アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

「もののけ姫」はこうして生まれた。

2012-03-18 18:03:24 | 映画
『「もののけ姫」はこうして生まれた。』   ☆☆☆☆

 これはもちろん映画ではなくてノンフィクションなのだが、面倒なので「映画」カテゴリーに入れてしまうことにする。タイトル通り、宮崎駿監督とジブリの人々がいかに『もののけ姫』を創り、世に出したかというドキュメンタリーだ。本編だけで6時間。長い。非常に詳細である。前々から宮崎駿という人の創作手法や方法論、またアニメ作品をめぐる哲学には興味があったが、これまでまとまったものを読んだり見たりしたことがなかった。というわけで、ドキュメンタリーとして評価の高いこのDVDを入手したわけだ。

 映像による記録という性格上、記録の対象は外から見た現場の仕事ぶりがメインであり、宮崎駿氏の頭の中で何が起きているかは分からない。時々宮崎監督が言葉で説明してくれたり、なぜそうなのか理由を語ってくれる部分もあるが、あまり多くない。取材者の態度はむしろそばにただ黙って立ち、目の前で進行している作業をカメラに収める、というものだ。そしてその作業とはもちろんかなりの部分がジブリのオフィスの中での原画作成、動画作成、絵コンテの作成であり、つまり絵を描く行為である。宮崎監督だけでなく、他の若いアニメーター達の仕事ぶりも多く収められている。

 また鈴木敏夫プロデューサーを中心とする宣伝戦略や、声優たちのアフレコ風景などもある。宣伝戦略会議では、人々がそれまでのジブリ作品のイメージを裏切るようにシリアスで、残酷描写すら含む『もののけ姫』に戸惑っている様子が興味深く、またアフレコでは宮崎監督が声優に出す指示によって登場人物達の性格や設定を知ることができる。とても面白い。それからとにかく声優陣が豪華なので、これらの人々が演技に悪戦苦闘している絵を見れるだけで楽しい。石田ゆり子、小林薫、田中裕子、美輪明宏、森繁久彌、西村雅彦、森光子、上條恒彦、島本須美、松田洋治などなどだが、興味深いエピソードもいっぱいあって、たとえば映画の冒頭でアシタカに別れを告げるカヤも、サンと同じく石田ゆり子がやっていて、最初彼女のテンションが低いので調整室で見ている宮崎監督が「妹と思ってるんじゃないかな」と呟き、スタジオに入っていく。そして「カヤはサンの妹ではなくて、いいなずけなんです。二人は将来結婚するつもりだった。こういう小さな村では年上の男性のことをみんな兄様(あにさま)と呼ぶんです。その愛する人ともう二度と会えない、ここはそういう場面なんです」と説明する。それを聞いて石田ゆり子は驚くが、私も驚いた。ずっと妹だと思っていたからだ。

 それからナウシカの声優である島本須美がたたら場の気丈な女・トキをやってたというのも私には発見だったが(ファンの間では常識なんだろうな)、プロの声優でなんでもうまい彼女が「せっかくだからやってもらいな」というたった一言をうまく言えず、悪戦苦闘してしまう。こういう「魔の一言」というのは誰にでもあるものらしく、エボシ御前の田中裕子は「すまなかったな」、石田ゆり子はサンの最初のセリフ「撃たれたのか。死ぬのか」で苦労していた。いや、ほんとこりゃ大変だ。

 このアフレコ部分が、有名な俳優さんたちが出てくることもあっておそらくもっとも華やかなパートだろうけれども、先に書いたように、ドキュメンタリーの大部分は宮崎監督とジブリのスタッフたちが絵を描いている場面で占められている。いやもう、春が来ても夏が来ても冬が来ても、晴れても降っても、ひたすら机にかじりついて絵を描き続ける。おそろしく地味な作業だ。しかも、どんなささいな部分も宮崎監督はおろそかにしないのだ。このドキュメンタリーを見てもっとも印象に残るのはそれだろう。たとえばアシタカが手をついて転ぶ、それだけの場面を、ああでもないこうでもない、こう手を伸ばすとこうなるから不自然だ、こっちに転ばないと、なんてぶつぶついいながら、宮崎駿自身が半日もかけて直すのである。出来上がった映像はほんの一秒ぐらいだ。ほかにも侍がナタを振る動作、ヤックルがジャンプする動作、おんぶする動作、雨が降って石が濡れる描写など、こういう例が繰り返し繰り返し出てくる。宮崎監督含め何人ものスタッフがああでもないこうでもない、時には激しく議論を戦わせながら、直して直してまた直す。出来上がった場面は、果たして観客の目にとまるかどうかすらあやしいくらい一瞬である。

