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桶川三井精機の日誌



■桶川市協働推進提案事業「平和を考える10日間」から





「71年前の今日 桶川三井精機の日誌(皇国第1888工場)」と題して、日誌の朗読と市の民俗資料館のスタッフによる解説があった。

・昭和15年から20年の日誌
・昭和50年まで三井精機工場は若宮一丁目にあり、現在跡地は若宮団地になっている
・1940年(昭和15年)に工場設立
・石亀(甕?)繁太郎氏の日誌、工場長など、責任ある地位だったひと
・戦時の記録
・昭和15年8月16日にはじまる
・午後、福井業務部長に呼ばれ執務室へ、新会社へ出向の件で
・桶川町へ作る新工場へ
・日曜日、桶川へ、上野から高崎線、大宮から二つ目が桶川、一軒の家もない
・遠くに雑木林が見える
・工場付属の青年学校の設立に情熱を注ぐ
・石亀氏は、北海道出身、もともと、教育者で教壇に立ったと後に三井精機へ
・桶川町、寺と町の公民館に工場付属学校をはじめにつくった
・12月14日、県庁へ、青年学校の建築を進めている
・12月17日、工場起工式
・太平洋戦争へと
・昭和16年6月27日、ドイツがソビエトに宣戦布告
・ドイツにこの工場の建設は依存している
・6月25日、中島飛行機会社の友人が結核で入院、毎日残業で身体をやられたか
・12月8日、朝の7時の時報後に、大本営陸海軍発表、米英と戦闘状態に入る
・工場へ来てみると、ラジオを聞いた連中がざわついている
・自分は、訓示をした、一日中、大本営発表や政府発表を聞いていた
・ハワイ奇襲の成功、従業員は歓声を上げた
・昭和17年6月3日、第一回体育大会
・鴻巣警察署長も来ていた、本部からも
・ブラスバンドは工場の文化活動を代表する存在、
・合唱、吹奏楽、ハーモニカ
・工場で働く人々が出征
・11月24日、12名が応召、ブランスバンドを先頭に駅まで見送る
・昭和18年、5月にはアッツ島の玉砕
・昭和19年、空襲の記事が日誌に見られるようになる
・女子挺身隊入所
・7月4日、九州へ空襲あり
・7月18日、サイパン陥落
・サイパン島全員玉砕
・東条内閣総辞職
・工場へ動員された学徒
・熊谷中学の動員中の岩井くんが負傷
・12月20日、岩井君死去
・12月21日、熊谷中学へ行く
・12月31日、朝から風呂場つくり
・夜、空襲の断続サイレンが鳴る
・工場のバルコニーから見ると東京方面が焼けている
・職員289男、女5 工員男子2375 女子331 女子挺身隊89 男子学徒156 女子58 国民学校学徒(人数書き留められず)
・2月10日、敵の目標は、太田の中島飛行場
・昭和20年3月10日、空襲警報、闇の中を会社へ、バルコニーから見ると、東京の空は真っ赤(東京大空襲)
・4時、空襲警報解除
・東京の被害は想像を絶する、死者推定10万
・3月11日、朝3時警戒警報発令
・東京からの悲報ぞくぞく来る
・5月17日、沖縄方面の戦況、重大化
・熊中の校長が先生をひとり連れて来社
・川田谷飛行場9名が沖縄戦況を知らせに来る
・学業を捨てて工場で働いてくれた少女たちに感謝
・埼玉県にB29が来る
・敵機来襲、渋川、前橋、高崎方面がまっかに燃えている
・広島市に新型爆弾投下
・熊谷空襲3630戸消失、3000人が死亡(人数不正確)
・8月15日、指令所を出たり入ったり、
・熊谷の空もだんだん色が褪せてきた
・悪夢のような一夜
・熊谷空襲のための汽車も乱れている
・正午前、全員をロータリーに集め、ラジオを聴く
・はじめは難解な漢語のため理解できない
・従業員の中から嗚咽の声起こり世界は一転した
・家内の学校から帰っての一声「とうとう負けたのね」
・皇国1888工場は残った
・散歩に出てみたい、社宅の道へ、社宅はまだ静か、鎮守の稲荷神社へ、神前で柏手を打ち、今後の幸運を祈った

