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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■すべてを捨てて従う? / 関根弘興

2014年12月08日 | Weblog
2014/12/8放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 聖書に登場するイエス・キリストの弟子の中でペテロという人がいます。ペテロの職業はガリラヤ湖という湖で漁師をしていまし。そんなペテロにイエス様は「これからあなたは人間を獲るようになるのです。」と語られたんです。

 「人間を獲るようになる」っていうのは別に人を獲って食おうということではありません。多くの人をイエス・キリストの恵みと救いという、まさにセーフティーネットの中に集めるための尊い働きをするという意味なんですね。するとペテロは、何もかも捨ててイエス様に従って行ったんです。 

 「えっ? 何もかも捨ててイエスに従った??」 驚かれるかもしれませんねえ。こうした話を聞くと、「いやー、イエスに従うためにすべてを捨てなければいけないのですか? 私には到底無理です。とてもできませーん。」と言われる方もいます。

 この「何もかも捨てて」というのは文字どおりすべてを捨てて何も持たないということではないんですねえ。聖書全体を通して教えられることはそういうことではなくて、すべてを捨ててということはですね、意識を変革するということなんです。それは、今まで自分のものはもちろん自分のものだと思っていたと思います。しかしそうではなくて、今あるものすべてが神様のものだと認めるということなんですね。自分自身も今置かれている場所も与えられてる様々なものも、本来神様のものであり、神様があなたにそれらを託し管理を任せてくださっているという、そういう意識の変革を行なって生きるということなんです。

 例えば会社のことを考えください。社長が、「この会社は俺のものだ。だから俺の好きなようにするぞ! 使いたいように使い、やりたいようにやるぞ。思うように、自分の思いのまま行なうぞ!」 こんな社長の会社は成り立ってきませんね。きちんと与えられているものを管理していかなければ、立ち行きません。

 つまり、すべてを捨てて従うということは、自分のものは自分のものという意識から、すべては神様から託されたものだ、だから任されたものを大切に扱っていこう、というこういう意識の変革の中に生きるんです。そしてこのことは結果的に自分をそして他の人たちを大切にすることに繋がっていくんですね。イエス様にすべてを捨てて従うとは、神様から託された人生を大切に生き、イエス様の約束のことばを信頼して生きていくということなんです。

 弟子のペテロは思い切ってイエス様に従う道を選び取ってきました。なぜならイエス・キリストに信頼する者は決して失望に終わることが無い(参照 1ペテロ 2章6節、ローマ 9章33節、10章11節)、ということを彼は知ったからです。

 (PBA制作「世の光」2014.12.8放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■真珠湾攻撃総隊長淵田美津雄  /  羽鳥頼和

2014年12月06日 | Weblog
2014/12/6放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は、イエス・キリストに出会い、生き方が大きく変わった人についてお話しします。

 その人の名前は淵田美津雄と言います。今から73年前の12月8日、真珠湾攻撃に加わった淵田美津雄は戦後クリスチャンになりました。真珠湾攻撃の(空襲部隊)総指揮官であった淵田は「トラトラトラ」、我奇襲ニ成功セリ、の電文を打ちました。彼は英雄になったのです。そんな彼は広島に原爆が投下されるとその翌日に広島に入り、そして被爆してしまいました。敗戦後アメリカを憎んだ淵田はアメリカが日本人捕虜にひどいことしたに違いないと独自に調査を始めました。ところが調査をしているうちに日本人捕虜たちから親身になって面倒を見てくれたアメリカ人のクリスチャン女性の話を聞きます。その女性は宣教師だった両親を日本兵に処刑されたのだそうです。なぜ憎い敵にそんなに親切にできるのだろう・・・。不思議に思った淵田はキリスト教に興味を持ち、自分で聖書を調べました。そして十字架の上でイエスが「父よ、彼らをお赦しください。」と言ったことばを知りました。淵田は自分の罪のために十字架にかかってくださったイエスが、自分が赦されるために祈ってくださったことを知ったのです。こうして淵田は洗礼を受けてクリスチャンになりました。淵田は戦後8年目にアメリカに渡り、アメリカ中で自分がクリスチャンなったことを話しました。まだ日本人に対する憎しみが多い時です。ある集会後、一人の女性が小さな男の子を連れてやってきました。そしてその女の人は言いました。「この子は真珠湾攻撃の日に生まれたのです。そして主人はその日に戦死しました。」 淵田は困惑しました。しかしその女の人は言ったのです。「今日、私はあなたがイエス様を信じたことを知りました。ぜひこの子のために祈ってください。」 内田は救われる思いでした。そしてその子のために心から祈ったのです。それから十年近くが過ぎ、淵田がアメリカに行くと、一人の青年がやってきました。彼はあの時の男の子でした。憎しみの連鎖は絶たれ、本当の和解がもたらされました。

