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芭蕉の俳句(147)

■旧暦7月13日、土曜日、

今日は、排水管の清掃で業者が来るので7時から起きて待っていた。その間、自律訓練法を施して、新聞をじっくり読む。相変わらずの政治家の馬鹿さ加減。ドラマや映画化を前提にした恋愛ばっかりの色ボケ小説家の広告。まあ、どっちも金でしょうな。

今日は、午後から、ある講演会を聴きに行く予定だったが、家内の体調が悪く、病院に連れて行くことにした。



菊の後大根の外更になし   (陸奥鵆)

■元禄4年作。大根で冬。菊の古来からの美しさに、庶民的な大根の風味を強調している点に惹かれた。菊の花が終った後には愛すべき大根だけがあり、その俳味は格別である、といった感じだろうか。この句は、古典を踏まえた発想になっている。その古典とは、「是れ花の中に偏へに菊を愛するにあらず、此の花開けて後に更に花無ければなり」(『和漢朗詠集』元稹)と「いとせめていつろふ色の惜しきかな菊より後の花し無ければ」(『拾玉集』慈鎮和尚)である。

鑑賞の対象として菊というのは、現在でもありえるが、鑑賞の対象というよりも、俳味、おかしさ、ユーモアとしての大根というのは、客観写生にこだわると、現代でもなかなか難しいんじゃないだろうか。たとえば、大根を詠んだ有名な句には、

流れ行く大根の葉の早やさかな   虚子

があるが、これは大根の葉を詠んだものであり、俳味やユーモアに乏しい。しかし、

すつぽりと大根ぬけし湖国かな   橋石

大根を葉でぶらさげて湖渡る   平畑静塔

あたりになると、俳味が漂ってくる。

放哉はこんな句を詠んでいる。

大根抜きに行く畑山にある

まあ、あまり面白くないですね。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(3)

■昼寝して夢を見る。今と似ているが、微妙に違う人生を生きていた。多元宇宙論が本当なら、こういうこともありえる?




duftend lockt der Busch
um die Lavendelblüten
drängeln sich Hummeln



ほのかな香りで草むらが誘う
ラベンダーの花の周りには
蜂が群れている


■バルツァーの俳句の場合、はじめの一行で切れることが多いようだ。俳句というよりも詩に近いが、女性らしい平和な情景だと思う。
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飴山實を読む(28)

■旧暦7月12日、金曜日、

非常に涼しい。朝、5時に起きてしまった。柳澤桂子さんの『生命の不思議』読了。時間が過去から未来へと直線的に流れることと、言葉を直線的に並べて思考することしかできない構造には、関連があるという指摘は非常に興味深いものだった。おそらく柳澤さんの念頭には、散文的な思考がモデルとしてあるのだろう。ぼくは、韻文的な思考があってもいいと思う。俳句や詩では、言葉は直線的に並んでいても、流れる時間は、循環していたり、断絶していたり、そもそも流れていないこともある。したがって、言語がすべて時間の直線性に関与するとは言えない。しかし、時間の流れ方と言語構造(正確には文章構造あるいは文法)には関連があるという指摘は参考になった。



新月や鵜舟は川を荘厳す   『次の花』

■鵜舟で夏。鵜舟は、鮎漁をするときに、舟の先端に篝火を焚く。鵜は篝火をたよりに魚を追い、同時に、この火で眠りにつこうとしている魚を驚かせる。こうした鵜舟が、長良川に何艘も出ている。時は漆黒の新月である。

荘厳(しょうごん)す、という動詞は、仏教関連の文脈で使われるらしい。はじめ読んだときには、形容詞や形容動詞の使い方が普通と思っていたので違和感があったが、調べてみると、動詞もある。

漢訳語「荘厳」のサンスクリット原語は、vyuuha、あるいは alaMkaara である。前者は「動かす」「押す」を意味する動詞uuh- に、分離を意味する接頭辞 vi がついた vy-uuh- からの派生名詞であり、「分配」「配列」を原意とする。後者は、副詞「十分に alamM」と動詞「なす-kR-」との合成語から派生した、「準備」「装飾」を原意とする名詞である。仏教において「荘厳」とは一般的に、仏国土や仏の説法処を美しく飾ること、また智慧や徳で菩薩が自身を飾ることも意味する(出典「親鸞仏教センター」)。

