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フランス語の俳人たち:Yves Tissot(3)

■旧暦11月16日、木曜日、、大晦日

(写真)無題

今日は、床掃除から開始。これを終わらせ、餅を切って、買い出しに行く。あとは、仕事に専念のはすだったが、年賀状を一枚も書いてない。これから書くしかなかろうが、今日中には終わらない。まあ、じっくりやろう、除夜の鐘でも聴きながら。

翻訳と著作を並行して行うのが、今のぼくの目標なんだが、まだ、著作は、本が出せていない。いくつか、プランはあるので、来年中には、足がかりを作りたいと考えている。




j'attends son retour
le ciel noir brille tempête
seuls les pieds ont froid


空模様が急変するかもしれない
嵐のように黒雲が垂れこめ
ただその下は冷気だけ


■よくわからない俳句だった。写真もあるが、関係があるとは思えない。attendreは「待つ」が基本だが、予想する、懸念するという意味もあるので、文脈上、そう取った。ただ、「わたしは空の急変を待ちわびる」も面白いと思う。



Sound and Vision




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フランス語の俳人たち:Yves Tissot(2)

■旧暦11月15日、水曜日、

(写真)無題

大掃除の日である。ぼくの俳句の影の師匠であるK.A氏にこういう句がある。大掃除遊び心をいかんせんよくわかるが、実際やったら、しばかれるだろうな。駅前の立ち食い蕎麦の前で、年越し蕎麦の販売をやっていた。始めて見る光景だった。

娘が金がないというので、旅行したときのユーロを円に換金してやったのだが、ユーロ紙幣に印刷された石柱のデザインやユーロ圏の広がりを眺めていて、これはローマ帝国の再現だなとふと思った。欧州の多様性のベースはローマなのだろう。

さて、これから、風呂の掃除である。




le lièvre se cache
loin des sorbiers alanguis
je trace ma ligne



野兎がしおれた七竈の先に
姿を消す
雪につけるわたしの足跡


■少し意訳した。原文に「雪」はない。この句は、ブログの写真と一緒に掲載されていて、スイスの12月の雪原に七竈が雪に埋もれるように写っている。そして、その先に、兎の足跡がついている。三行目は、原文では、「わたしは自分の足跡をつけていく」となるが、雪が想像できないと美しさが半減するので、あえて入れてみた。また、原文は、論理的な展開を感じさせ、切れのない三行詩と言えるだろう。それはそれで面白いとは思う。ただ、写真と俳句のコラボで難しいのは、俳句が独立したとき、写真の情報すべてを表現しきれない点にある。目で見たものをすべて言葉にはできないからである。
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翻訳詩の試み:Paul Celanを読む(5)

■旧暦11月14日、火曜日、

(写真)無題

最近、雲を撮るのが趣味になってきた。同じような風景はあるが、一つとして同じものはない。どこか俳句に似ている。早朝から仕事。午後、雑用、買い物。夕方から冬期講習。夜、白ワインを飲んで、馬鹿話をして、ひたすら、ぼーっとする。




EINEM BRUDER IN ASIEN


                            Paul Celan

Die selbstverklärten
Geschütze
fahren gen Himmel,

zehn
Bomber gähnen,

ein Schnellfeuer blüht,
so gewiß wie der Frieden,

eine Handvoll Reis
erstirbt als dein Frreund.




                            パウル・ツェラン


アジアの兄弟に


それだけで美しい
砲火は天をめがけ

十機の爆撃機は
大きく口を開ける

あっというまに火の花が開く
それは平和のように確かなこと

一握りの米は
きみの友だちとおなじように消える


初出「Coal Casck 65号」





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詩的断片 作品4

■旧暦11月13日、月曜日、

(写真)無題

朝起きて、作業を始めたら、ウォーキングに行くタイミングをついに逸した。ラジオ講座を聴かない日は、朝一番に出ないと、ダメらしい。朝から、仕事。夕方から冬期講習。明日で年内の塾関係の仕事は終わり。あとは、ポロックの翻訳に集中する。




