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スイス:Bern(2)

■旧暦9月24日、日曜日、

(写真)Junkerngasse 51のSteiger家の建物

ヘーゲルは1793年10月から3年間、ここ、シュタイガー家で家庭教師を務めた。六歳の男の子と八歳の女の子を教えた。ヘーゲル23歳の秋である。シュタイガー家は、ベルンの名門貴族で、夏は領地のチュッグですごし、冬は都市ベルンですごした。それに合わせて、ヘーゲルも移動した。



建物正面。現在は、集合住宅になっていて、別の人々が住んでいる。



同上。ヘーゲルの関するプレートも、シュタイガー家に関するプレートもない。Albrecht von Haller(1708-1777)が一時期住んだというプレートのみ。この人は、ゲッティンゲン大学教授の自然科学者で詩人。カントもヘーゲルも著作で触れている当時の有名人。



建物の正面ドアとそのプレート。



ドアを開けると…。



住人の表札。集合住宅の郵便ポスト(と思われる)



正面ドアの並びは…。



51番地を出るとすぐにBerner Muenster。Muensterの鐘の音を聴きながら、若きヘーゲルは、キリスト教批判の草稿を書いていた。



Berner Muensterから見たBern旧市街。ゲーテが「私が見た中で最も美しい都市である」と言ったと伝えられる。現在、世界遺産都市。



同上



同上。左はアーレ川。



同上



同上



同上



Bern旧市街を蛇行するアーレ川



旧市街より新市街を望む。高層ビルと工場からの煙が見えた。



旧市街



同上



同上



同上



Muenster尖塔の螺旋階段。相当な高さになり、登るとき、旧市街がちらちら見えて、足がすくむほど。



旧市街



Berner Muenster。尖塔部分はシーズンオフの工事中だったので、全部は登れなかったが、この高さ…。



Muenster部分



同上



市内を蛇行する雨のアーレ川


※参考文献「ベルンのヘーゲル」松村健吾

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L・Wノート:確実性の問題(24)


(写真)Bern旧市街にて

今日は、異常に寒い。しかも、台風。



308. 〉Wissen〈 und 〉Sicherheit〈 gehören zu verschiedenen Kategorien. Es sind nicht zwei 〉Seekenzustände〈 wie etwa 〉Vermuten〈 und 〉Sichersein〈. (Hier nehme ich an, daß es für mich sinnvoll sei zu sagen 》Ich weiß, was das Wort〉Zweifel〈 (z.B.) bedeutet《 und daß dieser Satz dem Wort 》Zweifel《 eine logische Rolle anweist.) Was uns nun interesiert ist nicht das Sichersein, sodern das Wissen. D.h. uns interessiert, daß es über gewisse Erfahrungssätz keinen Zweifel geben kann, wenn ein Urteil überhaupt möglich sein soll. Order auch: Ich bin geneigt zu glauben, daß nicht alles, was die Form eines Erfahrungssatzes hat, ein Erfahrungssatz ist. Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984 pp.179-180

「知識」と「確実性」は異なったカテゴリーに属している。それは、「推測」と「確信」といった心の二つの状態ではない。(ここで、たとえば、「わたしは、<懐疑>という言葉の意味を知っている」と述べることには意味があり、この命題が<懐疑>という言葉に論理的な役割を割り当てているのだと仮定する。)今、われわれが問題にしているのは確実性ではなく知識である。つまり、そもそも、ある判断が成り立つためには、特定の経験命題は、懐疑を免れていなければならない。言いかえれば、経験命題の形をしていても、そのすべてが経験命題というわけではない、と考えたいのである。

■これまでの議論から、308は分かりやすい。ヴィトゲンシュタインは、知と信の問題を「知/信・行動」の2層構造で考えている。そして、信と行動は一体的に捉えられている。マルクスが上部構造・下部構造という図式でイデオロギーを考えたとき、上部構造は、下部構造の「反映」と考えたが、ヴィトゲンシュタインでは、信と行動は、そもそも一体であるから、「反映」というあいまいな概念は不要になる。このため、上部構造が下部構造を正しく反映していない「虚偽意識」という問題は、生じない。信・行動と知識の関係は、知識の探求の方向性の問題となる。当然のことながら、上部構造の自律的な運動や、下部構造への影響といった発想はない。さらに、信・行動を社会関係や集団といった広い文脈でとらえていないので、マクロな議論へ繋がることがない。ヴィトゲンシュタインの議論は、どこがアクチャルなのだろうか。この議論は、知識批判(実証主義的な知識批判、科学批判)の文脈で、考えることはできるだろう。

問題の経験命題(知識)の根拠になっている信念命題(世界像・イデオロギー)は、どんなものか。その信念命題は、どんな体系を形成しているのか。その信念命題と一体の判断あるいは行動は、どんな結果を社会にもたらしているのか。その帰結と「近代」とはどういう関連にあるのか。それは、どんな近代をもたらしているのか。こうした一連の問題意識が出てくるが、ヴェーバーの宗教社会学を知識社会学に読み替えた感じになる。社会的な影響力があるという意味で、経済学史や科学史を、この線で、検討してみると、なかなか、面白いかもしれない。



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スイス:Bern(1)


■旧暦9月23日、土曜日、

(写真)Bären Platzの市場に出ていたAppenzeller

Bernで出会ったもののうち、もっとも印象的だったのは、アッペンツェラー(Appenzeller)だった。スイスが誇るチーズの名品である。フランスのカマンベールやイタリアのゴルゴンゾーラに比べると、日本での知名度はそれほど高くない気がする。ぼくも、スイスに行くまで知らなかった。スイス東部のAppenzellを主な原産地とするハードタイプのチーズである。ソフトテイストのチーズが好きな人には、勧められないけれど、はじめて食べて一発で好きになってしまった。風味が豊かで濃厚な味わい。調べてみたら、ネット通販もやっている。サイトは、ここから。生産される工場や地域によって、味わいは微妙に異なる。このチーズは、ごく薄くスライスすると食べやすくなり、より美味しく感じられた。



