静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

Shizu Takeshita Gospel Concert

2016年05月22日 | 教会案内
静岡グレースチャペルでは、5月22日(日)PM2:30~4:00 竹下静さんをお迎えしてゴスペル・コンサートをいたします!

静岡グレースチャペルクワイヤも共演いたしますので、ぜひ、ご家族やお友達もおさそい下さり、お出かけください。入場は無料です!

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天のマナ

2016年02月28日 | 教会案内
「はなはだ良かった」(沖縄旅行①)

 5人の姉妹と牧師夫妻、合計7名で沖縄へ3泊4日で行ってきました。曇りの日が多く晴天の日はありませんでしたが、それでも神様の造られた自然はとても素晴らしく、はなはだ良かった世界を垣間見せていただきました。特に沖縄の海はどのビーチも、白い砂浜が続き、水が透き通り、海の色は透明から水色、青へとグラデーションし、その中に岩があり、海草やサンゴの所は濃くなっているのです。海水浴は4月からですので海の中の様子は見られませんでしたが、美ら海水族館で様子を知ることが出来ました。ジンベイザメからチンアナゴまで神の知恵による創造のわざはなんと素晴らしいのでしょう。南国ならではの花々やフルーツにも感動いたしました。
 今でもこんなに素晴らしいのに、まだ人間の罪によって壊されていない神様が造られた当初の世界は、どんなものだったのでしょうか。そして、この地上の歩みが終わった時、神を信じ救われた者が入れてもらえる永遠の神の国に心を馳せるのでした。
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2015クリスマスゴスペルコンサートのご案内

2015年12月24日 | 教会案内
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2014年12月07日 | 教会案内
「人間を罪と死から救うキリスト」                       

 「宗教」と「道徳」の違いはなんでしょうか。道徳は、良心にそくした善いことを教えるということでしょう。宗教は、人の悩みや苦しみの源である罪や死からの救いと解放でありましょう。ほとんどの新興宗教は、現世的ご利益主義(商売繁盛、家内安全、五穀豊穣、万病平癒、学業成就など)で、人間の問題を本当の意味で解決しません。人間を本当に救わない宗教は、そういう意味では、本当の宗教ではありません。

 神の独り子であるイエス・キリストは、なぜこの世界に来たのでしょうか。それは、人間の罪を赦し、人間を死から解放するためであります。救い主イエスは、十字架に掛かり私たちの罪を負われ身代わりとなられました。救い主イエスは死なれましたが、三日目に死を打ち破り復活されました。彼は今も生きていて、彼を信じる者の罪を赦し、復活させ永遠の神の国に入れてくださるのです。

 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡されたが、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」(ローマ4:25)

2014.12.7
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天のマナ

2014年08月23日 | 教会案内
「唯一のクリスチャン生活のルール」
    
「クリスチャンになったらお酒は飲んではいけないのですか?」「賭け事は?」「宝くじは?」「ブランドのバックや宝石は?」などの質問を受けます。
 旧約聖書には多くの律法がありますが、主イエスはそれらのすべての律法を成就し、真髄(神を愛すること、自分を愛するように隣り人を愛すること)をあらわしました。
 新約のこの時代のクリスチャン生活のルールはこれ一つです。これは言い換えますと、「神の栄光をあらわす」こととも言えます。神は何のために私たちを造られたのでしょうか。神の栄光の為であります。「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」(イザヤ43:7)とあります。またパウロを通して神は、「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(Ⅰコリント10:31)と語っています。
 「このことは神の栄光をあらわすことだろうか」との、この基準に照らし合わせ、神に喜ばれる歩みをこれからもして行きましょう。

2014/8/17

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天のマナ

2013年12月08日 | 教会案内

「主の聖徒の死はそのみ前において尊い」 詩篇116篇15節

 マザー・テレサの言葉に、「大切なのは、どれだけ多くをほどこしたかではなく、それをするのに、どれだけ多くの愛をこめたかです。」とあります。また、「神は私に成功をおさめることではなく、真心をつくすように命じています。」「私たちは、成功するためにここにいるのではありません。誠実であるためにここにいるのです。」とあります。

 競争社会にある私たちは、「どれだけのことをしたか。どれくらいの成功をおさめたか」ということに目が向けられます。しかし、大切なのは、「どれだけの愛を、真心を、誠実を込め尽くしたか」であると本当に思います。利益、成功のみを追求していくならば自分も世界も枯れていくでしょう。

