「愛することの最初の一歩は祈ること」
「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家のサウロというタルソ人を尋ねなさい、彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻でみたのである」(使徒行伝9:11~12)。これは、サウロが復活の主イエスに出会った後、彼が洗礼を受け新しい使命をスタートするために、アナニヤを彼のもとに遣わした主の言葉です。迫害者であったサウロのもとへ行くことは、アナニヤにとって恐れ以外の何物でもありませんでした。しかし、彼が祈っていることを聞き、主の言葉に従って訪れ、彼のために祈ったのです。彼は、サウロへの愛を祈りでまずあらわしました。具体的に隣人のために祈ることによって、わたしたちは愛にいきることができるのです。
ギブ・アンド・テイク(与えそして得る)という言葉がありますが、いつの間にかテイク・アンド・ギブ(得てそして与える)にかわり、そして隣人のために進んで祈ることを止めてしまっていないでしょうか。隣人のために祈るという責任に生きることなしに、すばらしい主張がなされても、愛なくばいっさいは無益となります。
2015.6.7
「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家のサウロというタルソ人を尋ねなさい、彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻でみたのである」(使徒行伝9:11~12)。これは、サウロが復活の主イエスに出会った後、彼が洗礼を受け新しい使命をスタートするために、アナニヤを彼のもとに遣わした主の言葉です。迫害者であったサウロのもとへ行くことは、アナニヤにとって恐れ以外の何物でもありませんでした。しかし、彼が祈っていることを聞き、主の言葉に従って訪れ、彼のために祈ったのです。彼は、サウロへの愛を祈りでまずあらわしました。具体的に隣人のために祈ることによって、わたしたちは愛にいきることができるのです。
ギブ・アンド・テイク(与えそして得る)という言葉がありますが、いつの間にかテイク・アンド・ギブ(得てそして与える)にかわり、そして隣人のために進んで祈ることを止めてしまっていないでしょうか。隣人のために祈るという責任に生きることなしに、すばらしい主張がなされても、愛なくばいっさいは無益となります。
2015.6.7