アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

ボヘミアン・ラプソディ

2019-01-15 23:15:32 | 映画
『ボヘミアン・ラプソディ』 ブライアン・シンガー監督   ☆☆☆☆★

 2018年最後に映画館で観た映画はこれ、『ボヘミアン・ラプソディ』だった。ご存知、フレディ・マーキュリーの伝記映画である。まあクイーンの物語なのだけれども、映画の中心人物は明らかにフレディ・マーキュリーだ。大体は事実に即しているが、多少は虚構がまじっているらしい。私はクイーンの音楽は大好きだしかなり聴いているが、伝記的事実はほとんど知らなかったので色々と興味深かった。

 ところで後で知ったのだが、この映画は日本で異常なヒットぶりらしい。YouTubeでテレビ番組の特集も見たし、雑誌でも読んだ。そしてブームの特徴は、クイーン世代のみならずクイーンを知らなかった若い世代まで盛り上がっていることらしいが、一体なぜ日本人はこうもクイーンが好きなのだろうか。本国で批評家に無視されていた最初期の頃から、日本ではビッグスター並みの歓迎を受けていたのは有名な話だ。まあ最初に人気が出たのは「ロックの貴公子」的な、ビジュアル系バンドとしてだったのだろうが、その後の持続的な人気はやはり彼らの作る、特にフレディの作るメロディにあるのではないかと思う。

 日本人は欧米人よりも哀愁を帯びたメロディを好むが、フレディの旋律には哀愁を帯びたものが多い。「ボヘミアン・ラプソディ」しかり「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」しかり。「俺たちがチャンピオンだ!」という傲慢な歌詞の「ウィ・アー・ザ・チャンピオン」でさえ、Aメロははっきりと哀愁を帯びている。もしクイーンのヒット曲が「地獄へ道づれ」や「ハマー・トゥ・フォール」みたいなのばっかりだったら、ここまで日本人に好かれるバンドにはならなかったんじゃないか。

 まあそれはそれとして、映画である。結論から言うと、私も大感動してしまったクチだ。特に最後のライブ・エイドの場面、「ボヘミアン・ラプソディ」から「ラジオ・ガガ」の流れで、見事に涙腺が決壊した。もうあれは、どうしようもない。あそこまで舞台裏の人間ドラマを盛り上げておいて、あの曲、あの演奏、あの熱唱を見せられたらもうダメだ。

 それは映画の感動ではなくクイーンの音楽による感動だ、だからこの映画そのものは大した出来ではない、という意見がある。この映画の価値は大音量でクイーンの音楽を聴けることだけ、という人さえいる。しかし、私はそうは思わない。

 確かに、この映画はストーリーテリングが優れているとか、脚本が絶妙だとか、エピソードの構成力がすごいとか、そういうことではないと思う。そのあたりはまあ、普通だ。テクニック面でいうならば水準作である。この映画のポイントはもう、クイーンというバンドを映画の題材として選んだこと、そしてそれを最大限に活かすためにライブ・エイドをハイライトに持ってきたこと、これに尽きる。

 そんなんだったらおれにだってできる、と思う人がいるかも知れない(特にクイーン・ファンには)。しかし、すし職人じゃないが、「ネタの良さも腕のうち」なのである。フレディ・マーキュリーが死んだのは1991年、もう20年以上前だ。が、これまでクイーンの映画を作った人は誰もいなかった。それに私は予告編を映画館で観たが、ははあ、これはクイーン・ファン向けの映画だなと思った。まさか、クイーンを知らない人が見ても感動できる映画だなんて思わなかった。みんなそうだったんじゃないか? この題材を見つけ、そしてそのポテンシャルを最大限に引き出してみせたのは、間違いなく製作者の慧眼である。

