『信長の原理』 垣根涼介 ☆☆☆☆☆
『ワイルド・ソウル』に続いて二冊目の垣根涼介を読了。今度は時代小説というか、歴史小説である。タイトル通り織田信長の話だが、普通の歴史小説とはちょっと毛色が違う。子供時代の信長が「たわけ殿」と白眼視されつつ成長し、父の後を継ぎ、次第に領地を拡大し、日本統一に向かって邁進し、野望達成を目前に本能寺で倒れる、というストーリー展開はまさに信長を描く歴史小説として王道だが、本書では信長の行動・思想に生涯にわたって重大な影響を及ぼす、ある原理が存在する。
現代では「パレートの法則」というらしいが、要するにあらゆる組織において、能動的にちゃんと働く人員が2割、可もなく不可もない人員が6割、働かない人員が2割、の比率になるという法則だ。働かない2割をクビにしても、また自然と全体の2割程度が働かなくなる。逆に優秀な2割がいなくなっても、自然とまた2割程度が組織を引っ張る人材になる。不思議だあ。
本書で信長は、子供時分に蟻を観察してこの「2・6・2」、つまり「1・3・1」の法則に気づく。次に戦場で侍たちを観察して、やはり率先して戦う奴、引きずられて戦う奴、戦わない奴、の比率が同じであることに気づく。そして彼は考える。ということは、もし徹底して鍛えた精鋭ばかりの部隊を持てれば、5倍近い人数の敵を打ち破ることができる。なぜなら、敵の軍勢のうち本当にやる気のあるのは、実質2割だけだからだ。この2割に勝てば、戦に勝てる。
そして信長は直属の親衛隊を組織し、鍛えに鍛える。ところがそうやってとことん鍛え抜き、これなら大丈夫と思った軍隊を戦場に出すと、やはり2・6・2の割合でダメな奴が出てくる。一体どういうことだ、と混乱しつつ、信長は人知を超えた天の法則の存在を知る。どうやら人間界には、人間の力ではどうしようもない不可思議な法則が存在するらしい…。
その後、「精鋭主義」を諦めた信長は数の論理で勝ち続けながらも、常にこの法則を意識する。今おれの配下で優秀なのは、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、柴田勝家、滝川一益の五人だ。しかしあの法則によれば、この中の一人はいずれ脱落者となり、おれを裏切るはずだ。それは一体誰だ?
まあこんな風に、信長の戦略、組織術、そして宿命的な隆盛と滅亡をもっぱら「パレートの法則」を主軸にして展開し、解釈していく。これが本書のキモであり、ユニークさだ。もちろん、主軸は「パレートの法則」だけれども、それだけでなくこの戦いはなぜ勝てたのか、誰々はなぜ裏切ったのか、といった人間の動機や心理に関するきめ細かな考察が途切れることなく続き、この信長の物語を大変に興味深くしている。特に面白かったのは、松永弾正の裏切りの謎、そしてそれに対する信長の例外的な寛大さの謎である。なぜ勝算がないのに裏切るのか、またなぜ他の臣下と違った扱いになるのか。
煎じ詰めると、人間心理の力学とは何か、それらが組織の中で絡み合った時に何が起きるのか、という「原理」を見極めようとする小説かも知れない。単なる争いや駆け引きだけではなく(もちろんそれらもたっぷりあるが)、常にこういう視点が物語を照射し、信長の運命を解釈していく。
当然、終盤にクローズアップされるのは明智光秀である。信長の臣下の中でも秀吉と並んで特に優秀だった明智光秀が、なぜ追い詰められていくのか、そして最終的に反乱するのか、が目玉となる。彼は信長に見いだされ、破格の条件で重用され、信頼され、そしてそれに見合った出世をする。順風満帆のように見える。加えて、信長の人間性にも心酔している。そんな光秀が、一体なぜ「本能寺の変」を引き起こしてしまうのか。
それは読んでのお楽しみだが、しかし本書を読みながらつくづく感じたのは人間の宿命の不思議さであり、複数の人間たちが絡み合うことによって織りなされるタペストリーの数奇さである。そして、10代の頃に歴史の授業で勉強したあの味もそっけもない教科書の記述の影に、一体どれほどの葛藤、苦悩、決断、策略、英知があったのだろうかという驚きと感慨である。いやまったく、歴史って奥深いものですね。
