2022/3/8放送
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
ルカ福音書を順番に読んでいます。
ルカの5章で、イエス様は一晩魚の捕れなかったペテロに言われました。「深みに漕ぎ出して網を下ろしなさい。」
「深み」とは何でしょうか。 深みとは、光が湖の底まで届かずに自分の目では足の着くところが見えない、そんな場所です。つまり、自分の目で見えている現実で測り得る浅瀬から、自分の足で立つことの出来ない深みへ行きなさい、と言われたのです。今までのあなたの経験、価値観、常識から、わたし私のことばに従って、あなたの現実の更なる深みに信仰をもって漕ぎ出しなさい、と、イエス様は言われています。
皆さんにとって「深み」とは一体どこでしょうか。今日、イエス様はどのような深みに漕ぎ出すようにと示されているでしょうか。
するとペテロは驚くことに「でも、おことばどおり、網を下ろしてみましょう。」と言います。魚が捕れない現実があったにも関わらずです。この「でも」ということばが、神様の前では求められるのです。信仰はいつもこの「でも」を言うことを求めていきます。
昨夜から今朝方まで続いた魚が捕れなかった現実はある。「でも、おことばどおりに」という告白。クリスチャンとはこの「でも」を語る人のことです。
むしろ私たち人間の側の「でも」の使い方は、いつも「イエス様はそう仰いますけれども・・・、『でも』現実は違うんです。」と言いがちです。「イエス様はそうは仰いますが、『でも』私には賜物がありません。」「聖書が言うことはわかります。『でも』あの人間関係では・・・無理なんです。ずっと私はやってきたんです。もうこれ以上、失望したくはないんです。」
しかしこの時のペテロの「でも」は私たち人間の「でも」のもう一つ向こう側に行ったのです。逆転の「でも」です。
この「でも」が人生を大きく分けます。私たちの経験では到底不可能だと思える現実がある。私の側のいつもの「でも」から、神の側のことばに従う「でも」。この大いなる「でも」があるかどうかであなたの人生が決まってきます。
今日、あなたが神の側の「でも」を言うあなたの人生の深みに漕ぎ出してみませんか? 到底不可能に見えることにも神のことばがあなたの味方をしてくれます。あなたにはイエス様がついていてくれる。だからこそ私たちは「でも」と言えるのです。
( PBA制作「世の光」 2022.3.8放送でのお話しより )
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