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『マリーについての本当の話』 ジャン=フィリップ・トゥーサン ☆☆☆☆
トゥーサンの新作を読了。『愛しあう』『逃げる』に続く「ぼく」と「マリー」の物語三作目ということで、トーンはよく似ている。やはり、世界のあちこちの都市を舞台に「ぼく」と「マリー」の微妙な関係性が描かれる。前二作を読んでいなくても問題ないが、読んでいた方が味わいは深くなるだろう。エピソードも微妙にリンクしている。『愛しあう』と同じく東京のエピソードもあるし、『逃げる』終盤の舞台だったエルバ島も出てくる。
例によって、この小説もいくつかのエピソードのミニマリスム的な描写だけで成立している。まずパリの夜、ぼくとマリーが同時刻に別々のパートナーと寝るという、いかにもトゥーサンらしい人を喰った場面で始まり、マリーの愛人が突然の発作で死亡するまでの非日常的な出来事の連鎖が、いつものクールなタッチで淡々と、偏執狂的なまでに細密に描かれる。それが終わると次は「ぼく」の回想の中で時間を遡り、その愛人とマリーが東京から競馬馬ザーヒルを飛行機で運んできた時の顛末が語られる。夜、馬が成田空港の中で逃げ出して日本人職員が追いかけたりするが、この奇妙に静謐な、非現実感に溢れるドタバタ劇が、読者を独特の浮遊感のただ中へと連れ去る。ちなみにザーヒルという馬の名前はボルヘスの短篇から取られている。
それから、また時間を遡って東京の競馬場における「ぼく」とマリーの予期せざる邂逅。それから時間が冒頭の後までとんでエルバ島でのマリーの孤独な生活、それから「ぼく」との再会、それから火事。この小説は大体こういう流れで進んでいく。
それぞれのエピソード間に密接な因果関係や起承転結のようなものはなく、つまりストーリーはないに等しい。語り手である「ぼく」の気ままな回想がそのまま小説になった感じで、終盤のエルバ島を除きだんだんエピソードが時間を遡っていくのも、その気まぐれぶりを示している。そういう意味では本書も『愛し合う』『逃げる』と同じく、それぞれの場面が独立してどれほどのインパクトを有しているか、が勝負の小説である。ただし、そういうエピソードの数々を一つの小説としてまとめるテーマがあるとすれば、それは「ぼく」とマリーの奇妙な「別れ」、そして愛憎とも親密さともつかない二人の微妙な距離感ということになるだろう。小説の雰囲気がただ気ままなだけでなく何か真摯な、沈痛な色を帯びているのも、トゥーサンが描く二人の関係が醸し出すなんとも精妙なリリシズムのせいだ。
そういう小説なので、どこでどう終わってもいいような感覚があり、結末が近くなってくるとこの小説がどう終わるのかという興味も出てくるが、やはりラストはどんぴしゃり見事に決まる。さすがだ。ラストさえ決まれば、ストーリーがなくても小説は終わるんだなあということを実感した。
ところでこの「ぼく」とマリーの物語は全部で四部作になるらしく、四作目はもう完成していると訳者解説にある。この四作目は再び東京が舞台ということで、『愛しあう』の素晴らしい出来に唸った私としては非常に期待感が高まるところだ。早く読みたくて仕方がない。それにしても、もしその四作目が他の三作と同レベルの出来だとすれば、これはとてつもない四部作ということになるんじゃないだろうか。
トゥーサンの新作を読了。『愛しあう』『逃げる』に続く「ぼく」と「マリー」の物語三作目ということで、トーンはよく似ている。やはり、世界のあちこちの都市を舞台に「ぼく」と「マリー」の微妙な関係性が描かれる。前二作を読んでいなくても問題ないが、読んでいた方が味わいは深くなるだろう。エピソードも微妙にリンクしている。『愛しあう』と同じく東京のエピソードもあるし、『逃げる』終盤の舞台だったエルバ島も出てくる。
例によって、この小説もいくつかのエピソードのミニマリスム的な描写だけで成立している。まずパリの夜、ぼくとマリーが同時刻に別々のパートナーと寝るという、いかにもトゥーサンらしい人を喰った場面で始まり、マリーの愛人が突然の発作で死亡するまでの非日常的な出来事の連鎖が、いつものクールなタッチで淡々と、偏執狂的なまでに細密に描かれる。それが終わると次は「ぼく」の回想の中で時間を遡り、その愛人とマリーが東京から競馬馬ザーヒルを飛行機で運んできた時の顛末が語られる。夜、馬が成田空港の中で逃げ出して日本人職員が追いかけたりするが、この奇妙に静謐な、非現実感に溢れるドタバタ劇が、読者を独特の浮遊感のただ中へと連れ去る。ちなみにザーヒルという馬の名前はボルヘスの短篇から取られている。
それから、また時間を遡って東京の競馬場における「ぼく」とマリーの予期せざる邂逅。それから時間が冒頭の後までとんでエルバ島でのマリーの孤独な生活、それから「ぼく」との再会、それから火事。この小説は大体こういう流れで進んでいく。
それぞれのエピソード間に密接な因果関係や起承転結のようなものはなく、つまりストーリーはないに等しい。語り手である「ぼく」の気ままな回想がそのまま小説になった感じで、終盤のエルバ島を除きだんだんエピソードが時間を遡っていくのも、その気まぐれぶりを示している。そういう意味では本書も『愛し合う』『逃げる』と同じく、それぞれの場面が独立してどれほどのインパクトを有しているか、が勝負の小説である。ただし、そういうエピソードの数々を一つの小説としてまとめるテーマがあるとすれば、それは「ぼく」とマリーの奇妙な「別れ」、そして愛憎とも親密さともつかない二人の微妙な距離感ということになるだろう。小説の雰囲気がただ気ままなだけでなく何か真摯な、沈痛な色を帯びているのも、トゥーサンが描く二人の関係が醸し出すなんとも精妙なリリシズムのせいだ。
そういう小説なので、どこでどう終わってもいいような感覚があり、結末が近くなってくるとこの小説がどう終わるのかという興味も出てくるが、やはりラストはどんぴしゃり見事に決まる。さすがだ。ラストさえ決まれば、ストーリーがなくても小説は終わるんだなあということを実感した。
ところでこの「ぼく」とマリーの物語は全部で四部作になるらしく、四作目はもう完成していると訳者解説にある。この四作目は再び東京が舞台ということで、『愛しあう』の素晴らしい出来に唸った私としては非常に期待感が高まるところだ。早く読みたくて仕方がない。それにしても、もしその四作目が他の三作と同レベルの出来だとすれば、これはとてつもない四部作ということになるんじゃないだろうか。