アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

毒入りチョコレート事件

2018-12-25 19:38:38 | 
『毒入りチョコレート事件』 アントニイ・バークリー   ☆☆☆☆

 アントニイ・バークリーの古典的ミステリを久しぶりに再読。最初に読んだのは高校生ぐらいの時だったと思う。中学生の時にエラリー・クイーンの『Xの悲劇』を読んで本格ミステリに激しくハマり、その後しばらくはミステリばかり読み漁っていた私だったが、その私の本格ミステリへの熱を見事に冷ましてくれたのが、何を隠そうこの本だった。まあちょうど本格パズラーに飽き始めていた頃だったこともあるだろうが、後述するようにこのミステリの毒にあてられた部分も確実にある。本書はミステリ史上に名を残す名作であると同時に、そういう危険性をも秘めた小説である。

 いわゆる、多重解決ものだ。つまり、一つの殺人事件に対して複数の解決が与えられるミステリであり、しかも本書の場合6人が6通りの推理をし、6通りの犯人を指摘するという徹底ぶりである。冒頭で事件のあらましが説明され、その後とあるクラブの会員6人がそれぞれ事件を調査、推理して結果を披露する。だから最後しか謎解きがない普通のミステリと違って、ストーリーの大部分が会員たちの謎解きで占められるという大変においしいミステリなのだ。

 もともとこれはバークリー自身が書いた「偶然の審判」という短篇を膨らませたもので、短篇も江戸川乱歩の『世界短編傑作集 3』にも収録されている有名作である。ただし短篇は多重解決ものではなく、名探偵シェリンガムが普通に推理し、最後に真犯人を指摘して終わる。本書はこの短篇と同じ設定を使って6人に推理させているのだが、面白いのはシェリンガムも6人の一人として短篇と同じ推理を披露し、しかも間違っている点である。彼の推理は後で覆される。短篇では真相だったものが、この長編ではそうでなくなってしまった。シェリンガムはバークリーが生み出した名探偵なのだが、本書で最後に真犯人を指摘するのは、地味で控えめなチタウィック氏である。

 さて、6通りの回答を提出するということはもちろん、それだけ事件がさまざまな解釈を許容するものでなければならないが、その点本書の事件はよく出来ている。シンプルで、登場人物も数人に限られた事件だけれども、さまざまな解釈が可能なのだ。ある男のところへ試供品に見せかけたチョコレートの箱が送られてくる。クラブでその受け取り現場に居合わせた別の男が、その人物からチョコレートの箱をもらう。家に帰って妻と二人でチョコレートを食べ、たくさん食べた妻は死に、少なく食べた夫は病気になるが助かる。警察が調べると、チョコレートには毒が入っていた。

 これが事件のあらましである。実に簡単だが、よくよく考えると果たして誰が狙われたのかにも疑う余地があるという、なかなか懐が広い事件だ。まずはこの設定がうまい。明確な物的証拠がないのも、推理の余地を広げることを可能にしている。そして6人の会員たちが順番に推理を披露していくわけだが、当然ながら最初はシンプルな推理から始まり、だんだん複雑になっていく。

 やっぱり短篇バージョンの真相だったロジャー・シェリンガムの推理が一番鮮やかで、印象的だが、この長編においてはそれも否定されるのはさっき書いた通り。ちなみにシェリンガムの発表順は4番目である。推理の方法はそれぞれ特色があるが、一番突飛なのは3番目に発表するミステリ作家ブラッドレーだろう。彼の推理は徹底的に遊戯的で、いわば悪ふざけに近いものだ。ブラッドレーは犯人の条件を物理的なものから心理的なものまで列挙し、一人の人間がこれらの条件をすべて満たす確率は何億分の一である、従って全部満たした人物が犯人だと考えて間違いない、という確率論を持ち出し、その上で条件を満たす犯人を指摘する。いかにも詭弁じみている。

 そして実際、詭弁なのである。ブラッドレーは皆をケムに巻いたあとでこう言う。誰かを犯人だということにしたければ、それが誰であっても自分はもっともらしい推理を組み立てて証明することができる、と。それは彼がミステリ作家として常日頃親しんでいるテクニックであり、要するに彼は、推理小説では作者はどのようにでも好みの結論を引き出せる、と言っているわけだ。つまり推理の論理性など見せかけに過ぎず、すべては詭弁なのだと。

 言うまでもなくこれは作者バークリーの見解そのものであり、本書の多重解決はその実例として書かれている。つまり、本書はブラッドレーの主張を証明するべく、ほとんどすべての登場人物を犯人に当てはめて、6種類の異なる解決篇を書いてみせた小説なのだ。

 ミステリ小説の謎解きなんてどうにでもなる、名探偵の推理以外の解釈だっていくらでもできるんだよ、とバークレーは言っている。まあ確かにその通りで、ある程度ミステリを読み込んだ人にとっては常識の範疇だろう。エラリー・クイーンの論理的(に見える)推理でさえ例外ではない。緻密な論理に見えるが、実は名探偵の主観や決めつけが大量に入っている。しかし、それをミステリ作家自身が堂々と暴露して、それをテーマに一篇のミステリを書いたのは珍しいと思う。その意味で、本書は実は本格推理のふりをしたアンチ・ミステリ小説なのだ。本格パズラーというものをおちょくっている。

 そんなわけで、高校生だった私はそれまでうすうす感づいていた本格推理の「恣意性」、いわばごまかしをはっきりと目の前に示され、なんだかばかばかしくなって、本格パズラーを読むのをやめてしまった。それにこの小説ではロジャー・シェリンガムの推理は明快で面白いが、その後のアリシア・ダマーズ女史とチタウィック氏の推理は、レトリックばかり冗長で、主観や推測が先走り、ほとんど印象に残らない。そのレトリックばかり肥大した「謎解き」にもなんだか胸焼けを起こし、本当にすっかり本格ミステリに白けてしまった。

 私の十代の読書経験を彩った本格ミステリへの熱狂は、あの名作『Xの悲劇』に始まり、この『毒入りチョコレート事件』で幕を閉じた。その意味で、本書は私にとって実に感慨深い一冊なのである。
 


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