ここから歴史資料館館長の説明
・日誌:歴史学では日誌は資料として扱っていなかった
・近代の歴史は当事者が存命
・日誌は、昭和20年一杯記録は続く
・三井精機にも朝鮮半島からの人々も徴用されていた
・どうやったら半島出身者が気安くなるのか、朝鮮のひとの正月を工夫、食料も工夫
・戦後、どうやって朝鮮の故郷へ帰そうか、国からはなにもない
・帰国算段を工場独自につけて一名職員をつけて釜山へ半島出身者を送り届けている
・工場従業員3500名
・工作機械、飛行機部品製造
・桶川歴史民俗資料館で戦時資料を収集中
・石亀さん、昭和23年以降は、北海道の酪農高校へ戻り教壇に立っていた


※ けっして、石亀さんは、「鬼畜米英」などといった記述は書かない。天皇に関する記述も、朗読された箇所にはなかった。国が徴用した半島出身者の処遇も、いろいろ考え、国がなにもしないので、帰国まで、工場の責任でしている。石亀さんは、まったく、いま街を歩いている良心的なひとと変わらない。そういうひとは多かったのだろう。それでも、それだから、戦争は起こったのだろう。声を上げてゆくことは、未来世代への責任だと強く思った。なにもしない、なにも言わないのは、その社会体制に加担していると同じなのである。その社会体制に媒介されて生きているのだから。







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9条は幣原首相が提案





「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料  東京新聞 2016年8月12日 朝刊

日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相(当時、以下同じ)が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。史料が事実なら、一部の改憲勢力が主張する「今の憲法は戦勝国の押しつけ」との根拠は弱まる。今秋から各党による憲法論議が始まった場合、制定過程が議論される可能性がある。 (安藤美由紀、北條香子)
 九条は、一九四六年一月二十四日に幣原首相とマッカーサーGHQ最高司令官が会談した結果生まれたとされるが、どちらが提案したかは両説がある。マッカーサーは米上院などで幣原首相の発案と証言しているが、「信用できない」とする識者もいる。
 堀尾氏は五七年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため五八年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。高柳は「『九条は、幣原首相の先見の明と英知とステーツマンシップ(政治家の資質)を表徴する不朽の記念塔』といったマ元帥の言葉は正しい」と論文に書き残しており、幣原の発案と結論づけたとみられている。だが、書簡に具体的に何が書かれているかは知られていなかった。
 堀尾氏は国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。今年一月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は五八年十二月十日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。
 マッカーサーから十五日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。
 九条一項の戦争放棄は諸外国の憲法にもみられる。しかし、二項の戦力不保持と交戦権の否認は世界に類を見ない斬新な規定として評価されてきた。堀尾氏が見つけたマッカーサーから高柳に宛てた別の手紙では「本条は(中略)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したもの」とあり、堀尾氏は二項も含めて幣原の発案と推測する。
 改憲を目指す安倍晋三首相は「(今の憲法は)極めて短期間にGHQによって作られた」などと強調してきた。堀尾氏は「この書簡で、幣原発案を否定する理由はなくなった」と話す。
 <しではら・きじゅうろう> 1872~1951年。外交官から政界に転じ、大正から昭和初期にかけ外相を4度務めた。国際協調、軍縮路線で知られる。軍部独走を受けて政界を退いたが、終戦後の45年10月から半年余り首相に就き、現憲法の制定にかかわった。



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桶川飛行学校からのメッセージ




■伍井芳夫大尉の複葉式練習機、通称、”赤とんぼ”は―もう、戦闘機も燃料も陸軍にはなかったのである―、桶川上空を爆音を響かせて旋回したあと、鹿児島の知覧基地へ向かった。大尉は、桶川の将校宿舎に住む家族に最後の別れを告げたのだった。子どもはまだ1歳だった。その爆音をいまでも覚えているひとがいる。

桶川市は平和都市宣言を行い、8月6日から15日までの10日間を「平和を考える10日間」とし、駅ビルのイベントホールでコンサートやアニメ上映、紙芝居、朗読会などを通じて、戦争体験を次世代へ手渡そうとしている。その中の一環として、きょう8月12日の午後に、旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会が、「桶川飛行学校からのメッセージ」と題して、戦争遺族から見た戦争や、戦争遺跡としての桶川飛行学校の歴史とその意義などについて、お話があった。以下は、その話を要点のみでメモ書きにしたものである。多少、誤記もあるかもしれないし、不十分なメモだが、記録として残しておきたい。乱文はご容赦されたい。