 そして、圧巻というしかないライブ・エイドの再現。まさに、渾身の一撃だ。あの場面の気合いの入り方はもの凄くて、ピアノの上の紙コップの位置までこだわり抜いて、「完全な再現」を目指したらしい。私は映画館から帰ってきてさっそくライブ・エイドの本物映像を観たが、確かに、バンドの動きから何からまったく同じだった。特にフレディ役のラミ・マレックは壮絶と言う他なく、フレディ本人が憑依したとしか思えないパフォーマンスを見せている。そしてそれが、ものすごい臨場感を生んでいる。観客役の数万人のエキストラも、まるで当時のクイーンがよみがえって目の前に降り立ったかの如き熱狂ぶりだ。もともとクイーンのライブ・エイド演奏が歴史に残る名演とされているところへ、このこだわりと情熱と化学反応。これが映画のマジックでないわけがない。

 その証拠といってはなんだが、私はもともとクイーンのライブ・エイドの演奏をずっと前にビデオで観て知っていた。が、正直言ってこれほどの感動はなかった。「へえーすごい盛り上がりだな」と思った程度である。ところが、さっき書いた通り映画を観た後で本物を見たら、どうしたことだろう、映画と同じ場面つまり「ボヘミアン・ラプソディ」から「ラジオ・ガガ」の流れで、同じくこみ上げてくるものがあったのである。映画が歴史の裏にひそむドラマを掘り起こし、あの演奏に賭けたバンドの「思い」を形にして見せてくれたからだ。

 言うまでもなく、これはフレディ・マーキュリー、そしてクイーンというバンドの歴史と存在感なしには成立しない映画である。が、それはこの映画の瑕疵ではない。それを瑕疵だというのは、ピカソの「ゲルニカ」が史実に頼っているので絵画としては価値がない、というのと同じく愚かしいことだ。ブライアン・シンガー監督はクイーンという題材を最大限に活かし、ドラマを抽出し、一篇の映画にまとめ上げた。この映画を観て観客が感動するならば、それは当然ながら映画が優れていることの証明である。嘘だと思ったら、最初から最後までクイーンの音楽でBGMを固めた映画を作ってみればいい。それだけで感動できる映画にはならないんである。

 噂によれば、フレディ役のラミ・マレックは一年間かけてピアノ演奏やフレディの動き、喋り方など練習をしたという。まったく頭が下がる思いだ。ちなみにクイーンの音楽のファンとして嬉しいのは、映画の中でフレディが「ボヘミアン・ラプソディ」をピアノで練習したり、「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」を歌いながら作曲したりするシーンだが、それにしても、あの音源は一体何なのだろうか。フレディが歌っている音源がどこかにあって、それに合わせて撮ったのだろうか、それともまさかとは思うが、ラミ・マレックが歌っているのだろうか。私にはフレディ本人の歌声に聴こえたが、もしラミ・マレックが歌っているのだとしたら凄すぎる。

 それからこの映画を観てあらためて思い知らされるのは、「ボヘミアン・ラプソディ」という曲の奥の深さである。イントロのピアノ一発で聴き手を金縛りにする美メロはもちろんのこと、ぼくはこんなに早く人生を投げ捨ててしまった、真実に向き合う時が来た、ママぼくは死にたくない、など衝撃的な歌詞とその普遍性。この映画を観た人は、この曲の歌詞とフレディの人生のあまりのシンクロぶりに驚くに違いないが、それは偶然でも予言性でもなく、この曲が人生の葛藤そのものを見事に表現しているということだと思う。私は今でも、初めてこの曲を聴いた時の衝撃をありありと思い出すことができる。本当に名曲だ。

 フレディがインド系だということすら知らなかった私は、彼が自分の出自にコンプレックスを持っていて改名したこと、そのせいで両親と諍いがあったこと、更にバンド内の不和など色々興味深かった。フレディが最初からバイセクシャルだったわけじゃなく、だんだん目覚めていったというのも意外だった。それにしても、映画の中でフレディをゲイの道に誘う男は徹底して悪役として扱われていたが、あれも実在の人物なのだろうな。映画のヒットを知ってどう思ってるのだろうか。

 クイーンの伝記映画として見た場合、曲作りや演奏テクニックの話、個々の曲の裏話など音楽ファン向けのマニアックな話はあまり出てこなかったので、その点は多少物足りなかったが、まあそういう情報は伝記本で読むべきものだろう。評判通りの見事な映画だった。ぜひアカデミー賞を獲ってもらいたい。



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