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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■私は神と論じ合いたい / 羽鳥頼和

2016年10月22日 | Weblog
2016/10/22放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

今日は旧約聖書のヨブ記13章からお話しします。
 ヨブ記の主人公であるヨブは大きな苦難に遭いました。一日の内に、財産と子どもたちを失い、その後自分も全身にできものができてしまったのです。ヨブは、神が敵になってしまったのではないか、と思いました。しかし、それでもヨブは神を信頼し、神との関係を回復することを求めました。ヨブは「私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。」(ヨブ記 13章3節)と言ったのです。何と大胆なことでしょう。財産を失くし、子どもを亡くし、大きな喪失感の中にあり、その上自分は病気のために大きな苦しみの中にありながら、苦難からの解放や幸せになることや、健康の回復を求めたのではなく、ヨブは神との関係の回復を求めました。

 神と論じ合うためには、神の前に出なければなりません。ヨブは、「神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。」(ヨブ記 13章15節)と、死も覚悟します。確かにきよくなければ誰も神の前に出ることは許されません。ヨブは死を覚悟しながら、それと同時に、神もまた私の救いとなってくださる、と信じていました。苦難の中にあってヨブは神を信頼し続けました。そして神が救ってくださると確信したのです。

 私たちは神の前に出ることができるでしょうか。人はイエス・キリストによって神の前に出ることができるのです。新約聖書ヘブル人への手紙10章19節はこう教えています。
 「兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

 聖所とは神のおられるところです。聖所に入るとは、すなわち神の前に出ることです。イエスの血とは、十字架で流された血のことです。更にヘブル人への手紙10章22節は言います。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
 イエス・キリストの十字架によってきよめられて神の前に出ることができるのです。

 (PBA制作「世の光」 2016.10.22放送でのお話より )
 
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