桶川飛行学校からのメッセージ

旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

<会長(伍井芳夫大尉のお嬢さん)のお話し>

・フィリピンで初めて特攻作戦があった→成功(これが失敗していれば、悲惨な特攻作戦はなかったかもしれない)
・飛行学校を残すことで、戦争があったことを建物が語る
・平成19年に住居として住んでいた人が出て、建物が残されていた
・戦争があったことを残す→1万5千名の署名
・現在、耐震工事のため立ち入り禁止
・こだま飛行場(坂戸)、越谷にも飛行場があった
・飛行機に乗れるというのは憧れだった
・教官クラスも特攻隊になった
・教官であるがゆえの苦悩
・第23振武隊隊長 伍井芳夫大尉(特進後中佐)
・最後は燃料がない、松脂を燃料にした
・食料がなくて死んだ、戦って死んだんじゃない(遺族会のひと語る)
・戦争は痛ましい→語り継ぐ必要がある
・15年、20年前までは、特攻隊の話は封印されていた
・『特攻隊長 伍井芳夫』(桶川図書館にあり)

<内藤たけしさん(語り継ぐ会理事)のお話し>

・飛行学校の歴史
・ことし2月、守衛所、車庫、便所、弾薬庫、を市が有形文化財に指定
・5月に解体調査に着手
・現在は、建物の老朽化・案内は中止、立ち入り禁止
・桶川飛行学校、昭和12年の6月3日に開校、約80年の歳月を経てそのまま残している
・全国でも数少ない戦争遺跡
・下士官操縦学生を教育
・下士官30-50人を二個班に編成、気象学、航空工学、航空力学を講義
・当時の格納庫、給水塔、吹き流しなど、コンクリート基礎は全国に残っている
・飛行機は鉄の骨組に絹の布を張った通称赤とんぼという練習機を使用
・前座席に教官、うしろに学生が乗った
・きりもみなどの特殊飛行
・九九式高等練習機を使用
・浜松・岐阜等遠方へ飛行訓練
・台湾・朝鮮での実地訓練
・学生は兵舎に寄宿
・教官は外部に住居
・昭和16年12.6太平洋戦争勃発
・陸軍少年飛行兵、受験資格満15歳以上、19歳未満
・富永やすし少尉、長崎出身、散華二階級特進
・昭和19年後半には、燃料不足、飛行機不足のため昭和20年には閉校
・1600名の飛行兵を教育訓練
・昭和20年4月5日正午、第79振武隊、練習機によるはじめての特攻出撃
・満州からの引揚者の住宅、通称若宮住宅として使用 33世帯60数名
・トーラス建築法、和洋折衷の戦争遺跡
・桶川市平和都市宣言に則った戦争資料を収集
・戦争には正義も道徳もない、こころを含めた破壊しかない
・飛行学校の存在を永久に語り継がなければならない

<桶川飛行学校の今後>

・解体が来年3月に終了予定、それから建て替え
・この二年間、行田のものつくり大学に委託して調査
・ものつくり大学の提案の中では、最低でもいまの4棟を復元、市のほうもその点は一致している
・一回解体して、使えるものは使って復元
・風呂場棟も復元したい
・財政面、政策面などで、まだ確定していない
・文化財のため、4棟は最低でも復元するだろう
・8500万の予算で4棟の解体、一つ一つの部材を調査、サイズ、どういう作り方か、調査
・来年度再来年度に設計をして、オリンピックの年に最低限の復元
・戦争遺跡は、鉄筋は残っている、かまぼこ型の兵舎、円柱などのコンクリートものは全国には残っているが、桶川飛行学校は全木造、敷地は桶川市所有
・一般民衆に近いひとが入っていた(きのうまで、大学で勉強していた)
・まとまって戦争遺跡が残っている
・木造なので解体して残すほかない

<語り継ぐ会の活動>

・中学校・高等学校へ講演
・この8年間、土曜日曜祝日に10人くらいで詰めていた
・関係者は250名、会員は180名






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音利房盛典(おとりんぼうせいてん)