 静岡教会と清水教会においても、恩牧師は尊い働きをして下さいました。先生を通して私たちは、主の愛と真心と誠実をいただけたことを感謝いたします。

2013/12/8

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主日礼拝説教要約

2013年07月28日 | 教会案内

「神の言葉に立つ」 詩篇77編1~20節

 信仰者にとって一番の問題は、神の臨在と顧みが感じられない時ではないかと思います。この詩人もそのようの中にいました。

Ⅰ 悩みの日に

 詩人の悩みの大きさは、ものを言うこともできないほどのものでありました。具体的に何かということ以上に、呼び求める者に必ず応えてくださる神に呼び求めても、応えが得られずに、神の臨在と顧みが感じられないことが大いなる悩みでありました。まさしく信仰ある者の悩みであります。そのゆえに、神に見捨てられてしまったのか、神は恵みをほどこすのを忘れたのか、約束を忘れあわれみを閉ざされたのかと告白しています。

Ⅱ 数えよ主の恵み

 しかし、そのような中でも詩人は、神によって導かれていました。詩人は、今までの歩みより主のくすしきみわざを思い出していたのです。自分の歴史、神の民の歴史(出エジプト)の中で、神がどのような御業をなしてくださったのか。詩人は神の恵みに包まれ、「あなたの道は聖です」(13)にあるように、神のみわざは、人間の都合ではなく、神の聖なるご計画によって導かれる道を必ず用意してくださっているという信仰告白となっていったのです。

 神は、神に呼び求める者を決して捨てません。孤児としません。主イエスご自身が私たちを導かれているから、信頼して進みましょう。

2013/7/28 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年04月28日 | 教会案内

 「きよくある」  「キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20)

 「朱に交われば赤くなる」ということわざがあります。その意味は、「人は周りの環境によって、よくもなれば悪くもなるということ」であります。人は何により多く触れているか、何をより多く見て聞いているかで、それに影響されていくのであります。子供が親によく似てくるには、子供が毎日、親の話し方や言葉、しぐさを見ていることが一つの要因でしょう。

 私たちは誰に似てきているのでしょうか。主イエスを毎日見ているでしょうか。主イエスの言葉を聞いているでしょうか。そうするならば、主イエスに似てくるはずであります。いいえ、似るだけではありません。もっと深く、主イエスが主権をとって下さっているなら、主イエスが内にいてくださり、主のものとされきよくなり、自我がでるのではなく、主イエスが内から出てくださるのです。自分を見て心配する必要はありません。義認が信仰により、主イエスの恵みによって与えられたように、きよめも信じることにより、主イエスの恵みによって与えられるからです。

2013/4/28

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天のマナ

2013年04月21日 | 教会案内

 「最高の名作」

 ある時、こんな言葉を聞いたことがあります。「名作といわれる絵画には、さまざまな色が使われて、豊かな色彩で描かれている」というものです。決して明るい色だけが使われるのではなく、時には黒や灰色、こげ茶色や濃紺などであります。暗い色が重ねられることによって、広さや奥深さが描き出されるということなのでしょう。私たちの日々の信仰生活、そしてその積み重ねである信仰生涯にも、楽しく明るく喜ばしい色ばかりではありません。時には、困難や問題、重荷や試練など暗い色と思えるようなことが起きてきます。しかし、心を騒がせる必要はありません。なぜなら、私たちの人生を導き描いてくださる方は、決して失敗をしない、いえ、いつも一人一人にそれぞれにふさわしい最高傑作を描き出す主なる神であるからであります。私たちは、今もこの方により、名作として描かれているのです。

 「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(ローマ5:3.4)

2013/4/21

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天のマナ

2013年02月24日 | 教会案内

 「ここに愛がある」 (第一ヨハネ4:10)

 「恋とは?愛とは?」と大学生に問うた時がありました。ある大学生は、「あんまり考えたことがありません」と応えました。

 「恋」とは自己中心的な要素が強いものです。「自分の思い通りに、自分に益になるように、自分の願うように」と相手に期待します。しかし、「愛」は自己中心ではありません。相手が本当の意味で生き活きするように、自らをある時には制限し、ある時には犠牲にすることです。

 私たちは十字架であらわされた主イエスの愛をもう一度思います。罪のない主イエスが、私たちの罪、私の罪を負われて神の裁きを受け、私たちの、私の身代わりとして十字架にかかって下さった。このゆえに、今私たちは、私は罪赦され神の子とされ永遠のいのちに生かされているのであります。ここに愛があります。

2013/2/24

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