「密室の祈りから公の祈りへ」
「わたしたちは隠れた所での祈りすなわち密室の祈りを積み重ねていっているうちに必ず祈りの友がほしくなるものである。共に心を合わせて祈ってくれる友を求めるようになるものである。こうなってはじめて『ふたりまたは三人がわたしの名によって集まる』(マタイ18:20)公同の祈りというものが生まれて来るのである。そういう祈りの集いが持たれるとき、わたしたちは『わたしもそのなかにいるのである』との主のお約束をひしひしと感ずることがゆるされる、そしてそこでわたしたちのなかに主にある交わりが芽生えて来るのである。だから教会の祈祷会がこのような恵みの場となるためには、まずわたしたちが日毎の密室の祈りを積むことが大切である。わたしたちがそれぞれ一週間の祈りを背に負いながら祈祷会に集まって来るとき、祈祷会は確かに恵みの座とせられるのである。人前で祈れる人も、人前で祈れない人も共にもう一度自分の祈りの生活をかえりみてみようではないか。そして神の備えたもう恵みの座として私たちの祈祷会が守られるようにお互いに日毎の祈りを積んで行こうではないか。」(榎本保郎「教会づくり入門」より)。
「あなたは祈るとき、自分のへやに入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ4:6)
2015/7/5
「わたしたちは隠れた所での祈りすなわち密室の祈りを積み重ねていっているうちに必ず祈りの友がほしくなるものである。共に心を合わせて祈ってくれる友を求めるようになるものである。こうなってはじめて『ふたりまたは三人がわたしの名によって集まる』(マタイ18:20)公同の祈りというものが生まれて来るのである。そういう祈りの集いが持たれるとき、わたしたちは『わたしもそのなかにいるのである』との主のお約束をひしひしと感ずることがゆるされる、そしてそこでわたしたちのなかに主にある交わりが芽生えて来るのである。だから教会の祈祷会がこのような恵みの場となるためには、まずわたしたちが日毎の密室の祈りを積むことが大切である。わたしたちがそれぞれ一週間の祈りを背に負いながら祈祷会に集まって来るとき、祈祷会は確かに恵みの座とせられるのである。人前で祈れる人も、人前で祈れない人も共にもう一度自分の祈りの生活をかえりみてみようではないか。そして神の備えたもう恵みの座として私たちの祈祷会が守られるようにお互いに日毎の祈りを積んで行こうではないか。」(榎本保郎「教会づくり入門」より)。
「あなたは祈るとき、自分のへやに入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ4:6)
2015/7/5