知足院の盛典の墓








■桶川には、3有名人がいる。緑茶のカテキンを世界で初めて発見した、日本初の女性農学博士、辻村みちよ(1888-1969)。直木賞作家、安藤鶴夫(1908-1969)、そして、梵語学者・僧の音利房盛典(1662-1747)である。ここから、盛典の墓は、自転車で15分程度のところなので、7月下旬に墓参に行ってきた。以下の説明は、盛典の墓にあった表札に書かれたものを写してきたもので、埼玉県と桶川市が、連名で文責となっている。



知足院の盛典の墓





・盛典は寛文二年(1662)に上種足村(かみたなだれむら、現在の騎西町)に生まれ、加納村(現在は桶川市内)の光照寺において光栄の弟子となり、さらに大和の長谷寺、京都の知積院などで修業を重ね、元禄十年(1697)に知足院の住職となっている。その後、他の寺の住職にもなっているが、晩年は知足院に隠居し、延享四年(1747)に八十四歳でこの世を去っている。



桶川市下日出谷西にある知足院本堂




・盛典は梵語の研究において名高い真言教学の学僧であったが、庶民への布教活動にも力を注ぎ、この知足院の観音堂を一番として三十三か所の寺院を結ぶ足立坂東観音霊場の創設は、代表的な事績である。



墓の中の首なし地蔵



・盛典が宗教者として生きた時代は、江戸時代の中でも、世の中が安定し、農民の暮らしにもいくぶんかゆとりが生まれ、信仰を兼ねた旅行として、神社仏閣への参詣が盛んになる時代でもあった。とくに、現世利益を願う庶民に観音信仰が受け入れられ、西国、坂東、秩父などの霊場巡礼を行うことは当時の庶民のささやかな願望であった。盛典は、このような願望を身近なところに実現すべく、「足立坂東観音霊場」を設けたのであろう。



知足院の墓所



・知足院は、竜谷山弥勒寺と号し、古くは京都御室の仁和寺の末寺であったが、現在は真言宗智山派に属している。開基については不詳であるが、天正年間に武田信玄が再興したと伝えられ、その後、衰えた寺を盛典が中興したという。

昭和61年3月  埼玉県
       桶川市




☆梵語とはサンスクリット語のこと。仏典に使われた古代インドの言葉。日本へは、空海が多くサンスクリット語経典を持ち込んだらしい。それで、真言教学は、梵語学者を出しているのではいかと思う。
☆元禄時代に現世利益を願う観音信仰があったというのは、知らなかった。霊場と関連があったとは意外だった。





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寄付としての「ふるさと納税」




■ふるさと納税は、特典が豪華なので、何回か行ったことがあるが、いま起きている九州・熊本地震に対しても、寄付の手法として注目されている。特典なしの支援金として、直接自治体へ寄付できる。茨城県堺町は、震災対応に追われる熊本県に代わって、熊本県への寄付を受け付けている。ふるさと納税のポータルサイト「ふるさとチョイス」で、専用ページから堺町に寄付すると、全額が熊本県へ支援金として送られる。ここから>>>





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産経抄(2/7/2015)



(横浜市旭区二俣川)




■産経新聞は、ある意味、興味深いので、たまに読む。7日付けのコラム「産経抄」は、そんな「ユニーク」な産経の中にあって、さすがに、その本質を表現したものと感服している。その本質とは、権力の<提灯持ち・チンドン屋>である。じつに賑やかに太鼓を叩いている。この新聞の愛読者は、警察・自衛隊関係者が多いと元産経記者は述べているが、私見では、中小企業経営者もよく購読している。人間もここまで、落ちることができるということの証左として記録しておきたい。いや、まだまだ、落ちる。それは、これからだろう。そういう社会体制づくりを、安倍政権が急ピッチで進めているからだ。自公を支持しているひとびとは、目先の景気回復や経済成長といった、一部の人間を富ませるための「まやかしのスローガン」に騙されることなく、歴史的な責任を自覚してもらいたいものである。














わがことながら日本人は、敗戦から70年という歳月をかけて本当に優しくなった。「イスラム国」という名のならず者集団に空軍パイロットが焼き殺されたヨルダンは、さっそく報復爆撃を始め、指揮官を含む55人以上を殺戮(さつりく)した。

