リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」
指揮:フランス・ウェルザー・メスト、演出:ハリー・クプファー
クラシミラ・ストヤノヴァ(ウェルテンベルク侯爵夫人)、ギュンター・グロイスベック(オックス男爵)、ソフィー・コッシュ(オクタヴィアン)、モイツァ・エルトマン(ソフィー)、アドリアン・エレート(ファニナル)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団
2014年8月14日 ザルツブルグ祝祭大劇場 2014年11月 NHK BS
「ばらの騎士」はもっとも多くの回数見ているオペラかもしれない。それだからか、こうしてまたきれいな映像で見ていると、いろんなことに気がつく。
このホフマンスター原作の世紀末の作品、主役のひとりとして「時間」がある、ということはこれまでも言われてきたように思う。たしかに時間の経過、それに対する各人の思い、悲しみは全編を通じて織りなされていく。そしてその中で最後に前に押し出されるのは、若い世代のカップルで、侯爵夫人は未練に曳かれながら、道をゆずり肩を押し、それで幾分自己を肯定していく。その一方でオックス男爵は、地位としての横暴、男としての社会的性的な横暴が砕かれ、追いやられていく。
この中で以前から不思議に思っていたのは、オックスへの仕打ちがあまりといえばしつこい、なぜ?ということ。注意して見ているとわかってくるのだが、オックスは田舎に領地を持っているがそれほど大きいわけではなく、ウィーンにもうといしあまり好きではない。貴族としての地位だって高いとは言えず、そう知られてはいない。だから最後のあたり、それでも演ずる歌手が音楽的にばかりでなく、見かけも演技も立派であってはじめてドラマとしてバランスが保てる。
それに比べればオクタヴィアンは一番のもうけ役、侯爵夫人の若い愛人(つばめ)でなんと17歳、銀のばらを届けた相手ソフィーと今度は相思相愛になってしまい、最後は計略も大成功、侯爵夫人からも背中を押され祝福される。
さて今回見ていて、そうかと思ったのだが、こうやってオクタヴィアンのいろんな面をちょっとねえと見させているのは、オクタヴィアンに対する批評性かもしれない。こうして時代は、世代は移っていく、うまく切り抜けていくものはいて、それでこそ継続性は保たれるのだが、さてそれでそこにペシミスティックな想いは出てこないだろうか。
歌手は先の「ウェルテル」のシャルロットで初めて知ったソフィー・コッシュ(オクタヴィアン)を除くと初めて知った人ばかり。そのコッシュはシャルロットでも凛々しい感じがしたように、ここでは男装の麗人といってよく、侯爵夫人が好きになりそうなのもわかる。
侯爵夫人のストヤノヴァ、姿も歌もぴたりとあって、これまででもトップクラスと私は思う。
オックス男爵のグロイスベックの男爵、歌も演技も文句ないけれど、風采がモダーンすぎるかなと思う。
エレートのソフィー、ソフィーはこういう感じがいい。コッシュとならぶと同じくらい身長はあるのだが顔に幼さもあり、二人の重唱は見ていて、聴いていてうっとりする。
とここで欲を言えば、コッシュのオクタヴィアンはズボンが似合いすぎていて、本当はもう少し女性の体つきが残った姿、というのが男性から見てかもしれないが、このオペラを見る楽しみなのだが。そして先に書いたオクタヴィアンに対するホフマンスタールの批評性を具現化するために、シュトラウスの発案かどうかは確かめていないが、女性にズボン役でやらせて観客にいろいろ考えさせるとすれば、そこはあと少しだったかと考える。
演出は、特に舞台がちょっと変わっていて、貴族屋敷の室内を思わせる背景・道具がほとんどなく、モノトーン主体の屋外(公園)と室内が切れ目なくつながっていて、それをむしろ利点として照明でいろんな細工をしている。また植物園の巨大な温室みたいなものも。壁、床、衣装など、ワインカラーとモスグリーンなどの色使いに慣れた目にはちょっとした驚きだった。
ウェルザー・メストの指揮は、長く手慣れたウイーン・フィルだからか手堅くたるみはないけれど、全体に明解なダイナミック、早めのテンポがちょっと過ぎる感もあり、この作品ではやはりサビのところはもうすこししっとりしてほしいとも感じた。
ところで「ウェルテル」を見て、シャルロット(コッシュ)の妹ソフィー役のリゼット・オロペーサにズボン役を期待してしまったのだが、すぐ後にコッシュのオクタヴィアンを見るとは思わなかった。彼女の方が上記のイメージではある。そして不思議なのはコッシュのファースト・ネームはソフィーで、この二つの作品でどちらもソフィーという役名の女性が近くにいる。
