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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■過失の罪と故意の罪/羽鳥頼和

2016年02月06日 | Weblog
2016/2/6放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は旧約聖書民数記15章で語られている過失の罪と故意の罪についてお話しします。

 神はイスラエルの民に過失の罪と故意の罪について教えられました。過失の罪とは気づかずにあるいは過って罪を犯してしまうことです。過失の罪を犯した場合、心から悔い改めて神にいけにえを捧げることを神は命じました。イスラエル人も彼らと共にいる在留外国人も個人であっても集団であっても罪を赦されるためにいけにえをささげなければならない。いけにえを捧げればその罪は赦されると神は言われました。他の罪と同じように神は命じたのです。

 続いて罪であると分かっていながら犯す罪、つまり故意の罪について神は教えられました。故意に罪を行う者は死罪にしなければならないと神は命じています。故意に罪を犯す者は神を冒涜する者であり、神を侮る者なのです。

 続いて実際の事件を記しています。ある人が安息日に薪(たきぎ)を拾っていました。律法では安息日に仕事をしてはいけないとあります。モーセは彼を捕えました。しかし彼らは彼をどうしたらよいか困りました。神は彼を死刑にするように命じます。

 なぜ薪(たきぎ)を拾っただけで殺されなければならないのでしょう。神は安息日にはすべての仕事を休んで神を礼拝するように命じていました。この人はその事を知っていながら薪(たきぎ)を拾ったのです。つまり彼が行なったのは故意の罪でした。彼は神を侮って神の命令を軽んじていたのです。神はその事を御存知だったのです。

 この事件の後、神はイスラエルの民に着物の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青い紐を付けるように命じました。それはイスラエルの民がこの房を見てこの事件を思い出し故意の罪を犯さないようにするためでした。

 薪(たきぎ)を拾うことが悪いのではありません。神の命令を軽んじることが悪いことなのです。罪とは神を軽んじることと言うことができると思います。神かを軽んじないで神を重んじましょう。信仰とは神を重んじることです。

 明日は日曜日です。神を重んじて礼拝するためにぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.2.6放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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