▼ヨルダンでは、「なぜ2人も殺された日本がともに戦わないのか」という声が高まっているという。日本には憲法の制約があって云々(うんぬん)、と説明してもまず理解されぬだろう。

▼憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。後藤健二さん自身も数年前、「憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」とつぶやいている。

▼だからといって処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうしていえようか。助けにいった湯川遥菜さんが斬首されたときの写真を持たされ、家族に脅迫メールを送られ、心ならずも犯人側のメッセージを何度も読まされた後藤さんの心境は想像を絶する。

▼仇(かたき)をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。第一、「日本にとっての悪夢の始まりだ」と脅すならず者集団を放っておけば、第二、第三の後藤さんが明日にも出てこよう。

▼日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。護憲信者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。

(産経抄 2/7/2015)





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Newsweekを読む(1):Is Photography Dead?

■旧暦11月11日、木曜日、

午前中、病院で健康診断。一年半ぶり。メタボがぎりぎりセーフの数値で驚いた。運動したいなあ。



【足尾への旅】温泉で暖まってから、今度は、神戸(ごうど)駅をめざした。ここから、星野富弘美術館まで、送迎バスが出ている。星野富弘という詩画作家は、地元ではつとに有名で、美術館が新築されて、いっそう、訪れる人が増えたと聞く。ぼくは、どうも、この人が苦手で、今回、初めて訪れた。身障者(星野さんは、今年還暦。中学の体育教師だった星野さんは、23歳で授業中に事故に遭ってからずっと、肢体不自由で、口で絵を描き、詩を書いている)に対する同情心が先行して、絵の独立した批評や理解を阻んでいるのではないか、とずっと思ってきたのである。今度、行ってみる気になったのは、星野さんほどじゃないしても、ぼくもいろいろな持病を持ち、年齢を重ねて、人生の苦難をそれなりに味わって、逆に、星野さんと適度な距離が取れるようになったと感じたからである。つまりは、身障者が描いたにせよ、健常者が描いたにせよ、絵を絵として見、詩を詩として聴く体勢が整ったように感じたのだ。

そんな気分で訪れた美術館に展示された水彩画は、人を圧倒する気配がまるでない。ひっそりと、野に咲く花のように展示されている。なにか、斬新なことをやろうとか、人に衝撃を与えようとか、そんな雰囲気は微塵もない。ただ、目の前の草花を細部まで描きこんでいる。星野さんは、クリスチャンだが、そして、その信仰が、生きる支えにもなっているのだろうけれど、ぼくの感じたのは、絶対的な超越神を信じる人の絵じゃなく、草花の細部に神がいることを信じている人の絵のように思えた。神道的な感受性と言っていいのかどうか、わからないが、描かれた草花は、どれも微笑している。

中でもぼくの印象に残ったのは、新聞のためにペンで描かれた草花だった。モノクロームの草花が、静かに微笑んでいる。ほのかな明るさが絵から漂っている。

星野さんの絵を見ながら、ぼくは、子規のことを思った。結核で寝たきりだった子規も、水彩画をよくしたが、彼もまた、神は細部に宿ることを確信していた一人だったのではないだろうか。

(写真)わたらせ渓谷鉄道「神戸駅」。なんともいえない味わい。



Newsweek(DEC.10, 2007)を読んでいたら、写真論に眼が止まった。デジカメで、なんとなく、写真を撮るようになって、どうも、写真論が気になるのだった。この記事の内容そのものは、さして、斬新なものじゃない。いわば、デジタルテクノロジー批判なのだが、この記事の筆者が前提にしている思想や考え方が興味深いので、少し、検討してみようと思う。そこから、何が見えるか。

【Is Photography Dead?】 By PETER PLAGENS

【プラゲンズの論旨】初期の写真家は写真を芸術と考え、構成の行き届いた絵画のように撮影することをめざしたとプラゲンズは言っている。そのときの基本的な考え方は、芸術と真実は一体というもので、モダニズムが起こるまでは、現実生活の事物にできるだけ近づけることが、絵画にせよ、彫刻にせよ、西欧芸術の基本だったという。