鵜は鮎をくちばしでショック死させてから飲み込む。それを人間が漁る。残酷な生命世界の掟が厳粛に実行されている。無常と慈悲は表裏一体なのかもしれない。そんなことを感じて、惹かれた句だった。
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RICHARD WRIGHTの俳句(26)

■旧暦7月11日、木曜日、

今日は涼しい。朝から風が吹いている。さっきまで雨が降っていたらしい。起きたら、路面が濡れている。今日は、午前中、自律訓練法の習得に国府台に行く。かなり慣れて、もう生活の一部になっている。夕食に夏野菜カレーのリクエストがあったので、夕方は買い出しに行くつもり。

昨日、ウィスキーを飲みすぎて眠れなくなったので、柳澤桂子さんの『生命の不思議』(集英社)を読み始めたら、止まらなくなった。この本は、理系オンチのぼくにも生命の不思議さがありありと伝わってくる。なによりも、原因不明の難病で、30年の闘病生活という重い経験から発せられる言葉の数々は、胸を打つ。科学者なので、冷静に書かれているが、その分、胸に迫るものがあって、何度も涙が出た。



(Original Haiku)
From a red tile roof
A cat is licking beads of dew
In a humid dawn.


(Japanese version)
蒸し暑い明け方
赤い屋根瓦から
猫が下りてきて朝露を舐めている


(放哉の俳句)
どろぼう猫の目と睨みあつてゐる自分であつた


■ライトの三行詩は、美しいけれど、物足りない。放哉の句はユーモアとインパクトがあって、面白い。ライトが、このところ、形勢不利。
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芭蕉の俳句(146)

■旧暦7月10日、水曜日、

朝、早く起きるが、自律訓練法を施していて、そのまま、また眠り込んでしまった。起きたら、1時。そのまま、大学の授業料を振り込みに行く。人一人育て上げるのは、一大事業ですな。

いつもの喫茶店で、本を読んでいて、気がついたことがある。この時期、必ず、女性客の一人は旅行のプランを練っている。若い女性のこともあるし、中年のこともある。ただし、男性客でそういう人は見たことない。カップルの場合はあるけれど。9月になると、パック旅行が安くなるからだろう。台風シーズンだし、夏休みも終るから。



千川亭に遊びて
折々に伊吹を見ては冬籠り
   (後の旅)

■元禄4年作。こういう生活はいいなあ。魂のためには隠遁生活がいいんでしょうね。しかし、なかなかできないのは、何人も市場システムと無縁に生きられない定めだからか。莫大な遺産でもないと、現代では、難しいんでしょうね。そう言えば、マキアヴェッリが面白いことを言っている。「世界よりも魂の救済が大切な人々は政治には手を出すべきではない」マキアヴェッリにとって、自分の魂の救済よりもフィレンツェの方が大切だったということでしょう。自他の魂の救済の思想の系譜と世界の変革の思想の系譜。どっちもぼくは惹かれますね。色即是空。空即是色。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(2)

■7月9日、火曜日、

今日も暑かった。朝から病院。順調に回復軌道に乗っているので、担当医が喜んでいる。待ち時間に酒見賢一の短編「ピュタゴラスの旅」を読む。なかなか、詩的でよい物語だった。ピュタゴラスの数学が自他の魂の救済のための手段だったという仮説?は面白かった。帰宅して昼寝してから、サイバーの翻訳に入る。



サイバーに行き詰まると、バルツァーの俳句を考えていて、日本語バージョンができあがった。今日の俳句は、動詞がなく、難しかった。


sanft, fast lau Wind
selbst am Abend noch ganz spät
Schwalben am Himmel



風はやわらかく、なま暖かいくらい
夜もこんなに更けたのに
燕がまだ空に


■月明かりでもあるのだろうか。空を燕が行くのは見えないはずだから。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(1)

旧暦7月9日、火曜日

以前、俳人の五十嵐さんが紹介していたペリカンの万年筆、「ペリカーノ・ジュニア」がいたく気に入ってしまい、このごろ、よく使っている、ロイヤルブルーで書いているのだが、近いうち、ブラック専用にもう一本、買おうかなと考えている。ドイツで文字を習いたての子供のための筆記具だが、実に書きやすく、しかも1500円そこそこなのである。