ところで、信長を描いた歴史小説といえば司馬遼太郎の大傑作『国盗り物語』があるが、それと比べて本書はどうか。歴史小説としてのトータルな完成度はおそらく、『国盗り物語』の方が上だろう。が、こっちにも司馬遼太郎版にない面白さがある。まず、心理描写という点では信長より明智光秀にスポットが当たっていた『国盗り物語』に対し、こちらは明確に信長が主人公である。この天才児の思いや感情が縦横に描写される。周囲から見た信長の姿とその内面が対置されて物語が進んでいくので、見かけと真実の違いや、どこでボタンが掛け違っていたかが分かりやすい。信長の内面はあくまでミステリーだった『国盗り物語』とは、そこが違う。
また、明智光秀の追い詰められ方の解釈が違う。これはもっぱら明智観点だった『国盗り物語』と、明智観点・信長観点が切り替わっていく本書のアプローチに起因するものかも知れないが、ざっくり言うと本書の方が「宿命」感を強く打ち出している。実際、本書では明智自身も何か大きなものに操られているような感覚を覚えた、との描写があるが、あくまで明智の性格と鬱屈の中に原因を求めた司馬遼太郎版に対し、本書では、人間よりも大きな「法則」「原理」の介入を暗示している。ちょっと分かりづらいところはあるが、これはこれで大変に面白かった。
それから、なんとなく姿勢が鳥瞰的であり、作中人物たちを距離を置いて眺めている司馬遼太郎に対し、本書は完全に登場人物の内面にまで入り込み、まるでその場に居合わせているがの如き臨場感に溢れている。つまり、登場人物たちの心理や言動をテレビドラマ並みにクローズアップして見せてくれるわけで、そういうところは完全に現代エンタメ小説的だ。これはそれぞれの良さがあるけれども、特にリーダビリティという点で本書はまったく強力だ。歴史小説好きなら必読。こうなったら『光秀の定理』も読むしかない。
『ワイルド・ソウル』に続いて二冊目の垣根涼介を読了。今度は時代小説というか、歴史小説である。タイトル通り織田信長の話だが、普通の歴史小説とはちょっと毛色が違う。子供時代の信長が「たわけ殿」と白眼視されつつ成長し、父の後を継ぎ、次第に領地を拡大し、日本統一に向かって邁進し、野望達成を目前に本能寺で倒れる、というストーリー展開はまさに信長を描く歴史小説として王道だが、本書では信長の行動・思想に生涯にわたって重大な影響を及ぼす、ある原理が存在する。
現代では「パレートの法則」というらしいが、要するにあらゆる組織において、能動的にちゃんと働く人員が2割、可もなく不可もない人員が6割、働かない人員が2割、の比率になるという法則だ。働かない2割をクビにしても、また自然と全体の2割程度が働かなくなる。逆に優秀な2割がいなくなっても、自然とまた2割程度が組織を引っ張る人材になる。不思議だあ。
本書で信長は、子供時分に蟻を観察してこの「2・6・2」、つまり「1・3・1」の法則に気づく。次に戦場で侍たちを観察して、やはり率先して戦う奴、引きずられて戦う奴、戦わない奴、の比率が同じであることに気づく。そして彼は考える。ということは、もし徹底して鍛えた精鋭ばかりの部隊を持てれば、5倍近い人数の敵を打ち破ることができる。なぜなら、敵の軍勢のうち本当にやる気のあるのは、実質2割だけだからだ。この2割に勝てば、戦に勝てる。
そして信長は直属の親衛隊を組織し、鍛えに鍛える。ところがそうやってとことん鍛え抜き、これなら大丈夫と思った軍隊を戦場に出すと、やはり2・6・2の割合でダメな奴が出てくる。一体どういうことだ、と混乱しつつ、信長は人知を超えた天の法則の存在を知る。どうやら人間界には、人間の力ではどうしようもない不可思議な法則が存在するらしい…。
その後、「精鋭主義」を諦めた信長は数の論理で勝ち続けながらも、常にこの法則を意識する。今おれの配下で優秀なのは、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、柴田勝家、滝川一益の五人だ。しかしあの法則によれば、この中の一人はいずれ脱落者となり、おれを裏切るはずだ。それは一体誰だ?
