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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■有り余るほどであった / 福井 誠

2018年10月24日 | Weblog
2018/9/19放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「有り余るほどであった」です。
 出エジプト記の36章7節から読んでみましょう。
 「手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。
            (新改訳2017)

現在、イスラエルのエルサレムに行くと、エルサレムの旧市街には神殿の丘と呼ばれる場所があります。今日そこにはイスラム教のモスクが建っていますが、かつてはユダヤ教の神殿が建っていました。しかしそのはるか昔はどうであったか、ユダヤ人がそこに神殿を定める前は、移動式の神殿というべき幕屋と呼ばれるものが使われていました。それは天幕をつなぎ合わせて作ったもので、素晴らしい装飾が施されたものでした。今日の箇所はその幕屋を作るためにどのような材料でどのように組み立てたのかが分る箇所ですね。
 まず幕屋を建て上げるための材料が求られました。イスラエルの民は自発的な捧げ物としてそれを差し出したのですが、その量は余りにも多く、工事をする者たちがもはや聖所のための捧げ物は不要であるというほどであったと言います。

 何がイスラエルの民をこれほど気前よくさせたのでしょうか。それは神の誠実さに対してであったというべきなのでしょう。というのも、イスラエルの民はいつも神に逆らい、神を捨て去るような生き方をしていました。すでに彼らはまことの神を知りながら、まことの神を指し示すモーセがいなくなると、金の子牛を造り、それを拝む偶像崇拝の罪を犯していました。そのような不真実さにもかかわらず、神は約束を反古にすることをせず、イスラエルの民のただ中に住まい、祝福されることを幕屋を造るように促すことで示した訳です。金の子牛を造り、偶像を崇拝した事件は神にはもう忘れさられていました。人を愛するとは、人のした悪を忘れることだと言われますが、まさに神はイスラエルのした悪を忘れ、イスラエルを愛し続けてくださっているのです。その神を覚えればこそ、このあり余る捧げ物がなされたということです。

 今日、教会でも献金が捧げられますが、それは教会に対する寄付でもお賽銭でもなく、神の愛に応答する私たちの心の感謝と喜びの証しとして捧げられるものでありたいものですね。

(PBA制作「世の光」2018.9.19放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

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