指揮:フランス・ウェルザー・メスト、演出:ハリー・クプファー
クラシミラ・ストヤノヴァ(ウェルテンベルク侯爵夫人)、ギュンター・グロイスベック(オックス男爵)、ソフィー・コッシュ(オクタヴィアン)、モイツァ・エルトマン(ソフィー)、アドリアン・エレート(ファニナル)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団
2014年8月14日 ザルツブルグ祝祭大劇場 2014年11月 NHK BS
「ばらの騎士」はもっとも多くの回数見ているオペラかもしれない。それだからか、こうしてまたきれいな映像で見ていると、いろんなことに気がつく。
このホフマンスター原作の世紀末の作品、主役のひとりとして「時間」がある、ということはこれまでも言われてきたように思う。たしかに時間の経過、それに対する各人の思い、悲しみは全編を通じて織りなされていく。そしてその中で最後に前に押し出されるのは、若い世代のカップルで、侯爵夫人は未練に曳かれながら、道をゆずり肩を押し、それで幾分自己を肯定していく。その一方でオックス男爵は、地位としての横暴、男としての社会的性的な横暴が砕かれ、追いやられていく。
この中で以前から不思議に思っていたのは、オックスへの仕打ちがあまりといえばしつこい、なぜ?ということ。注意して見ているとわかってくるのだが、オックスは田舎に領地を持っているがそれほど大きいわけではなく、ウィーンにもうといしあまり好きではない。貴族としての地位だって高いとは言えず、そう知られてはいない。だから最後のあたり、それでも演ずる歌手が音楽的にばかりでなく、見かけも演技も立派であってはじめてドラマとしてバランスが保てる。
それに比べればオクタヴィアンは一番のもうけ役、侯爵夫人の若い愛人(つばめ)でなんと17歳、銀のばらを届けた相手ソフィーと今度は相思相愛になってしまい、最後は計略も大成功、侯爵夫人からも背中を押され祝福される。
さて今回見ていて、そうかと思ったのだが、こうやってオクタヴィアンのいろんな面をちょっとねえと見させているのは、オクタヴィアンに対する批評性かもしれない。こうして時代は、世代は移っていく、うまく切り抜けていくものはいて、それでこそ継続性は保たれるのだが、さてそれでそこにペシミスティックな想いは出てこないだろうか。
歌手は先の「ウェルテル」のシャルロットで初めて知ったソフィー・コッシュ(オクタヴィアン)を除くと初めて知った人ばかり。そのコッシュはシャルロットでも凛々しい感じがしたように、ここでは男装の麗人といってよく、侯爵夫人が好きになりそうなのもわかる。
侯爵夫人のストヤノヴァ、姿も歌もぴたりとあって、これまででもトップクラスと私は思う。
オックス男爵のグロイスベックの男爵、歌も演技も文句ないけれど、風采がモダーンすぎるかなと思う。
エレートのソフィー、ソフィーはこういう感じがいい。コッシュとならぶと同じくらい身長はあるのだが顔に幼さもあり、二人の重唱は見ていて、聴いていてうっとりする。
とここで欲を言えば、コッシュのオクタヴィアンはズボンが似合いすぎていて、本当はもう少し女性の体つきが残った姿、というのが男性から見てかもしれないが、このオペラを見る楽しみなのだが。そして先に書いたオクタヴィアンに対するホフマンスタールの批評性を具現化するために、シュトラウスの発案かどうかは確かめていないが、女性にズボン役でやらせて観客にいろいろ考えさせるとすれば、そこはあと少しだったかと考える。
演出は、特に舞台がちょっと変わっていて、貴族屋敷の室内を思わせる背景・道具がほとんどなく、モノトーン主体の屋外(公園)と室内が切れ目なくつながっていて、それをむしろ利点として照明でいろんな細工をしている。また植物園の巨大な温室みたいなものも。壁、床、衣装など、ワインカラーとモスグリーンなどの色使いに慣れた目にはちょっとした驚きだった。
ウェルザー・メストの指揮は、長く手慣れたウイーン・フィルだからか手堅くたるみはないけれど、全体に明解なダイナミック、早めのテンポがちょっと過ぎる感もあり、この作品ではやはりサビのところはもうすこししっとりしてほしいとも感じた。
ところで「ウェルテル」を見て、シャルロット(コッシュ)の妹ソフィー役のリゼット・オロペーサにズボン役を期待してしまったのだが、すぐ後にコッシュのオクタヴィアンを見るとは思わなかった。彼女の方が上記のイメージではある。そして不思議なのはコッシュのファースト・ネームはソフィーで、この二つの作品でどちらもソフィーという役名の女性が近くにいる。