ドイツ語のリハビリを本格的に始めないと、まずい。かなり文法さえ忘れかけてきた。そう思って、ドイツ語で書かれた俳句を日本語に翻訳してみようと思い立った。いったい、ドイツ人の感性というのは、俳句にどう現れるのか、ということも大変興味深い。

日本語の古典的な俳句をドイツ語に翻訳したテキストは、洋書店に行けば、入手できるが、オリジナルのドイツ語俳句の本というのは、見たことがない。そこで、ウェブで探したところ、ドイツ俳句協会があることがわかった。そこで、ここのホームページに紹介されている俳人の作品を上から順に日本語に翻訳していくことにした。

トップバッターは、女性俳人のSabine Balzerである。サビーネ・バルツァーは、1964年8月、ザールラント州生まれ。18歳で故郷を出て、ボンに移り、現在もボン在住。夫と娘さんが一人。余暇は自然に親しみ、写真を撮るのが好きだという。静かな時間に詩や俳句を書いているそうである。さすがに、ドイツ語の俳人でプロはまだいないのだろう。幸せな家庭の奥さんのようである。


am See herrscht Stille
ganz knapp über dem Wasser
gleiten Libellen



湖畔は静寂そのもの
水の上すれすれに
蜻蛉が滑るように飛んでいく


■表記にピリオドがないので、はっきりしないのだが、一行目で切れていると思う。これで、ワンセンテンスが完結している。静かで透明な湖面が想像される。蜻蛉は複数形で、一匹ではない。蜻蛉の群れが湖面にしずかに映っている。三行詩であるが、「切れ」の意識はあるように思う。

※ドイツ語のウムラウトは、Firefoxなら、文字化けしません。
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RICHARD WRIGHTの俳句(25)

■旧暦7月8日、月曜日、

朝のうちは風があって涼しい。湿気もなくクーラー要らず。実家で、倉橋由美子の『怪奇短編集』をパラパラ読むが、結末の見える陳腐な話が多く、問題の深い掘り下げがない。作家ただ、面白く奇異な物語を書けばいいんじゃなく、それが何か大きな問題に触れていなければならないんじゃないか。その意味では、現代の作家はほとんどがマーケティングを前提に書くライターになり下がっているように感じる。今日は、午後からカイロ。



(Original HAIKU)
A horse is pissing
In the snow-covered courtyard
In the morning sun.


(Japanese version)
朝の光の中
雪の中庭で
馬が小便をしている



馬が一疋走つて行つた日暮れる
  放哉

■放哉の方が面白い。ライトの句では、「馬が小便をしている」を場所と時の副詞句で説明しているだけで「切れ」がない。そうした情景の面白さはあるが、放哉の句にある、ある種の衝撃はない。そういえば、ライトには「切れ」の発想がないように思う。
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飴山實を読む(27)

旧暦7月7日、日曜日、

昨日から涼しくなりましたね。昨日帰宅、今日は一日なにもせずボーっとすごした。昨日から、蟋蟀の声を聞くようになった。実家への行き帰りに安部公房の『笑う月』という夢をテーマにしたエッセイを読む。安部公房の文体は論理的だが、痩せていて、笑いがない。読みながら、山口誓子をしきりに思った。そんなエッセイだが、一つだけ印象に残る言葉があった。

芸術は現実からの挑発である以上、モデル(現実)から創造的表現に至る迷路を通過する道筋はある


芸術が現実からの挑発であるという点。迷路を一気に通過する方法が安部公房の場合、夢の記録と収集である点。




大雨のあと浜木綿に次の花
   『次の花』

■全体に清清しい命の輝きを感じた。大雨があがって、日が差している。浜木綿の新しい花には水滴がきらめいている。「次の花」は何気ない表現だが、浜木綿の生命力をよく表していると思う。

ちなみに、柿本人麻呂が詠んだ浜木綿の歌が万葉集に記録されている。

み熊野の 浦の浜木綿 百重(ももえ)なす
心は思へど 直(ただ)に逢はぬかも
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芭蕉の俳句 (145 )

旧暦7月5日、金曜日、

6時に目が覚めてしまった。今日は、午後から、一足遅い墓参りに実家に帰る予定。内陸部は40度を越えているので、無事生還できるかいなか。




葱白く洗ひたてたる寒さかな
   (韻塞)

■葱(ねぶか)の洗いたての白さと寒いという感覚が相互に浸透し合っていて惹かれた。寒さの視覚化であろう。
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