ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

家原の英霊碑

2010年10月15日 05時16分40秒 | Weblog
 加東市社の市街地を北の方角へ歩いていくと、大きく下り坂になり、旧国道175号と合流して、家原の赤岸(あかぎし)交差点になります。
 この赤岸に観音寺があり、赤穂四十七士の墓標があることで知られています。この観音寺に接して南側に墓地があります。この墓地の南端に大きな石碑があるのですが、それが写真の英霊碑です。
 この墓地は家原の墓地ですが、英霊碑の裏には郷土から出征して戦没された軍人の名前が刻まれています。日清戦争1柱、支那事変3柱、大東亜戦争21柱の計25柱です。建立年は見当たりませんが、碑の前の階段の石柱に昭和二十八年九月建立と刻まれていました。講和独立の翌年にあらためて整備されたものでしょう。道路から階段を下りた墓地の入口にも石柱が建てられており、そこには大正十年五月建立と刻まれています。今は道路が高くなっていますが、この墓地の面が道路面であったと聞いています。
 墓地では、毎年12月14日の義士祭に剣道少年団の試合も行われます。また、春には墓地の桜が見事に咲き誇ります、。そんな墓地の一角に英霊碑があるのです。
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平成22年秋-上組屋台

2010年10月14日 05時01分08秒 | Weblog
 10日、佐保神社秋祭の本宮での宮入、練り合い、そして下向、と今年も上組の屋台はその勇壮な姿を惜しみなく披露し、屋台倉まで帰ってきました。
 今年は雨で宵宮の巡行ができず、そして、本宮も午前中はまだ雲が空を覆っていました。しかし、宮入りの頃には抜けるような澄んだ青空とまぶしい光が差し込み、屋台の飾りを一層美しく輝かせてくれました。
 空の青さと屋台の輝きの美しさに、思わずシャッターを押しました。平成22年秋の上組屋台です。
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「小部野」の地名が佐保神社の幟に

2010年10月12日 19時50分04秒 | Weblog
 この写真は、佐保神社の秋祭りに境内に立てられた幟の一本で、ちょうど大門地区の獅子舞が披露されているときに写したものです。幟の下部のところに氏子の村の名が書いてあるのですが、そこに「小部野」と書かれた三文字が目に飛び込んできたのです。
 小部野と書いて「おべの」と読みます。古い地図(国土地理院の地形図)には小部野という地名があったのですが、今では地図からも消えてしまった地名です。
 今の加東市野村地区(旧社町の西部、加古川沿いの地区)の中の一区域が小部野の名で呼ばれていました。この野村の地名は「野」村で、播磨風土記に記された「穂積里」のうちに小目野(おめの)という野があり、これに由来すると伝えられています。この野に播磨の国を巡回された応神天皇が野宿をしたときに、四方をご覧になって「あれは海か、河か」と問われ、従者は「これは霧です」と答えると、「大き体(かたち)は見ゆれども小目なきかも」(だいたいの形は見えるが、細部はよく見えない)と言われたことから、小目野という地名が起こったと記されているそうです。(『新修加東郡誌』)
 そんな古い地名が幟にあったのです。社小学校の校区の中でも一番遠い地区で、約5キロはあると小さい頃から聞いていました。この小部野から通っていた友達もいました。そんな風土記の古い時代に由来する地名を秋祭りの幟に見つけたので紹介しました。
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朝日に向かって-高岡

2010年10月12日 04時45分46秒 | Weblog
 加東市の西部を北から南に向かって流れる加古川。その西には広大な青野原台地が広がっています。国道372号線は姫路から加西を抜けてこの台地、加東市の高岡地区を走り、台地を一気に下って加古川を渡ります。
 その高岡の台地を早朝、東に向かって車を走らせているとき、視界にまぶしい朝日が入ってきました。まるで、朝日に向かって吸い込まれるように走っているようでした。
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勇壮な屋台宮入-佐保神社秋祭

2010年10月11日 05時21分30秒 | Weblog
 10日(日)、佐保神社(加東市社)の秋祭りが行われました。宵宮は雨でしたが、10日の本宮は雨も上がり、宮入が行われる昼過ぎには空が晴れて青空が広がり、まぶしいほどの光の中で、豪華屋台の町内巡行や宮入りが行われました。
 佐保神社には、新町、上中、社上組、社下組の4台の豪華な屋台が出て、順番に宮入りを披露しました。境内では、上田地区、大門地区の獅子舞の奉納、剣道大会も行われ賑わいました。
 写真は練り合いを終え、下向の時の上組(右)と下組(左奥)の屋台です。
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上組屋台-本番直前