 イエス・キリストはあなたにも素晴らしい救いを与えてくださいます。明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2014.12.6放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■苦難の日に…神に向かって…  / 岩井基雄

2014年12月05日 | Weblog
2014/12/5放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 いよいよ12月になりましたね。今年も私たちの人生には様々な苦難がありました。終わりが無いかのように思われる苦難の中で、私たちはどうすることができるのでしょうか。今日は旧約聖書の詩篇86篇から、ダビデの祈りをご一緒に考えてみましょう。 

 まず、6節から7節をお読みします。

 「主よ。私の祈りを耳に入れ、私の願いの声を心に留めてください。私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。
    旧約聖書 詩篇86篇6節、7節

 私たちは心の痛みを誰かに話し理解して欲しいと願いますねえ。もし私たちが私たちを愛し、見守っていてくださる創造主である神を知り、その方に心から祈るなら、慰めと平安と力が豊かに与えられる、と聖書は語っています。この86篇の作者であるダビデは、先の王サウルに妬まれ、幾度もいのちを狙われる経験をし、王となったあとも大きな罪を犯して心が裂ける程の苦しみを味わいます。外から来る苦難、自分の罪や過ちから来る後悔の思いと苦しみの中で、彼は神に叫び求めたのです。その祈りはこう続いています。
 「わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。・・・しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。」 詩篇86篇12節から15節

 自らの罪を認め、悔い改める中で、神の憐れみと愛、赦しと恵みを受け取った彼は陰府(よみ)の深みから救われ、心からの感謝と賛美をささげているのですね。愛なる神は、過ちや罪を犯してしまう私たちを憐れみ、私たちの代りに独り子イエス・キリストを十字架にかけ、私たちへの愛と赦しを豊かに示してくださったのです。私たちを命へと導くために神が苦しみ、犠牲を払ってくださったからこそ私たちは苦難から守られ、救われることができるのです。あなたも神のもとに来て、神に叫び祈り、真の赦しと平安を受け取りませんか?

(PBA制作「世の光」2014.12.5放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■雪のように白くなる / 福井 誠

2014年12月04日 | Weblog
2014/12/4放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。 今日のバイブル・メッセージは「雪のように白くなる」です。それではイザヤ書1章18節から読んでみましょう。

 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

 今日からイザヤ書を見て参ります。紀元前700年頃、イザヤという預言者が活躍した時代、南ユダヤ王国は隣の北イスラエル王国、更にアッシリヤによる侵略を受け、 もはや古き良き時代は消え失せていました。民の心も荒れ廃れ、神様に対する礼拝は守られていましたが、命のない形式的なものでした。誰も彼もが今のこの時代に神がいるとは真剣に考えることのできない状況でした。そんなこの世の現実に埋没した日々を送る南ユダ王国の民に対して、預言者イザヤを通して語られます。

 「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。」(イザヤ書 1章16節)

 「『神様なんていない。正しい者なんかありやしない。』 そんなことは考えていないで、心を正して悪を捨て去り、生きておられる神が共におられることを意識して生きなさい。」と言うわけですねえ。そして、ただ心を入れ替えて正しい人生を歩みなさいというのではなくて、続けてこう言います。

 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書 1章18節)