まあこんな風に、信長の戦略、組織術、そして宿命的な隆盛と滅亡をもっぱら「パレートの法則」を主軸にして展開し、解釈していく。これが本書のキモであり、ユニークさだ。もちろん、主軸は「パレートの法則」だけれども、それだけでなくこの戦いはなぜ勝てたのか、誰々はなぜ裏切ったのか、といった人間の動機や心理に関するきめ細かな考察が途切れることなく続き、この信長の物語を大変に興味深くしている。特に面白かったのは、松永弾正の裏切りの謎、そしてそれに対する信長の例外的な寛大さの謎である。なぜ勝算がないのに裏切るのか、またなぜ他の臣下と違った扱いになるのか。
煎じ詰めると、人間心理の力学とは何か、それらが組織の中で絡み合った時に何が起きるのか、という「原理」を見極めようとする小説かも知れない。単なる争いや駆け引きだけではなく(もちろんそれらもたっぷりあるが)、常にこういう視点が物語を照射し、信長の運命を解釈していく。
当然、終盤にクローズアップされるのは明智光秀である。信長の臣下の中でも秀吉と並んで特に優秀だった明智光秀が、なぜ追い詰められていくのか、そして最終的に反乱するのか、が目玉となる。彼は信長に見いだされ、破格の条件で重用され、信頼され、そしてそれに見合った出世をする。順風満帆のように見える。加えて、信長の人間性にも心酔している。そんな光秀が、一体なぜ「本能寺の変」を引き起こしてしまうのか。
それは読んでのお楽しみだが、しかし本書を読みながらつくづく感じたのは人間の宿命の不思議さであり、複数の人間たちが絡み合うことによって織りなされるタペストリーの数奇さである。そして、10代の頃に歴史の授業で勉強したあの味もそっけもない教科書の記述の影に、一体どれほどの葛藤、苦悩、決断、策略、英知があったのだろうかという驚きと感慨である。いやまったく、歴史って奥深いものですね。
ところで、信長を描いた歴史小説といえば司馬遼太郎の大傑作『国盗り物語』があるが、それと比べて本書はどうか。歴史小説としてのトータルな完成度はおそらく、『国盗り物語』の方が上だろう。が、こっちにも司馬遼太郎版にない面白さがある。まず、心理描写という点では信長より明智光秀にスポットが当たっていた『国盗り物語』に対し、こちらは明確に信長が主人公である。この天才児の思いや感情が縦横に描写される。周囲から見た信長の姿とその内面が対置されて物語が進んでいくので、見かけと真実の違いや、どこでボタンが掛け違っていたかが分かりやすい。信長の内面はあくまでミステリーだった『国盗り物語』とは、そこが違う。
また、明智光秀の追い詰められ方の解釈が違う。これはもっぱら明智観点だった『国盗り物語』と、明智観点・信長観点が切り替わっていく本書のアプローチに起因するものかも知れないが、ざっくり言うと本書の方が「宿命」感を強く打ち出している。実際、本書では明智自身も何か大きなものに操られているような感覚を覚えた、との描写があるが、あくまで明智の性格と鬱屈の中に原因を求めた司馬遼太郎版に対し、本書では、人間よりも大きな「法則」「原理」の介入を暗示している。ちょっと分かりづらいところはあるが、これはこれで大変に面白かった。
それから、なんとなく姿勢が鳥瞰的であり、作中人物たちを距離を置いて眺めている司馬遼太郎に対し、本書は完全に登場人物の内面にまで入り込み、まるでその場に居合わせているがの如き臨場感に溢れている。つまり、登場人物たちの心理や言動をテレビドラマ並みにクローズアップして見せてくれるわけで、そういうところは完全に現代エンタメ小説的だ。これはそれぞれの良さがあるけれども、特にリーダビリティという点で本書はまったく強力だ。歴史小説好きなら必読。こうなったら『光秀の定理』も読むしかない。
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