深夜のトイレ
              ジャクソン・ポロックに

                      


もう半世紀もこの国に生きているのだ
今さら要領よくふるまってどうする
そもそも、そんなことはできやしないし
する気もない
今までのように
遠くから聞こえてくる風の声を
頼りに歩いていくばかりだ
その声を聴いているのが俺で
その声を発しているのがこの俺で
俺も案外遠いところから
来たのかもしれないじゃないか

金のことで迷惑はかけるかもしれない
なんの問題もない人生なんてないのだから
たかが金のことだ また貸してくれよ
砂に足で描いた絵みたいに
やがて消えるさ
   
色、つや、形、匂いと申し分ない大便を
深夜のトイレで排泄したとき
俺は確信したな
やっぱり間違っていなかったんだよ
うんこに誓って!

多少、涙もろくはなったけれど
十二月の空はときに火の匂いがする


初出「Coal Sack 65号」
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芭蕉の俳諧:猿蓑(49)

■旧暦11月12日、日曜日、

(写真)空のカーニバル

今日は正月休み前のインターバル。今年は、正月も翻訳をできるだけ進めたいと思っている。朝から、一年間の日記をチェックして、やり残しをピックアップ。でるわでるわ。その後、ウォーキング40分。天気が良くて、多くの人が、江戸川に出ていた。河岸に、畑を作っている区域があって、朝から、作業している人も。市から借りているのだろうか。午後、いただいた白ワインを飲みながら、アメリカ人数学者、ジョン・ナッシュを描いた「ビューティフル・マインド」を観る。DVDの返却日確認のとき、正月2日になっていたので、「数へ日」を実感。

この映画、ぼくには、とても怖かった。20年前にぼくも同じ経験をしたからである。ナッシュは、幻覚が出たが、ぼくは幻聴が出た。幻覚は幻聴が進んだ段階というよりも、もともと、視覚に来る人と聴覚に来る人がいるのではなかろうか。ぼくの場合には、視力が悪かったので、余計に、耳に来たのだろう。ナッシュは、幻覚と共存して、プリンストンで講義を続けているようだが、ぼくは、幸い、この状況を完全に脱し、共存という事態にはなっていない。

ナッシュほど、才能のない自分が、この危機を脱し得たのは、精神科医の言う医学的根拠でもなければ、優秀な人の正しい論証でもなく、自分にとって、全面的に信頼の置ける人格が存在したからである。それは、父親である。自分に対して、この人の言っていること、やっていることは100%嘘がないと、腹の底から思えたから、逆に、自分の認識の方が間違っていると確信できた。この確信から治療へとハンドルを大きく切ることができた。ナッシュの場合は、この役割は、奥さんが担ったのだろう。ただ、親と奥さんでは、関係性が異なる分、「信の質」に違いがあるように思う。そのため、ナッシュは、信と不信の間を揺れ続ける。

このときの経験から、視覚や聴覚といった感覚が、実は、自己完結的に自存するのではなく、社会的基盤があることに、はっきり気がついた。感覚には、それを支える社会関係がある。言いかえれば、感覚とは、常に、社会的に生みだされるダイナミズム総体なのである。この社会関係が、もともと、うまく構築できなかったり、何らかのストレスで、破壊されたりすると、視覚や聴覚に狂いが生じる。ここまでは、普通の人にも起きる。関係がこじれると、存在しないはずの声が聞こえてきたりするのが、このいい例である。普通は、これを悪化させないような機構が働き、社会性がすぐに均衡する。ナッシュやぼくが陥ったのは、もともと、社会関係を修復したり、構築したりするのが苦手である上に、存在しないはずのものと正面から対話を試みたり、存在しない声を聴きとろうと、まともに努力した結果である。ある意味で、「孤独な馬鹿」とでも言えるだろう。

こうなると、社会性が加速的に不均衡化し、狂気へと至る。感覚は自存せず、歴史に、つまり、社会集団と自然条件に規定される。その歴史が大きく歪んでいるとしても、である。