 神は私たちが変わろうとするその心を後押ししてくださる、と言うのです。確かに私たちは自分の人生が荒んでいくと思うよな時に、変わりたいと思っても変わらないことがあるものですねえ。自分を変えて新しい人生を歩みたいと思っても、その気持ちを人から阻まれたり、いや変われっこないなどと自分自身で封じ込めてしまったりすることがあるものです。しかし聖書は私たちに約束を与えています。「緋のように赤くても、雪のように白くなる。」  

 この神の約束を信じて歩むことがまさに信仰を持つことなのです。信仰は主のお約束に基づくもの、主のことばに依り頼みつつ歩むことです。ぜひ聖書を読んで、そこにたくさんの主の約束が描かれていることを見出していただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2014.12.4放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■転ばぬ先の杖 / 板倉邦雄

2014年12月03日 | Weblog
2014/12/3放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。 今日は「転ばぬ先の杖」という題でお話ししましょう。

 神である主は私たちが困難な出来事にあっても転ばないようにする杖を用意してくださるのです。神である主はモーセに、長老たちと一緒にエジプト王の前に行くように言いました。そして「次のように言いなさい」と言ったのです。 「ヘブル人の神、主が私たちに現れました。それで私たちを三日の道のり程、荒野に行かせて、私たちの神・主に犠牲を捧げる礼拝を許してください。」 「しかしエジプトの王様は強い手をもって迫らなければあなたがたを荒野の礼拝には行かせないことをわたしはよく知っている。」 (出エジプト記 3章18、19節参照)  神である主はエジプトの王様が奴隷であるヘブル人たちを簡単に自由になどするはずが無いことはわかっていました。安い労働力を手放す訳がありません。その事をよくよく覚悟してエジプト王様と交渉するように神様はモーセに諭しているのです。
 人間的には不可能に近い大きな山がそびえていました。しかし神である主は約束します。「それでわたしは手を伸ばしてエジプトの国内に様々な不思議な災いをもって打つ。そのあとでエジプト王はあなたがたを去らせるであろう。」(出エジプト記 3章20節参照)

 約束は破るためにあると豪語する人がいます。私たち人間の社会では約束はしばしば破られます。しかし神である主の約束は必ず実現するのです。私たちは不真実ですが、神である主は常に真実なのです。問題は私たちが神である主の約束を信仰と希望、そして忍耐をもって待ち続けられるか、という点です。

 聖書のことばです。
 「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」(ヘブル 10章36節)

 さらに神である主の約束は続きます。
 それは、持ってけ泥棒、のような信じられない約束の杖でした。
 「わたしはわたしのためにエジプト人の好意を得させる。あなたがたが去るときに空しい手、手ぶらで去ってはならない。女性は隣のエジプト人の女性に賃金の飾りや衣服を求めなさい。喜んで与えてくれるでしょう。」 (出エジプト記 3章22節参照) 

 神である主は私たちが困難に当たる前に転ばぬ先の杖である約束を用意しておられるのです。

 (PBA制作「世の光」2014.12.3放送でのお話より )

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■お言葉どおりなりますように (1)   / 大嶋重徳

2014年12月02日 | Weblog
2014/12/2放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 新約聖書のルカによる福音書1章には、御使いがイエス・キリストの母となったマリアに現れる箇所がでてきます。御使い ガブリエルが入って来るとマリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。」 突然、部屋の中に天使っぽい人が入って来るだけで驚きですが、しかも御使いは、「あなたは妊娠をしていて男の子を産みます。」と言う、突然の宣言をマリアは聞くのです。

