アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

ダンシング・ヴァニティ

2008-04-22 20:26:40 | 
『ダンシング・ヴァニティ』 筒井康隆   ☆☆☆☆☆

 筒井康隆の新作を読了。前作の『巨船ベラス・レトラス』がさすがと思わせる超虚構的な仕掛けを打ちつつもわりと読みやすい娯楽小説的な内容だったのに比べ、本書はかなりチャレンジングだ。筒井康隆の実験精神が炸裂している。本の装丁を見て気楽な娯楽小説かと思ったら全然違っていた。これは『夢の木坂分岐点』や『虚人たち』のような、作者が娯楽性を度外視して本領を発揮した野心的な小説である。

 では本書の実験とは何か? 反復である。帯に「驚異の反復乱丁に非ず」と書かれているが、確かに筒井康隆の小説を読み慣れない読者がいきなりこれを読んだら、乱丁かと思ってもおかしくない。物語としては、母親、妻、妹、娘、姪と一緒に暮らす美術評論家が原稿を書き、出版社と打ち合わせをし、本がベストセラーになり、パーティーに出席し、娘と姪がコンビでクラブ歌手になり、という暮らしのあれこれを追っていくが、異様なのはその一つ一つのエピソードがいちいち三度、四度と反復記述されるのである。エピソードの内容は反復されるたびに微妙に変化する。文章はまったく同じ文章も出てくるし、前より省略されたり、あるいは前より詳しい情報が追加されたりもする。そしてこの反復記述は一部だけでなく、本書の最後まで徹底して貫かれているのである。なんじゃそりゃ。

 エピソードそのものは、先に書いたように出版社とかパーティーとか引越しとか、わりとリアリズムなものが題材になっているが、その中で起きていることはかなりおかしい。たとえば「おれ」の妹は気に障ることがあるとだれかれかまわず持ち上げて床に落とすということをするし、「おれ」の友人の精神科医は話の途中で突然立ち上がって走り出し壁に激突するということをする。また出版社のきれいな女性はお茶を持ってきた時に両腕を突き出して鳥の格好をする。変だ。そういう中にまじって、死んだ父親や息子が現れたり、「おれ」が戦争に行ったり江戸時代に行ったりと、思い切りぶっとんだシュールなエピソードも現れる。

 この小説でも、他の筒井小説と同じように夢が重要なテーマとなっている。小説の前半、「おれ」の住む世界で恐い夢を見た人が死ぬという事件が起き、この「死夢」と呼ばれる現象に「おれ」はおびえるようになる。何度も「おれ」の前に兵隊が現れ、この夢を見ている人物を殺す、そうすれば目が覚めるのではなく本当に死ぬと予告して目の前の人間を射殺するのだが、このあたりは夢と現実が溶解し区別がつかなくなる筒井独特の夢的ムードが濃厚になる。帯にも「死夢」という言葉が書かれているので、これ以降この「死夢」が支配的なテーマになるのかと思っていると、特にそういうことはなかった。「おれ」の暮らしはあいからわず反復されながら続いていく。しかしエピソードがいちいちシュールだったり悪夢的であることからして、この小説全体が夢という考え方も成立する。

 夢が重要なテーマになっていることで、これを『夢の木坂分岐点』の新バージョンと考えることもできるかも知れない。しかし私小説的で、いわゆる文学小説的な体裁を持っていた『夢の木坂分岐点』と比べると、本書ははるかに軽やかで柔軟、いい意味で支離滅裂である。何といっても笑えるエピソードが多い。小説が始まって最初のエピソードは家の前で喧嘩している連中の話だが、喧嘩しているのはまずヤクザと大学生、次の反復ではヤクザ同士、三回目は浴衣を着た相撲取り同士になる。相撲取りで爆笑する。

 この反復の意味については、終盤「おれ」の独白によって大体解説される。それによればこの反復は「おれ」の人生のそれぞれの場面におけるさまざまな可能性、さまざまな選択肢、ということのようだ。が、と同時にそれは年を取ってふるいにかけられ、改竄されたり混乱したりした「おれ」の記憶のメタファーでもあり、さらには記憶や想像が入り乱れごっちゃになって私達が認識する「現実」そのもの、という解釈もできる。つまり、私たちの脳内で刻々と改竄され、変化し、微妙なぶれを起こしながらうつろっている「現実」の全体像を描き出そうとするならば、このような手法によらねばならないと作者は言ってるのかも知れないのだ。とすると、ミラン・クンデラ的に言うならば、筒井康隆はこの小説で新しい「現実」を発見したことになる。うーん、野心的だ。

 ところでこの小説のそれぞれのエピソードには、必ず物陰から半分体を出して「おれ」を見つめている白いフクロウが登場する。一度だけ「おれ」がフクロウに語りかけるセリフで、フクロウが「おれ」に批判的な存在ということが分かる。このフクロウは一体何なのだろか? 解釈は色々ありうると思うけれど、おそらく考えうるすべての解釈を許容する多義的な存在なのだろう。しかし小説の結語がこのフクロウについてであることからしても、重要な存在であることは間違いない。あなたも本書を読んで、この白いフクロウが何なのかを考えてみてはいかがだろうか。


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