
文通している方から「人間の価値は何で決まるのですか?」という質問をいただいたので、どのように答えたらよいか思いめぐらしていました。
夏期キャンプで聞いたメッセージと、先日の水曜礼拝のメッセージはテーマが一致していました。はからずもそれは、その質問の答えを示すものでした。
人間の価値は、地位や学歴やお金で決まるわけでは決してありません。
成績が良いか悪いか、身体が丈夫か弱いか、意志が強いか弱いか等で決まるわけでもありません。
人間は神様のかたちに似せて造られたと聖書(創世記1:27)に書かれています。かたちというのは、目に見える形ではなく、性質のことです。神様の性質は聖(きよ)さと、義(正しさ)です。
本来の人間は、聖(きよ)さと、義(正しさ)を持っていました。ところが、罪を犯すようになって、それが失われてしまいました。
わたしたちは、教えられなくても生まれながらにして悪いことをしてしまいます。嘘をついたり、ごまかしたり・・・神様に背いて生きようとする傾向があります。
どうしてそうなってしまったのか・・・聖書にはその原因が書かれています。原因とはアダムとエバが神様から禁じられた木の実を食べたことです。
最初の人間が犯した罪のおかげで、人類全部が悪い性質を持つようになったなんて腑に落ちませんね。
それなら、罪を犯してしまうのは、わたしたちの責任ではないし、仕方ないことなのでしょうか。
自分の内面を見つめると、罪を犯さずに正しく生きたいと願っても、心の中で人をうらやんだり、憎んだりする気持ちが沸いてくることに気づきます。
アダムとエバが木の実を食べなかったとしても、わたしが食べたかもしれない……と思います。絶対にやってはいけないと言われると、かえってしたくなる気持ちが起きてくるのです。
わたしはそのような惨めで情けない者ですが、造られたときの本来の自分にもどることができると神様はおっしゃっています。
「立って父の所に帰ろう」と言った放蕩息子や、ザアカイのように神様のもとに帰るとき、罪をぬぐっていただき、造られたときのような本来の自分になれるのですから、なんて幸いなことでしょう。
人間の価値はその人の中にあります。どんな人でも、神様によって、神様に似せて造られたのですから、尊いのです。
どんな人であっても、その人自身に絶大なる価値があるのです。たとえその人が何もできなくても、何も持ってなくても、また犯罪者でも、 その人の存在そのものに価値があるのです。
どれぐらい価値があるかというと、 神様がひとり子イエス様の命をその人のために与えるほど価値があるのです。
嫌いだと思うあの人も、意地悪をするこの人も、みんな価値ある人です。
ひどいことされて人を憎みたくなる時、あの人のためにもイエス様が死んでくださったと思うと憎しみが薄れていきます。
殺傷事件を起こした犯人は、人を殺すことは「蚊を殺すのと同じ」と言ったそうです。
一匹の蚊と同じ価値の人間がいるでしょうか? そのような人はいません。
生きる価値のない人間がいるでしょうか? そのような人はいません。
どんな人でも神様が「高価で尊い」といって、愛して下さっているからです。
わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
悪をなす人が立ち返って、本来の良い性質に戻ることができるようにお祈りします。
*写真は、先日友人と訪れたかすみがうら市の雪入ネイチャーセンター。
午前中でしたら文香さんにお会いできましたね。
内容は【 初めに、神が天と地を創造した。】
私の好きな創世記1 :1 でした。
ずっと以前、それまで何気なく読んでいたこの箇所の深さに心がふるえました、その事を、29日の水曜礼拝で思い出しました。
そして又新たに感動できることがうれしく感謝です。
この1章 : 1節 の言葉は、 無神論者・反神論・多神論・物質主義・二元論、等々・・・混沌とした思想を根こそぎ粉砕してくれます。
論破してくれるような気がします。
たった一行のこの短い内容の中に、信じることによって、私は生きている → 私は生かされている
と移行でき、生き方まで変えられるメッセージが潜んでいたのです。
「人間の価値はその人の中にあります。その人の存在そのものに価値があるのです。
どんな人でも、神様によって、神様に似せて造られたのですから、尊いのです。」
主の御名を賛美します!
新島襄はこの創世記1章1節を読んで神を信じたそうですね。
進化論を信じていたわたしの人生も変えられました。