父親は、ぼくの看病に熱中するあまり、自分の癌の発見が遅れ、ぼくの治癒と入れ違いに世を去った。



湖水の秋の比良のはつ霜   芭蕉
柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ   史邦

■史邦は作りすぎの感じを受けるが、こういう作為感というのは、近代以降、俳句が挨拶から徐々に距離を取り始めてからかもしれない。安東次男は、史邦の句には俳があると言っている。現代で、俳味のある句を作るのが難しいのは、作為をいかに超えるか、という問題の難しさでもあるのだろう。現代の俳句の笑いは、作為を超えていないと、たぶん、成立しない。



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飴山實を読む(132)

■旧暦11月11日、土曜日、

(写真)無題

ウォーキングを始めて腰の調子がいい。ヘルニアには効果があるようだ。朝のウォーキングは気持ちがいい。今のところ、これしか運動はしていないが、徐々に、水泳まで拡大できれば、大成功である。当面は、背泳ぎだけになろうが。じっくりといこうか。




沖にゐる野分の走り二三粒
     「花浴び」

■こういう感受の仕方が新鮮で惹かれた。確かにこういうことはあるだろう。とくに海辺の町では。實の俳句を読んでいて感じるのは、「地方性」である。北陸に生まれ、山口を拠点に大阪、京都と遊ぶが、けっして、東京には定住しない。地方にいて、中央志向になるのは、ただの凡庸な俳人だが、地方にいて、その地方に根差すばかりか、さらにほかの地方へのなまざしまでも研ぎ澄ますのは非凡の証拠だと思う。近代に追随する俳句よりも、近代化からこぼれおちたニュアンスを拾い上げる俳句の方が、歴史のコアに触れるのではないか。そんな気もしてくるのである。



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飴山實を読む(131)

■旧暦11月9日、木曜日、

(写真)無題

朝、6時から作業開始。朝、いつものコースをウォーキング40分。富士山がきれいだった。午後、少し眠る。夕方から、冬期講習。帰宅後、黒糖焼酎を飲みながら、スウェーデンのマリアを称える歌を聴いて、ぼーっとする。




こぼるヽとすぐに流れて萩の花
    「花浴び」

■花なのに、動きが見える句で惹かれた。流れの速い水辺に近い萩なのだろう。小さな萩の花の動きが、逆に、大きな命の循環を浮き立たせている。「すぐに」という措辞が効果を上げていると思う。



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飴山實を読む(130)

■旧暦11月8日、水曜日、

(写真)冬の散歩

今日は、不思議に明るい日で、敬愛する二人の詩人から贈り物が届いた。一人は、鈴木比佐雄さんで、スウェーデンの歌手、ヘレーナ・エークのCDと市川文学プラザの資料である。この二つをお借りして、仕事がぐっと進んだ気がしている。もう一人は、崔龍源さんで、新しく出された詩集『人間の種族』(本多企画)であった。崔さんの詩は、じっくり読んでから、ここでも紹介してみたいと考えている。さらに、今日は、マエストロから返信があり、アンソロジーに入ったことを誇りに思うと伝えてきた。嬉しかったのは、ぼくの英語俳句を気に入ってくれて、ほかの俳句も読んでみたいと言ってくれたことであった。一生懸命にやっていると、ときに、花束を投げ込んでくれる人がある。ありがたいことである。




世に出でし木簡のすぐかぎろへり
    「花浴び」

■季語「かぎろへり」の使い方に衝撃を受けた。木簡がかげろうという発想は、出そうでいて、普通じゃ出てこない。飛び方が、すれすれで、説得力の圏域にある。ここが實の凄いところで、高く飛ぶことは、意外に簡単だったりするのである。



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芭蕉の俳諧:猿蓑(48)

■旧暦11月7日、火曜日、、冬至

(写真)巣

今日から冬期講習に入るので、翻訳との兼ね合いが難しい。なかなか、くたびれる。この局面は、ジャクソン・ポロックの翻訳を最優先に進めるつもりでいる。寝る前は、ウィスキーを飲みながら、好きな本を読んで、ひたすらクールダウン。今日は、冬至なので、柚湯に入った。