 マリアが住んでいたガリラヤのナザレは人口500名ぐらいの小さな村で、親も周りも神を信じるユダヤ人に囲まれた、今で言う教会学校で育ったクリスチャンホームの一人でした。周りの誰もが自分を知っている、そんなマリアの人生に、とてつもないことが起こりました。結婚を約束している女性が妊娠をする。・・・マリアの頭に浮かんだであろう500人近い町の人の顔。更には両親の失望。宗教的なモラルに取り囲まれたこの村で、このあと自分は生きていけないようなそんな大スキャンダルが自分の身に起こったのです。何より頭に浮かんだのは、婚約者ヨセフの顔だったでしょう。 「今日、天使が現れて、私妊娠したらしいんだよね。」と言った所で信じてはもらえない。必ずどこかの誰かとの関係が疑われ、婚約が破棄される。ヨセフの受け止め方次第では石打ちの刑になる。そんな事態がマリアを取り囲んだのです。

 私たちはこのクリスマスの受胎告知を美しい物語のように思い浮かべます。しかしマリアに襲ったのは、余りにも深刻な状況でした。彼女は叫びます。「どうしてそんなことになり得ましょう。」 

 クリスマスは実は1年間の内、自分で死を選ぶ人が増えるそういう時期です。自分の人生にはどうしてこんなことが起こるのだろうか。悲痛な叫び声が世界中であがり、絶望の中で命を絶つ人たちもいます。まさにマリアに起こった出来事のようです。

 しかし世界の救い主はそのような状況で生まれました。悲しみと不安の中で神が共におられるというクリスマスが始まったのです。そしてマリアもこのあと死を選ぶことをせず、イエス・キリストを産むことを選んでいきます。一体、マリアの人生に何が起こったのでしょうか。今月はご一緒にこの箇所から見ていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2014.12.2放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■むなしい朝から / 関根弘興

2014年12月01日 | Weblog
2014/12/1放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 聖書に登場するイエス・キリストの弟子の中で最も有名な一人はペテロです。このペテロの職業はガリラヤ湖という湖で普通の漁師をして生活をしていました。ある時イエス様はペテロたちが漁をしている湖のほとりに来られたんです。そこには大勢の群衆がイエス様のもとに迫ってきました。するとイエス様はペテロの持ち舟を借りて、それに乗って湖に少しだけ漕ぎ出して、そこから岸に向かって説教を始められたんです。(ルカ 5章1~3節 )

 実は前の晩、ペテロたちは夜通し働きましたが一匹も魚が取れませんでした。魚が取れないということは死活問題ですよね。そしてペテロは空しく網を洗い、片付けをしていたんです。そんな時、イエス様が来て、ちょっと舟を貸して欲しいという訳です。人間にとって最もプライドが傷つけられるのは自分の得意としていることがうまくいかない時ではないでしょうかね。ペテロはガリラヤ湖の漁に自信を持っていたはずです。でも今、空しく網を洗い、よりによって商売道具の舟を説教台代わりに使われている訳です。

 私たちの人生にもこのペテロと同じような経験があるように思います。一所懸命働いたけれど何も獲れない。労すれど労すれど結果が見えて来ない。一所懸命尽くして万全の準備をして取り組んだのに失敗してしまった。自分ならきっとできると思っていたのに実際には何もできなかった、というようなそんな経験です。

 でもこの空しい朝の経験こそ大切なことが教えられていく朝となることをあなたは御存知ですか?

 イエス様は説教を終えると、ペテロに「深みに漕ぎ出して網を下ろして魚をとりなさい。」(ルカ 5章4節 )とお命じになりました。一晩中網を降ろしていたのに一匹も獲れなかったんです。網を洗って片付けが終わってホッとしてる所なのに、また網を降ろすなんて冗談じゃないよ、と文句の一つも言いたくなると思いませんか? でもペテロは、「おことば通り、網を降ろしてみましょう。」(ルカ 5章5節 )と、自分のプライドを捨ててイエス様のことばの通りにしたんです。すると網が破れそうになるほど、たくさんの魚が獲れたんです。

 するとイエス様は、「これからあなたは人間をとるようになるのです。」(ルカ 5章10節 )と語られました。人間をとるようになるというのは、人を獲って食おうということではありません。多くの人をイエス様の恵みと救いという、まさにセーフティーネットの中に集めるための尊い働きをするという意味なんです。空しい朝は新しい希望の朝に変わっていくんですね。

 (PBA制作「世の光」2014.12.1放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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