2010年10月10日 05時26分31秒 | Weblog
 佐保神社(加東市社)の秋祭りは9日が宵宮、10日が本宮になっています。8日夜、社の上組(かみぐみ)の屋台倉では、宵々宮が行われました。生憎の雨になってしまいましたが、保存会の若者が急遽テントを設置して、宵々宮が行われました。
 宵宮、本宮に備えて約一ヶ月間、太鼓の練習や飾り付けなどの準備をしてきた若者と乗り子の子ども達が本番直前の練習を披露してくれました。雨はだんだん強くなり、宵宮の町内巡行が難しいという話が出る中、太鼓の響きは一層強くなっていくようでした。
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紙芝居の路地

2010年10月09日 04時50分26秒 | Weblog
 加東市社の市街地のほぼ中央にある加東市商工会館から東へのびる田町(たまち)通りは、かつて、多くの店屋が建ち並んで賑わった商店街でした。豆腐屋、肉屋、おもちゃ屋、菓子屋、靴屋、畳屋、銀行、食堂、散髪屋、酒屋、自転車屋、本屋、歯医者、衣料店、お好み焼店、たばこ屋、こんぶ屋、クリーニング屋・・・まだまだあったと思います。
 東西にのびる通りには南北に交わる何本かの路地があります。通りの真ん中あたり、中田町と東田町の境になっている路地を北にはいると、すぐ右に定門地蔵があります。この地蔵さんの前の路地は私たちが小さい頃の遊び場でした。子どもが多かった時代ですから、みんなで集団になって遊んでいました。テレビも普及していなかった頃なので、みんな外で遊んでいました。
 何よりも楽しみだったのは、この地蔵さんの前に来る紙芝居でした。親から5円か、10円もらって走っていき、水飴や菓子を買って紙芝居を見るのです。もう遠い記憶になってしまいましたが、おじさんのぎろっとした目玉なんかはよく覚えています。
 今は子どもの遊ぶ声も姿もありません。また、通り抜ける人もあまり見かけませんが、目を閉じると当時の賑やかな光景が浮かんできます。
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お風呂屋さんの塀

2010年10月08日 05時42分40秒 | Weblog
 加東市社の旧役場のあったところの南に、今は駐車場になっている場所があります。旧役場跡は連合区の駐車場や消防会館(兼消防団詰所)になっていますが、一軒おいて路地があり、その南側は駐車場になっています。かつて、この場所にはお風呂屋さんがありました。煉瓦づくりの高い煙突があり、その先端に避雷針が取り付けられていたことを覚えています。私が小学生だった昭和30年代に続けて火事になり、その後廃業されたように思います。
 そのお風呂屋さんの玄関は西側を向いていたのですが、当時の塀の一部が今も駐車場の一角に残っています。近所の方に聞いてみると、これは確かに風呂屋の塀だということでした。風呂屋の北側の路地から、高いところにある窓を通して、話し声や桶や湯を流す音が響いて聞こえてきたことが懐かしく思い出されます。
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上鴨川住吉神社神事舞②

2010年10月07日 06時58分48秒 | Weblog
 昨日に続いて、上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)の宵宮で舞われた神事舞の写真を紹介します。昨日のリョンサン舞のリズムをとっているのが、笛と太鼓です。境内の舞堂の縁に腰掛けて、田楽を舞う装束をつけた若い衆が太鼓をたたいていました。
 本当に単調な繰り返しのリズムなのですが、その単調さとゆっくりさが中世の世界へと私たちを引き込んでくれるような気がしました。
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上鴨川住吉神社の神事舞

2010年10月06日 05時01分16秒 | Weblog
 4日夜、上鴨川住吉神社の祭に行ってきました。毎年10月4、5日にわたって祭礼が行われます。4日は宵宮。境内では、股木にたてかけられた柴が勢いよく燃え上がり、夜空に火の粉が舞い上がっています。
 やがて、中世の武士のような装束で、鶏の兜と面をつけたリョンサン舞が始まりました。笛と太鼓の単調なリズムで、御幣をつけた木の鉾を持って踊り始めます。境内では待ちかねたようにカメラマンがシャッターを押し始めました。
 この神事舞は、昭和38年(1963)に兵庫県の重要無形文化財に、そして、45年には国の無形文化財、52年国の重要無形民俗文化財に指定されている貴重な民俗芸能です。中世から宮座とともに守り伝えられてきた上鴨川住吉神社の祭礼ですが、少子高齢化が進み、その維持継承についてのご苦労も聞きました。
 燃え上がった斉灯の中心の股木の股の間だから拝殿の電灯が見えます。舞いの位置決めにするそうですが、そんなことを教えてもらい感心してしまいました。