 いやー、ここまでのこだわりと工夫、完全主義、そして膨大な労力をもって、ようやくあの『もののけ姫』のクオリティが達成されるのだなあ、と得心がいった。何かを創造するとは、ここまで厳しいものなのだ。

 どんな細部もゆるがせにしない宮崎監督だが、特にこだわりを感じるのは「動作のリアリティ」である。人が走る時、歩く時、転ぶ時、喋る時、笑う時、その動きのリアリティはどこから生まれるか。彼のアニメを見ると人の動きがとにかく生き生きしていて、ダイナミズムに溢れ、それがオーディエンスにも快感をもたらすが、それは宮崎監督の「動作」へのこだわりから生まれるということがよく分かる。そしてそのこだわりの裏づけになるのは、宮崎監督自身の(特に子供の頃の)体験、そして観察力である。彼のアニメは、テーマより哲学より何より、物や動物や人間がまずは正しく動く、そこからすべてが生まれる。そのことがこのドキュメンタリーを見るとよーく分かる。

 一方で、個人的に残念だったのは、『もののけ姫』のプロットや登場人物を組み立てる上での宮崎監督の考え、最終的にあの形を選択した理由、過程などについてはあまり触れられていないことだ。理詰めで考えると面白くなくなる、分かっていることを伝えるのは伝達であって表現ではない、自分でも分からないものを物語に込める、予定調和をぶち壊したい、などという基本姿勢は何度も語られるし、伝わってくるが、もっと具体的な部分、たとえばアシタカとサンがシシ神に首を返すことの意味や、途中で変更したもう一つのエンディングはどうなっていたのか、なども知りたかった。一度エボシ御前を殺そうとした宮崎監督が「どうしても殺せない」と言ってまた変更となったようだが、なぜ殺せなかったのか、そういう部分をもっと聞きたかった。

 あと、宮崎監督は途中でタイトルを「もののけ姫」から「アシタカ聶記」に変えようとしたが(主役はサンではなくアシタカだという理由)、「もののけ姫」のネーミングを気に入っていた鈴木プロデューサーが握りつぶしたらしい。「『もののけ姫』というのは、それ自体がコピーとして機能するぐらい素晴らしいタイトルだと思っていたから」という鈴木氏の意見に、私も完全に賛成である。それまで宮崎作品に関心がなかった私も、「もののけ姫」というタイトルに妖しさと放縦さを感じ、何かしら心に食い込んできた記憶がある。

 それにしても宮崎監督のスタッフに対する要求の高さはすさまじく、バイク事故で仕事から脱落したスタッフのことを(いったん体のことを心配した上で)「甘えとしか思えない」と憤ったり、「趣味がある奴は駄目ですね。自分の中にあるものを全部絵にぶちこんでいくようじゃなきゃ」と発言したりしている。まあ彼自身がそういう人なのだろうが、下で働くスタッフにそこまで要求できるものだろうか、と個人的には心配になる。仕事に人生のすべてを賭けろといっているに等しい。それにまた、アシタカが森を駆け抜ける時の絵が気に入らず(木にぶつかる直前のアシタカの表情に怯えがある)、これは何からでも逃げようとする人間の絵だ、絵には描いた人間の生き方が出る、ぼくはこういうのを見ると無性に腹が立つ、と憤懣やる方ない様子で、全部自分で描き直していた。とにかく「逃げる」という姿勢が大嫌いな人なのだなあ。

 このメンタリティがなければあれだけの作品は生まれないだろうし、クリエイターとしてのその厳しい姿勢にはまったく頭が下がるが、一緒に働く人たちは大変だろうな。全然関係ないけど、キング・クリムゾンに一時期在籍していた女性ヴォーカリストのジュディ・ダイブルがロバート・フリップについて、天才と同じバンドで働くのは楽じゃない、正直言って、一緒にやっていて恐かった、と語ったというのを思い出した。さらに、最近読んだ『ブラックジャック創作秘話』というマンガに描かれていた手塚治虫のことも思い出した。壮絶な表現者ってのはつきあうのに骨が折れるものなのだ。まあ、普通人である我々とはエネルギーの絶対量が違うということだろう。

 その他にも、「でえだらぼっち」は夜そのものが動いているようなものだ、とか、映画は映画になろうとするとか、あるいは(他のSF的な日本のアニメについてどう思うかと問われ)希望のなさをひけらかしているから嫌いだ、とか、宮崎監督の信念に支えられた力強い言葉の数々が印象的だった。宮崎駿という表現者がいかにタフで、信じがたいほどの労苦を重ねた上に作品を生み出しているか、それが良く分かるドキュメンタリーだった。

 


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1 コメント

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神はサイコロ遊びをする (グローバルサムライ)
2024-03-26 07:52:12
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学の理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。多神教的で多様性を秘めた、どこか日本的ななにかによって。

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