アブソリュート・エゴ・レビュー

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大江健三郎自選短篇

2018-12-06 21:46:44 | 
『大江健三郎自選短篇』 大江健三郎   ☆☆☆☆☆

 私は大江健三郎の大ファンでもないし、いい読者とも言えないが、やはりこのノーベル賞作家の仕事は気になる。だから「作家自選のベスト版短篇集であると同時に、全収録作品に加筆修訂がほどこされた最終定本」などと言われると、これはやはり読まないわけにはいかない。というわけで、このやたら分厚い文庫本をアマゾンで取り寄せた。

 大きく初期短篇、中期短篇、後期短篇とセクションが分かれている。初期短篇セクションに収録されている作品はほとんど既読だったが、中期と後期はすべて初読だった。初期作品はどれも重たくで鬱々としたムードが漂っている。犬を殺すバイトとか死体を扱うバイトとか、設定やプロットからしていかにも陰鬱である。ちなみにこの「奇妙な仕事」と「死者の奢り」はどっちも変わり種のバイトが題材ということで似ているなと思ったら、著者のあとがきによればこれは「書き直し」らしい。

 バスの中で米兵に辱めを受けた青年が、それを見ていた男に「勇気を出して警察に届けましょう」と追い回される「人間の羊」や、脊椎カリエス患者の療養所にやってきた新しい患者が無気力な空気を変えようとして運動する「他人の足」など、人間のイデオロギーとその隠された行動原理のギャップを暴き、人間を動かすメカニズムを解剖していくような小説が多い。その態度は微笑みまじりでも享楽的でもなく、冷徹かつ鋭利であるため、醜く生々しいものがドロドロといっぱい出てくる。その典型というべき作品が「セヴンティーン」で、これは鬱屈した青年がだんだん右翼にのめり込んでいく過程を描いたものだ。まったく気持ち悪い。

 そんな短篇が並ぶ中、異色なのは「日本文学100年の名作」シリーズの『ベトナム姐ちゃん』にも収録されていた「空の怪物アグイー」である。初期短篇セクションの最後に収録されているが、この作品は他と違って軽やかさと洒脱さを感じさせる。人間の痛みを描いているところは同じだが、人が過去喪失したものが空に浮かんでいて時折降りてくるという詩的なファンタジーで、あまりイデオロギー色を感じさせない。美しく、ユーモアもあって、何度読んでも素晴らしい短篇である。

 中期セクションに入ると、「レインツリー」を題材にした連作、著者の障害を持った息子イーヨーを題材にした連作と、互いに密接に関連する作品群が多くなる。純然たるフィクションであり著者の観念から生まれ出てきたようだった初期短篇群と違って、著者自身の人生や生活の中のエピソードが題材になっている。そこに多少フィクションが混じり、また著者が傾倒する作家や詩人の作品に関する思索や読解などが混じって、複雑玄妙な小説作品が出来上がっている。

 たとえば「レインツリー」連作は仕事でハワイに行った時に見た木と、海外移住してドロップアウトした友人が題材になっている。この友人は大言壮語癖のある不愉快な人物で、著者自身と思われる作家の「私」は彼にさんざん絡まれ、言いがかりをつけられ、更にはコールガールを連れた彼に部屋に転がり込まれたりする。

 そして次の短篇では、その友人の妻から手紙が来て、最初に発表した「レインツリー」作品の内容について批評される。そして著者はまたハワイに行き、この妻と会う。その他、日系アメリカ人の集会に出て批判されたり擁護されたりする。これらのエピソードを通して、著者自身の創作活動や周囲の人々との関わり方、社会との関わり方、その中の誠実さや欺瞞、などが思索され、問いかけられているようだ。

 イーヨーを題材にした連作はやはり力があり、充実している。それはもちろん、障害を抱えた自分の息子というきわめて切実な題材が扱われているからだろう。作家自身の苦しみ、戦い、不安、癒し、喜び、すべてが圧倒的なレベルで溢れ出してくる。文体がきわめて精密で内省的であるがゆえに、そのありさまはまったく圧巻である。誤解がないようにお願いしたいが、それはただ著者の感情が込められているからというだけでなく、日常的なエピソード、心理描写、読んだものや聴いた音楽など芸術への言及、などさまざまなファクターをちりばめ、配置し、精妙なパズルを描き出す著者の小説技法が鋭い緊張感をともなって駆使され、見事に結実しているからに他ならない。

 面白いのは、たとえば「静かな生活」においては語り手はイーヨーの妹であり、つまり作家の娘なのだが、彼女が父親である作家(つまり大江健三郎本人)の弱さや狡さを指摘するなど、色々と批判することである。大江健三郎の自己批判ということになるが、このことも、著者にとって小説がさまざまな思索を総合する場であることの証左といっていいかも知れない。大江健三郎においては、自分自身や家族や仕事や社会や芸術に関する思索を総合したものが、小説作品となるのである。

 それにしても、大江健三郎描くところのイーヨーの魅力的なことは驚くばかりだ。彼のセリフは多くないが、彼が発するすべての言葉が鮮烈で、意外性に満ち、愛おしい。著者の足に向かって言う「善い足、大丈夫か? 本当に善い足ですねえ!」や、医者が言ったことに反応して言う「そうなんですよ! 僕には脳がふたつもありました! しかし、今はひとつです。ママ、僕のもうひとつの脳、どこへ行ったんでしょうね?」などもそうだし、短篇「落ちる、落ちる、叫びながら……」を見事に締めくくるのもイーヨーの言葉である。

 もちろん、彼と暮らす家族は心配の種が尽きないし、苦労が多いだろう。しかしその代わりにといっては何だが、まるで聖人と暮らしているような敬虔な感動が日々あるのではないだろうか。大江健三郎のイーヨーを題材とする連作に一貫して流れているのも、そういう敬虔さである。

 連作の中にはタルコフスキーの映画『ストーカー』を扱ったものもある。短篇の中で著者の家族や作曲家の先生がこの映画について色々語るという、本当にストレートな短篇である。映画の中に登場したストーカーの子供がイーヨーに重ね合わされ、ラストで使われていたベートーベンの「歓喜の歌」が重要なモチーフとして登場する。

 ちなみに、「静かな生活」は確か伊丹十三が映画化していたと思うが、私は観ていない。この短篇がどんな風に映像になっているのか、観てみたくなった。

 後期短篇は連作ではなくまた単独短篇ばかりとなるが、作家自身の人生や生活に題材をとって思索を作品に結晶させるスタイルは同じである。自分の過去のトラウマや、神曲の登場人物ベラックヮなどがモチーフとなる。ラストの「火をめぐらす鳥」とは鶯のことだが、この短篇はある詩の解釈が土台となり、そこに著者の人生の中の色々なものが絡んでくることで成立している。イーヨーも再び重要な役割を果たしている。それにしても、一つの詩の解釈がここまで人生の一大事になるというのは、やはりこの人は根っからの文学者なのだなと思わずにはいられない。

 さて、こうして一通り読み通してみると、初期の純然たるフィクション作品はさておき、中期から後期にかけての作品はもはや起承転結のような「物語」文法からまったく解き放たれ、自由になったテキストだと感じる。時にはエッセーのようだったり、文芸批評のようだったりする。作者が考えたこと、読んだもの、生活の中で起きたことなどがランダムに配置され、絡み合うことで、全体としていわくいいがたい認識、直観、悟りがもたらされる。

 要するにこれらの作品は人間の謎を扱う文学であり、人生や感性や思索まで含めて「人間」というものの真実に近づこうとする営みなのだ、と言ってもいいような気がする。



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