 
 
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東実阿弥陀堂の手洗水

2010年10月05日 04時40分59秒 | Weblog
 加東市東実の阿弥陀堂の境内の真ん中に手水の大きな手洗の石があります。水道の蛇口、石の上に置かれたやかんが、このお堂と墓にお参りする人々の動きを感じさせてくれます。
 いつ頃のものだろうと石の側面を見てみると、「手洗水」と縁取られて刻まれた文字と、寛政十一年の文字が読み取れました。寛政十一年といえば、西暦1799年で、まさに18世紀末ですから、200年余り前につくられたもので、先日紹介した上部が崩れた石燈籠と同じ頃のものということになります。
 寛政といえば、老中松平定信による「寛政の改革」が頭に浮かんできます。「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといふて夜もねられず」、「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」といったきびしい改革への批判は有名です。その頃なんですね。伊能忠敬や近藤重蔵らが北方探検をした頃でもあります。そんな頃からこうしてこのお堂に参る人々の手を洗い清め続けてきたんですね。
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雨の中で宮入-牧野の住吉神社

2010年10月04日 05時26分23秒 | Weblog
 3日(日)、市内各地で秋祭りが行われました。昼前からぽつぽつと落ち始めた雨は、昼頃には本降りとなり、ちょうど神輿や太鼓屋台の宮入りの時間帯に生憎の雨となってしまいました。
 2時過ぎ、加東市牧野の住吉神社では、境内に透明のビニール合羽をつけた太鼓屋台が宮入しました。間に合うかなと気をもみながら境内下まで車で駆けつけると、境内であと一回練りをするところだ、ということで法被を借りて一緒に屋台を担がせてもらいました。
 昨年に続いて2度目でしたが、50戸余りの牧野地区で、伝統を守り伝える見事な屋台太鼓を差し上げて行われる宮入。「ええでしょう」と誇らしげに皆さんが語っておられる。境内では、雨にもかかわらず、地区の人が見守り、子ども相撲も行われました。
 去年は神社拝殿の龍の見事な彫り物について、区長さんから教えていただきましたが、今年は、屋台の彫り物も古いものをそのまま新しい屋台に飾っているということを教えてもらいました。
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東実阿弥陀堂の石燈籠

2010年10月03日 05時45分16秒 | Weblog
 加東市東実の集落の南側には、黄金色に色づいた田圃が広がっています。その中に阿弥陀堂があります。加東郡八十八ヶ所霊場の八十三番霊場で、お堂の入口には石柱が建てられています。その脇には、右八十四番と刻まれた道標も置かれています。八十四番霊場は山国の妙仙寺です。
 さて、その阿弥陀堂の境内の中に、上部が崩れていかにも古そうな石燈籠がありました。刻まれている建立年の文字を見ると、「寛政」の文字が見えました。寛政年間といえば、18世紀の終わり頃になりますから、200年余り前に建てられたものだということになります。
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蘭学者-村上代三郎の物故記事

2010年10月02日 05時59分47秒 | Weblog
 明治15年(1882)2月26日付の「神戸新報」に、村上代三郎の物故記事が掲載されています。

○彼の旧幕府弘化年間に蘭学を以て登用せられ名を海内に轟かせし播磨国加東郡木梨村平民村上大(ママ)三郎翁も予て病痾に罹られ居しが去る廿日終に物故せら(ここまで)

 村上代三郎は記事にある通り、上福田村木梨(現加東市木梨)の人です。よく知られているのは、緒方洪庵の適塾で塾頭をつとめ、後に幕府講武所の師範となったほどの学者だったが、故郷に帰り、家塾を開いていた。村上代三郎のもとには江藤新平をはじめ、全国から人々が教えを乞いに訪ねてきた。明治4年には、兵庫県知事の伊藤博文も訪れたといったことです。村上代三郎が故郷に帰ってきたのは、幼くして父を喪い、母の手で育てられた代三郎にとって、故郷を離れることを望まなかった母の思いに応えて木梨村に帰ってきたということです。

文政11年(1828)  6歳  木梨村、龍田謙益に入門し漢学を修める
天保11年(1840) 18歳  大阪の緒方洪庵に就いて蘭法医学を修める
嘉永2年 (1849) 27歳  同窓の大鳥圭介らと江戸へ
安政4年 (1858) 36歳  幕府講武所の師範となる(1年で眼病のために帰郷)
明治15年(1882) 60歳  没 
                『加東郡誌』より
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