな存在なんですね。それぞれの個性も性格も違います。できることもみな違います。ですから、決して人と比べないでください。あなたはあなたでなければならない大切な大切な存在、一人なんです。

 時々、いやあ私は何もできないと思うことがあるかもしれませんね。でもあなたの小さな笑顔がほんの一言が励ましや慰めをもたらしていくんです。私たちはこの世に生かされている限り、生涯現役のしもべです。この上ない人生を送りたいと思うなら、しもべになりなさいとイエス様はおっしゃっています。愛をもって互いに仕えながら、そんな人生を送らせていただきましょう。

     (PBA制作「世の光」2019.7.5放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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