アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

雁(1965年)

2019-01-22 23:49:27 | 映画
『雁』 池広一夫監督   ☆☆☆★

 以前、豊田四郎監督『雁』のレビューを書いたが、今日は池広一夫監督の『雁』である。私は両方とも日本版DVDを所有しているので、これを観終わった後また豊田版『雁』のDVDを引っ張り出して見比べてみたが、こんな風に見比べができるのも今の時代の映画ファンならではの贅沢だ。

 豊田版『雁』は1953年、池広版『雁』は1966年公開で、13年しか違わない。両方ともモノクロだし、ストーリーも基本同じ。ぱっと見には、なんでわざわざリメイクしたんだろうと首をかしげたくなる。もちろんキャストが違うので多少感じは変わるが、それだけでリメイクの意味があるんだろうか。同じ原作をあらためて映画化するなら、監督としては前の映画と何かしら差別化したくなるんじゃないかと思うが、本作の場合はあんまりそういう意図が感じられない。まあ、前の作品を意識しないで虚心坦懐に作るというリメイクのやり方もあるのかも知れないが。

 とはいえ、あんまり違わないからこそかえって違いを探してみたくなるという心理もあり、少し細かく比較してみた。ちなみに主要なキャストは豊田版がお玉・高峰秀子、高利貸し・東野英治郎、高利貸しの妻・浦辺粂子、岡田・芥川比呂志、岡田の友人・宇野重吉という布陣であるのに対し、この池広版ではお玉・若尾文子、高利貸し・小沢栄太郎、高利貸しの妻・山岡久乃、岡田・山本学、岡田の友人・井川比佐志、である。あらすじはざっくりいうと貧乏なお玉が高利貸しのお妾さんにされ、最初はけなげにつとめているが、やがて高利貸しのウソを知りまた学生の岡田に恋をし、妾という自分の境遇に絶望するという物語である。

 まず、冒頭シーンはまったく同じである。近所のおばさんがお玉を「お金持ちの旦那の愛人になれ」と熱心に説得する場面で、登場人物も同じ、セリフも同じ、お玉が内職で手仕事をしながら聞くのも同じ、全部同じだ。豊田版をキャストだけ変えてそのままなぞった映画かな、と思ってしまうほどだ。しかし細かく見ていくと、たとえば父親が帰宅してお玉と会話するシークエンスなどが追加されていることに気づく。

 そういう、豊田版になかったがこちらに付け足されているシークエンスとしては、「お見合い」時の高利貸し・お玉・父親の会話(加えて高利貸しのお玉を見る粘っこい視線)、お玉が妾になった直後にお梅(お手伝いさん)に言う「幸せになれそうな気がする」のセリフ、高利貸しにひどい目にあったおしげさんがお玉を非難した後で皆が白い目でお玉を見るショット、高利貸しがお玉にかぶさっているのをお梅が見るシークエンス、などである。全体に、お玉の心理や状況をより分かりやすく表現する方向のように思える。

 お玉の前に学生の岡田が登場してからもストーリーの流れは同じだが、後半に追加された点としては、岡田が彼女のことを蛇退治のエピソードに絡めて「彼女自身が蛇に狙われているような」と表現すること、それに対して友人がイプセンの「人形の家」に言及すること、等である。やはり、お玉の状況についてのより分かりやすい解説になっている。

 逆に、豊田版にあってこちらにないものとしては、裁縫のお師匠がお玉に「女ひとりで身を立てるのは大変よ」とさとすシークエンス(お玉は「あたしにこの暮らしを続けろっておっしゃるの」と反駁する)、岡田と高利貸しの訪問がかち合った直後、お玉が高利貸しに「ねえ、白粉塗るの手伝って」と媚びを見せるシーン、高利貸しがお玉に与えた金をわざわざ掌に握らせるシーン、欧州行きが決まった岡田がどの道を通るかコイントスするシーン、岡田を友人たちが見送るシーン、等である。

 一概には言えないが、豊田版にあって池広版から省かれたのは全体的に「間接話法」的な表現のような気がする。「金を握らせる」なんてのは直接話法だろうが、岡田の見送りシーンなんてストーリーと関係ない部分だし、一番分かりやすいのは「白粉塗るの手伝って」のシーンである。あそこは岡田と高利貸しがかち合ってしまい、疑う高利貸しを安心させるためにわざとお玉が高利貸しに甘えてみせる、という屈折した描写で、抑えた描写が多い豊田版にあって、お玉の白い胸元が露わになる最大の悩殺シーンといっていい。それが、池広版ではばっさりカットされている。池広版においては、お玉は高利貸しに対して常に受け身である。

 そして最大の、そしておそらくもっとも重要な違いはラストである。豊田版においては、高峰秀子のお玉は池のほとりで飛び立つ雁を見つめ、かすかに微笑む。映画はそこで終わる。高利貸しのもとを飛び出してきたお玉が今後どうなるのか、観客には分からない。分からないが、この流れからしてお玉もまた別の空へ飛び立つのでは、と予感させる終わり方だ。ところが、池広版では同じく雁が飛び立つの見た後、若尾文子のお玉は暗い顔で来た道を引き返し、高利貸しが待つ妾宅へ戻る。そこで映画が終わる。つまり、お玉は妾の身分から抜け出せない、抜け出せる予感もない。そういう結末だ。

 他の部分に比べて結末だけが極端に違う。もしかして、この結末の違いを際立たせるためにあえて他を同じにしたのか、と勘繰りたくなるほどだ。が、まあ本当にそうかどうかは分からない。

 つまり、より描写が抑制され、淡々としていて、間接話法的で、周辺的な描写も多い豊田版に対し、池広版はより分かりやすく、描写が直截で、メリハリがつけられ、余計な部分はカットされている、と言えるかも知れない。細かい間やタメが切り詰められ、ストレートになっている。全体的なトーンとしては池広版の方が暗く、音楽もちょっとミステリー・サスペンス調である。もちろん、結末にほの白い希望を感じさせる豊田版に対し、池広版は明確なバッドエンドで、暗澹とした絶望感に観客を突き落とす終わり方になっている。

 ヒロインであるお玉の印象は、高峰秀子があくまで可憐で純情なのに対し、若尾文子のお玉は色っぽくて陰がある。これらを総合してざっくり一言でまとめると、豊田版は文芸的であり、池広版はミステリー・サスペンス的である、と言えるんじゃないか。そういうことにしておこう。

 ただし、最初に書いたようにストーリーは(結末だけを除いて)同じ、セリフもほぼ同じ、従って映画の印象もほとんど同じである。バージョン違いと言ってもいい。私はどちらかと言うと豊田版の方が好みだが、『雁』の映画化を観たいという人に「どっちがいいですか」と聞かれたら、どちらでも大差ないと答えるだろう。



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