名古屋の子育て世代に話題となっている南山小学校の建設現場です。夢のあるデザインで完成が楽しみですが、大事なのは建物よりもちろん中身です。
安倍政権のひとつの目玉とされた教育再生会議は福田政権にも受け継がれたようですが、官製会議の一典型として、現場を知らない有名人(ノーベル化学賞受賞者の野依良治氏)を座長に祭り上げ、実は官庁主導で規定の結論にこじつけようという、よくあるダミー会議のようです。
野依座長がいかに教育の現場を知らないかは、「塾は禁止すべきだ」という彼の無責任な発言から一目瞭然です。教育再生会議は17人のメンバーのうち教育関係者がたった2人という素人の寄り合い所帯で、「素人が思いつきを言い合っているだけ」という千葉大教育学部の藤川助教授の批判には説得力があります。
野依座長はご自身の経験から理想の教育を考えておられるのでしょうが、あまりに経験主義的で一般性がありません。ノーベル賞受賞者さえ出れば後はどうでもいい、というのは国家が必要とする教育ではないのです。野依さんみたいに「学校に行って、部活もやって、休憩してご飯も食べて勉強した」というのでは今の東京の進学競争では著しく不利でしょう。大学で才能が花開くまでに多くが振り落とされてしまうのが現状です。野依方式で東大に入れるのは、それこそ自宅学習だけで100点が取れるような天才に違いありません。でも他の多くの学生に対しても国には教育の責任があります。多数の教育水準を高めなければこの国は生き残れないからです。
どんな優秀な教師であっても、意欲も能力も多様なクラス40人を最適に指導できるものではありません。日本の児童、学生が何とか学習能力を維持しているのは、学校外の学習塾など民間教育産業の貢献が大きいのです。これを「商業主義」と批判するのはおよそ21世紀の責任ある人間とは思えません。少数の児童や学生だけ引き上げればいいのなら、お金のことはあまり考えなくていいでしょう。しかし、児童や学生を巨大なマスとして見るならば、教育の少なくとも一部を商業資本の手に委ねるのが遥かに効率的だからです。
教育で利潤が得られるから企業が参入し、競争が生まれる。そして効率的な指導法や優秀な指導者が生まれる。企業は利潤を得て、児童は学力を身に付ける。これのどこが悪いのでしょう?利潤を求めて真剣に経済活動に励むことが、結果として社会の利益に繋がる。これは別に昨今の規制緩和絡みで言い出されたことではありません。私の乏しい社会学の知識でも、前世紀の初めにマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でこのような主張をしているぐらいは思い出せます。野依座長の感覚はもっと古いので、20世紀どころか19世紀のものかも知れません。こんな視野狭窄の専門馬鹿を座長にして、幅広い教育問題を論じようというのが笑止です。
こんな無教養かつ無責任な放言だけ遺して形骸化した感のある教育再生会議のことを、なぜ今頃思い出したかと言うと、ひとつは南山小学校の幹部が説明会で野依座長と同じようなことを言っていたからです。放課後も学習時間を設け、塾に通わないでいいようにする、と。今にして思えばこれも19世紀的な発想で、そう言えば南山学園の母体である南山教会はカトリックでした。カトリック関係者はウェーバーなど読まないのかも知れませんし、南山小学校の幹部は経済活動というものを頭から信用していないのかも知れません。
察するに、どうも南山大学の経済学部や経営学部関係者は小学校運営に関与していないようです。南山小学校新設(戦前に接収された小学校を考慮すれば再設)の意義として、「小学校から大学までの一貫した教育」が高らかに謳われていたのですが、これまで公表された資料を分析した限りでは、小学校の運営には南山教会関係者の意向ばかりが強く反映しており、小学校から大学への一貫性には疑問ありです。
これが南山教会です。付近は南山学園の建物が立ち並び、「南山学園村」のような雰囲気になっています。街路樹や保存された木々、クラシックな建物と坂のある街が調和して、散歩にはいい所です。残念ながら車が多くて少し騒々しいですがね。
ともかく、全国の大学で研究や教育の一線に立っている世代も、もはや学習塾や予備校の世話になった人が多くを占めているので、懐古趣味の野依案がまともに受け取られる可能性はほとんどありません。学習塾はよく批判の材料として使われるような「実力は付かないけど点を取るテクニックだけ教えてくれる」場ではありません。反証は単純明快。存在意義不明のレベルの低い大学ならともかく、まともな大学がテクニックだけで入れてくれるものですか!もし学習塾が受験テクニックだけを教えていると言うのなら、そんなテクニックだけで解けるような入試問題を出している大学が悪いのです。
教育再生会議を思い出した理由の2つ目は、今頃になって中日新聞に松原隆一郎東大教授が同様の批判を寄稿していたからです。なぜ今になって、とかなり奇異な印象を受けましたし、松原さんも教育の専門家ではありませんが、内容は野依案を批判したものです。私も2月に同じような批判を「日経ネットPLUS」に投稿した覚えがあります。
教育においても「官から民」への流れは続いていますし、生き残りを掛けた「官」の反撃も見られます。都立高校の改革は「官対民」の好例です。「官から民」は東京に見られるような私立学校志向だけではなく、塾や予備校に任せられる部分は任せた方が効果が大きい、ということでもあります。競争を勝ち抜いてきた民間教育産業の活力や能力、経験は相当なものであり、学習指導の点では多くの学校を圧倒するからです。
学習指導以外に幅広い使命を受け持つ学校が、(たとえ私立学校だとしても)その一点に特化した学習塾と張り合うのは大変なエネルギーを必要とします。一般に学校への家庭の要求は多様化しており、学力向上に対する動機や責任はぼけやすくなります。学校での長時間の補修や補講は、学力充実を最優先とした進学校以外では無駄が多いと言えましょう。それより早く児童を解放して、塾に通う子は通わせればいいのです。
南山小学校は特に進学校を目指さないと言及しています。それなのに敢えて学習塾と時間を取り合うという無駄をやろうとしているのでしょうか。もしその通りなら、私は南山小学校の中身について期待しません。新しい校舎も、時代に抗った学校経営のシンボルとして記憶され、東京からいずれこの地方にも波及するであろう「官から民」あるいは「官対民」の厳しい競争から取り残されるだけです。
南山小学校は、建物以外に、21世紀を生きる児童にふさわしい入れ物を用意しているでしょうか?例えば、将来的に南山大学の経済学部や経営学部の発展に貢献できるような人材を輩出できるでしょうか?私の見たところ、関係者があまりに古い思想で小学校運営を始めようとしているのではないか、と危惧されるのです。「新しいワインは新しい皮袋に」とは聖書の言葉だったはずです。