ポロックの本は、oral biographyという方法を取っている。関係者へのインタビューだけで、ポロックの生涯と家族を浮かび上がらせている。始め、なんという細かいめんどうな本だろうと思っていたが、これは、もしかしたら、相当、衝撃的な本ではないかと考えるようになった。というのは、部分あるいは末梢的な事柄にこそ、ポロックの真実が現れているという、きわめて、日本的で非西欧的な方法意識に支えられているからだし、部分から至ろうとする全体は、まったくの不在であるからだ。あるいは、そうした全体性を放棄しているとも言えるかもしれない。

また、関係者は、ポロックその人や、その父母について、具体的で生き生きしたディーテールを、思い出として語るが、その豊富なエピソードの中に現れていないことは何のか、そして、語っている当人は気がついていないけれど、触れてしまっているものは何のか、実は、そこが大きなポイントなると思っている。oral biographyという方法が、いつから、どのように始まったのか、じっくり調べる必要があるが、この方法のアクチャリティは、解説で触れる価値が十分にあると思っている。

ポロックその人の芸術ということで言うと、今まで、ポロックは、現代美術史の文脈の内側で語られることが多かった。だが、ポロックは突如として、彗星のように現れたわけではなく、それを準備した社会的条件、空間的条件、歴史的条件があるはずである。そうした条件総体との関わりの中で、いかにポロック芸術を再構成できるか。ここがテーマとしては、大きなものになると思っている。そうした諸条件を具体的に提供するのが本書の隠れた役割なんだと思う。

ぼくのかすかな記憶では、oral biographyつまり聞き書きという方法は、現象学とつながりがあったように思う。現象学は、歴史すなわち、社会と自然が欠落している。ここに出てくる社会や自然を、ポロック芸術を規定する条件として、読み替えることで、見えてくるものは何か、と問うことにもそれはなるだろう。

この本のことを初めてU氏から聞いた8年前、ぼくは、「売れないだろう」としか思わなかった。今、翻訳に着手してみて、上記のような価値がかすかに見えてきたところである。




青天に有明月の朝ぼらけ
    去来
湖水の秋の比良のはつ霜
    芭蕉

■この二つの句が作りだす世界は、その前と打って変って、すがすがしい秋の景になっていて、その変わり方に驚く。歌仙は、基本的には、それまでに巻かれた世界全体を前提にするのではなく、基本的には、直前の世界に付けるものなのだろうか。このあたりが、まだよく見えない。



Sound and Vision

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フランス語の俳人たち:Yves Tissot(1)

■旧暦11月6日、月曜日、

(写真)冬の緑

朝6時から作業。叔母の様子を見にゆく。12時過ぎに、詩人のSさんより電話。家人の新しい仕事について、貴重な助言をいただく。午後、都内某所でU氏と秘密会談。アメリカ資金の有効活用法について。移動の電車で、フランス語を検討する。アファナシエフ詩集の中の一篇が、来年夏に出るアンソロジーに入ることが決定したので、その旨、マエストロに知らせる。これが、日本の読者の拡大につながればいいと考えている。



イヴ・ティソは、スイス人。1955年、スイス西部のジュラ山脈の中の都市、ラ・ショー・ド・フォンに生まれる。ヌシャテル大学でフランス語、哲学、言語学を学び、さらに、パリの社会科学高等研究実習院でルイ・マルタンに師事。25年以上、地元で、高校の教師をしている。ティソはブログも持っている。


oasis lointaine
je n'en saurai rien ô reine
les rais à ras filent



はるかなるオアシス
わたしはそれをまるで知らないのだ 女王よ
光の矢はさっと降り注いでは消える


■音の響き計算している。韻を踏むように美しい響きだと思う。季語の問題をどう考えているかが、今後のポイントの一つだと思う。季感としてはオアシスで夏だと思うが、11月に作られた句である。



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