昨日の続きです
両親から受け継いだ遺産はよいものばかりとは限りません。負の遺産もあります。
パウロ先生には大変な持病がありました。眼病? てんかん?……何の病気かわかりませんが、伝道に差し支えが出るほどの病気で、とげを取り去ってくれるように神さまに必死に祈っています。
しかし、そのとげは取り去られませんでした。
聖書には次のように書かれています
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:8-9)
「弱さを喜ぶことが大切です。弱さを神にゆだねること。弱さが御手の中で輝きます。
ていねいな心のこもった奉仕に弱さは不可欠です。」
と牧師先生が言われました。
『弱さが神の御手の中に入ったとき輝く』とは、何と嬉しいことでしょう!
わたしは何の自慢できるものがありません。でも、弱さなら自慢できます。気の弱さは世界一。体の弱さも並はずれています。
以前は弱いことが恥だと思っていました。人間の価値は、体の丈夫さによって決まるとさえ思っていました。大きな仕事をなし得る人、何かをやりとげることができる人は、能力とともに体力がある人だと思っていました。わたしのように疲れやすく、すぐ病気になる人は欠陥人間だと卑下し、元気な人と比べて落ち込んでいました。
ところが、この聖書の言葉に出会って価値観が180度変わりました。
神さまが、弱さのうちに完全に現れて下さるのなら、弱い人の方がすばらしいことができるということになります。
弱さが輝くのなら、弱いことを大いに喜べます。喘息になったこと、乳がんになったことも喜んでいます。
神さまの恵みは十分すぎるほどわたしの上に注がれています。
わたしは、大いに喜んで弱さを誇ります。
おわり
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すばらしい言葉をお伝えくださりありがとうございます。
私も牧師さんから自分の弱さを知るとき、人にも優しくなれると教えてもらいました。
弱さを神さまに打ち明けて、自分の心を柔らかく優しくさせてもらえるように神さまに期待しています。
弱さを誇るものに祝福を!
自分が弱いことを恥と思ったり、弱さを認められなかったりしているうちは、他者を思いやることができないような気がします。
弱さを神様に打ち明けることが大切ですね。