ワーグナー「ローエングリン」
2011年8月14日(日) バイロイト祝祭劇場 NHK BSプレミアム生中継
指揮:アンドリアス・ネルソンス 演出:ハンス・ノイエンフェルス
クラウス・フロリアン・フォークト(ローエングリン)、アンネッテ・ダッシュ(エルザ)、ゲオルク・ツェッペンフェルト(王ハインリッヒ)、ユッカ・ラジライネン(テルラムント)、ペトラ・ラング(オルトルート)、ヨン・サミュエル(王の軍令使)
ローエングリンを聴くのも見るのも随分久しぶりである。音楽はきれいだが、話は好きではない。描いているものがどうということでなく、結末、そこへの持っていき方が、ということである。
話の鍵は日本にもある「鶴」の伝説(「夕鶴」など)と共通していて、現れた救世主の素性を知ろうとした途端、悲しい結末になるというものである。
エルザにローエングリンの素性を知りたいと思わせるために奸計をはかるオルトルート、これがこのオペラのポイントであり、この役は歌唱、演技ともこの作品のなかで一番目立つものである。ただこの役のペトラ・ラングは最初からいかにも悪そうというところが目に見えていている。目をつぶってきけばいいのかもしれないが。
ローエングリン、エルザとも歌唱は気持ちよく聴けるしオーケストラは透明な響きで曲の魅力をうまく伝えている。指揮のアンドリス・ネルソンスは初めて聞く名前であるが、1978年ラトヴィアの生まれらしい。随分若い、そしてこのところバルト地域からは歌手も含め人材輩出が目立つようだ。
メトロポリタンの時も感じたことだが、最近のオペラ録音は大変な進歩で、これが生の舞台録音かと思う。まして劇場の制約の多いバイロイトでここまでとは驚く。
さて問題は演出である。衣裳、装置が現代風なのはかまわない。あまり細かい具象的なしつらえでないのもかまわない。妙な、中途半端な具象よりも、抽象的、象徴的なものの方が、音楽に集中できるし、ワーグナーにはそれが合っているともいえる。
ノイエンフェルスの演出もそういうものであるが、それにしても群衆が変なネズミの背番号付衣裳をつけ、その手袋と足袋もおかしなネズミの動きを強調するもので、関係者のインタビューからするとこれは愚かで付和雷同する大衆を表現しているらしい。それもふくめ、装置を合わせると最初これは精神病院の中で患者によって演じられているように見せているのかと思った。
ネズミの動きがせかせかしているのは演出の意図の強調しすぎの感があり、いらいらする。
そしてテルラムント、オルトルートの最後がわりあい普通なのに、白鳥からエルザの弟へのよみがえりのグロテスクなこと。観客から「ブー」が出たのももっともで、これは一人芝居である。いくらその後の不幸を予言するにしても。
作品そのものをあまり好きではないから、これ以上は言ってもしょうがない。ローエングリンとグラール(聖杯)、円卓の騎士などは、ジークフリートから清らかな愚か者パルジファルにつながる。もちろんこの中ではその強さと弱さを合わせて、ジークフリートに一番感情移入できる。
さて、第三幕の有名な前奏曲のあとにあるのは「結婚行進曲」。最近あまりやらないかもしれないが、一時期はこれが結婚式の定番であった。新郎新婦登場の動きにはよく合うけれども、ローエングリンの結末を考えれば、なぜこのように不吉な曲を使うのかな、と不思議な気がした。
それで自分の時にはメンデルスゾーンを使った。これは「真夏の夜の夢」だからハッピーエンド。それとピーター・ブルック演出で見たこの舞台でこの曲が使われたタイミングのあまりの見事さも頭にあった。
昨年の生中継は確か「ワルキューレ」で貧相な具象の舞台であった。来年の生中継は、何なんだろうか、期待に沿えばいいけれど。