デジタル操作ができるようになって、芸術写真に非常に大きな可能性が生まれた一方、写真の魂が失われたとプラゲンズは言う。フィルム写真の特徴は、カメラの前で起きた現実を記録することである。デジタル写真の場合、現実はバラバラになり、かすかな痕跡しか残されていない。写真はレンズの前で起きたことから完全に自由になってしまった。現在、ギャラリーに展示されている写真は、タッチや質感を除けば、本質的には、絵画となんら変わらない。写真は、現実に根ざした「証拠」だとは言えなくなってしまった。

【感想】プラゲンズの議論は、ナイーブだと思う。フィルムカメラが現実を正しく写し取ると考えていることに、まずびっくりした。写真は、現実の全体のコンテキストから、一断面を切り取るだけであるから、そもそもカメラの写した現実はわれわれの生きる現実とは異なるものだろう。写真に撮られているから、それが真実だとは、単純に考えられないのではないか。現実の一断面であり、現実の誇張であり、現実への誘いであり、現実の告発であり、現実の再構成であろう。事の良し悪しは置いて、写真によって「重要な真実」が作り出されてきた側面を見逃すことはできない。フィルムカメラにしても、デジタルカメラにしても、そこに操作性が内在するという点では同じである。デジタル化によって、写真の操作性が大幅に拡大したことの影響は、おそらく「報道写真」にもっとも出るのではないか。「本当らしかった」写真で、封印されてしまった批判精神が、デジタル写真で顕在化するとすれば、デジタル写真の意義も少なくはないとも言える。写真を見る側に、これまで以上に、批評精神が求められるようになってきたのではないだろうか。

では、写真や映像を撮る側はどうか。東チモールやミャンマーの例に見られるように、独裁政権による非人道的な弾圧の映像や写真が、インターネットを経由して、世界中で観ることができるようになり、プロテスト運動の組織化に多大の影響力を持った事実を忘れることはできない。もし、その弾圧している映像や写真がデジタル処理されたまっかな嘘だったとしたら? だれかが、反対勢力を駆逐するためにでっち上げた「作品」だったとしたら? 逆に、レンズの前で起きた「現実」なのにも関わらず、デジタル処理された偽物だと、権力側・体制側がキャンペーンをインターネットで大規模に行うことも予想される。その映像が、少なくともレンズの前で起こったものであることを、どこで、だれが、どのように、担保すればいいのか。この問題は、社会運動や政治運動との関わりで、遅かれ早かれ、問題化するに違いない。UCCが韓国の大統領選に影響力を持ち、YOU TUBEが米国の大統領選に影響力を持っている今、とても重要な問題になってきている。

この意味では、プラゲンズの議論は、ナイーブであるがゆえに、重要な問題を内包していると思えるのである。




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新聞を読む(1):Fear of eating

旧暦、4月6日、。「耳鳴り」は、朝と夜にひどいが、自分なりに3つのアプローチを編み出した。これで、この一ヶ月、対応してみようと考えている。



中国から輸入食品が消費者(およびペット)の生命リスク問題になっている。米国の経済学者、ポール・クルーマンが、この問題について、International Herald Tribuneに、「Fear of eating(食の脅威)」と題して寄稿している。この問題の責任はどこにあるのか、をめぐって3つの考え方を紹介し、最後に自分の考えを述べている。その3つの考え方とはつぎのとおりである。

1. グローバリゼーションに問題がある

・米国政府は、相手国の許可がなければ、海外の食品工場に立ち入り検査はできない。その上、食品医薬品局(FDA)には予算も人手もないから、輸入品を検査するにも限界がある。米国の消費者は、中国のように、食品安全意識の低い外国の食品安全法に依存せざるを得ない。

2. 食品製造企業に問題がある

・この考え方を説明するにあたって、クルーグマンは、ConAgra社の事例をあげている。2005年、FDAは、ConAgra社が製造したピーナッツバターがサルモネラ菌に汚染されているとにらんだ。FDAはプラントに立ち入り検査をしたのだが、ConAgra社はすでに製品を廃棄していたのにシラを切り、裁判所の許可証がなければ、記録の閲覧は許さないと突っぱねた。FDAは中途半端なまま検査を中断した。

3. ブッシュ政権に問題がある

・この6年、米国の食品安全システムは後退した。FDAは、議会命令を除くと、新規の食品安全規制を施行していない。こうなったのは、産業界の圧力が原因という単純な話しではなく、産業界が望んでいても、規制の導入に踏み切っていないのである。なぜ、当局は規制を嫌がるのか。他の業界に対する先例を作りたくないからである。当局は、ビジネスはどんなものであれ、規制をかけるべきではない、というイデオロギーに縛られているのだ。消費者には、口に入れる食品が汚染されているかどうか、知る術がない。わけのわからないうちに、病気になったり、死んだりする可能性もある。当局が、こうしたことを認めないのは、イデオロギー的に不都合だからだ。

・ここから、クルーグマンは、食品安全問題の本質的な責任に、ミルトン・フリードマンをあげる。フリードマンは、FDAの食品チームも医薬品チームも廃止してしまえと言っている。では、市民を危険な医薬品からどうやって守るのか。「そういう事態を避けるのは医薬品会社の自己利益に叶う」1999年のインタビューでフリードマンはこう答えている。食品業界に対しても、同じ論理を適用している。状況に関わりなく、民間セクターは信頼に値するというわけだ。
・フリードマンは、「E.コリの保守主義」を担いで、いかなる場合も政府規制を認めない。食品安全危機の原因は、米国政府の病んだイデオロギーのせいである。

(International Herald Tribune May22, 2007から抄訳)

■以上が、クルーグマンの主張であるが、紙幅の関係か、3つの考え方の批判的な検討がない。クルーグマンの議論は、この問題以外にもいくつか読んだことがあるが、ぼくの印象では、ヴェーバー的な発想をする人だと思う。そのため、イデオロギー批判的な議論を展開することが多い。食品安全問題の本質も、政府のフリードマン流の市場万能イデオロギーを批判している。これはこれで、有効な議論だろう。日本の場合も、小泉純一郎から、この同じイデオロギーで、政策を進めているので、クルーグマンの批判は日本政府批判ともなる。

ところで、食品安全は、医薬品、運輸(列車・航空機・バス)、医療などと並んで、命への直接的なリスクを孕む領域である。この「生命リスク」概念をキーにして、市場開放・規制緩和政策を再構築すべきではないだろうか。フリードマンの言うような民間セクター信仰は、今では、どこのだれも信じていない。軒並み大手の民間セクターの幹部が、毎日のようにテレビ画面で頭を下げるモラルハザードが常態化しているからだ。企業のモラルの再構築という方向でとかく議論されがちだが、それよりも、「生命リスク」という観点から、新たに規制を強化する方が有効ではないか。この「生命リスク」概念が、自国の消費者の命を守るというだけではなく、生産している国・地域の生産者・消費者の命をも守るという想像力と結びついたとき、クルーグマンの言う、グローバリゼーションの問題と食品製造企業(多国籍)の問題が浮上してくるのだと思う。
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家族と畑

日曜日、。夕方まで、家の雑用。夕方から、今まで仕事。疲れた!

昨日の映画「墨攻」で一番印象に残ったシーンの話をしていなかった。それは、農民の台詞だった。梁王の自己保身から、革離に謀反の疑いがかけられて、関係者が捕らえられたのだが、その中の一人で、革離に傾倒していた農民が、木の処刑台に縛られて、泣きながら梁王に命乞いする。そのときの台詞が、

「おれは、英雄なんか関係ねえ。家族が恋しくて、畑が気になるだけだ。助けてくれえ!」

梁王は、「国家の大事に自分のことだけ考えている奴だ!」と怒るのだが、この農民の台詞は、非常にリアリティがあった。いや、アクチャリティと言うべきか。ぼくも含めて、この台詞こそが、庶民の幸福であり不幸なんだと思う。
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a Drama

日曜日、。今日は、雨のはずなのに、晴れている。

昨日は、センター試験だった。娘が受験したのだが、最悪のシナリオになった。試験中に39度の熱を出したのである。朝は、普段どおり元気で、のどが少し痛いので、ちょっと風邪気味かなという感じだった。もちろん、熱はない。12月中にインフルエンザの予防接種も受けている。しかし、かかったのである、知らないうちに。しかも、最悪のタイミングで発症した。真っ青な顔でふらふらになって帰宅した。ぼくらも、あたふたと走り回った。今朝になると、いくぶん、熱が下がったので、センターの答え合わせをした(幸い志望校には届きそうな感じだ)。しかし、ぼくには、考えられない。39度の熱で丸一日試験を受けるなんて。よくやったと誉めるしかないのである。
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