Bären Platzの市場から。向日葵が売られていたので、温室か何かだろうと思ったら、Bern郊外に咲き乱れていた。



同市場から。野菜は、それほど、日本と変わらないが、人参、トマトなど、全体に小ぶりな印象。とくに、ラッキョウのようなミニチュア玉葱が珍しかった。ラッキョウのように酢漬けされていた。



雨模様だったが、地元の人も市場に足を運んでいた。



Bern駅前の横断歩道



駅前。Bernに限らず、Baselでも、Genèveでも、tramととにバスが市民の足になっていた。



Bern駅構内



同上



Bären Platzでチェスに興じる人々。雨模様でかなり寒かったが、見物人も出る盛況。



子どもチェスもあった。



郊外のパウル・クレー・センター。tramでBären Platzから15分くらい。クレー関連の企画展が中心。



センター内の向日葵



クレーセンターの周囲



同上



駅近くのtake awayのVeterで昼食用に購入したサンドウィッチ。ボリューム、味ともに、申し分なかった。



クレーセンター。日本語のパンフレットもあって驚いた。



クレーセンターのオブジェ





















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10月29日(金)のつぶやき

11:00 from goo
L・Wノート:確実性の問題(23) #goo_delfini2 http://bit.ly/aW7N2S
23:49 from web
thank you @beezknez for the retweets. i'm sorry i can't write new haiku. i'm contemplating. :-)
by delfini_ttm on Twitter
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L・Wノート:確実性の問題(23)


■旧暦9月22日、金曜日、

(写真)Bernの冷たい秋の雨

一昨日から急に寒くなってきた。冷たい台風である。

寝る前に伊藤清著『確率論と私』(岩波書店 2010)を読んでいる。この中に、スイス連邦工科大学で4カ月講義した話が出てくる。スイスの10フラン紙幣に印刷されている肖像画が、数学者のオイラーのものだったとあって、18世紀の数学者オイラー(1707-1783)が、Baselの生まれであることを知った。オイラーの業績は、ぼくには理解できないけれど、その人生が、1789年のフランス革命にほぼ重なるのに興味を惹かれた。数学と啓蒙思想は、合理性という点で、響きあうが、啓蒙には野蛮や神秘が内在しているように、数学と神学は、ことに、論証のやり方で近いものがあるのではなかろうか。デカルトにせよ、パスカルにせよ、数学者であり神学者でもあったことは、示唆的に思われる。オイラーの肖像画は、1993年時点でのことのようで、たまたま、手元に10フラン紙幣があるので、確認してみたら、現在では、肖像画は、建築家のル・コルビジュエ(1887-1965)になっていた。ル・コルビジュエは、フランス国境に近いラ・ショー=ド=フォンの生まれ。面白い事に、オイラーもル・コルビジュエも、スイス国内ではなく、生まれた言語圏に関連する国外(ベルリン・ペテルブルク/パリ)で活躍した。一国内に別言語を話す人々が集まっているという状況は、なかなか、想像しがたいものがあるが、国外であっても同じ言語を話す人々の方が、自国内で他言語を話す人々よりも、近くに感じるのは自然なのかもしれない。



293. 「水は100℃で沸騰する」という命題にも、同じことが言える。

294. そうわれわれは確信し、それをひとは、「正しい確信である」と言う。


295. Hat man also nicht, in diesem Sinne, einen Beweis des Satzes? Aber es ist kein Beweis dafür, daß dasselbe wieder geschehen ist; aber wir sagen, es gibt uns ein Recht, dies anzunehmen.

この意味で、この命題には、根拠があるとも言えるのではないか。ただし、同じことが繰り返し生じたことが、根拠になるのではない。われわれには、そう考える権利があるということである。

296. これをわれわれは、仮説の「経験的な証明」と呼ぶのである。

298. Wir sind dessen ganz sicher, heißt nicht nur, daß jeder Einzelne dessen gewißt ist, sondern, daß wir zu einer Gemeinschaft gehören, die durch die Wissenschaft und Erziehung verbunden ist.

われわれが、これを確信しているというのは、われわれの一人一人が、これを確信しているだけではなく、科学と教育で結びついた共同体にわれわれが所属しているということでもある。

■経験論や実証主義、あるいは科学的実験というものが、即自的なものではなく、社会に媒介されていることを明確に告げた断章だと思う。科学が、特定の信念の上に立脚しているということであり、世界像(イデオロギー)と無関係な知識はありえないことを示している。この後の、英文で書かれた断章299は実に印象的なものである。

299. We are satisfied that the earth is round.






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10月28日(木)のつぶやき

17:15 from goo
L・Wノート:確実性の問題(22) #goo_delfini2 http://bit.ly/dgj2Qq
by delfini_ttm on Twitter
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L・Wノート:確実性の問題(22)


(写真)Basel旧市街にて

朝、起きたら、のどががらがらであった。この数日、調子が悪いと思ったら、風邪であったか。

11月下旬に行うレクチャーのだいたいの骨子ができた。テリー・イーグルトンの『イデオロギーとは何か』がよくまとまっているので、これをレビューしながら、イデオロギーの歴史を俯瞰し、ヴィトゲンシュタインの「確実性の問題」をイデオロギー論の観点から読みなおし、マルクス・エンゲルスのイデオロギー論およびハンナ・アーレントの情報論との比較を通じて、「知と信」の問題を「知と信と社会関係の問題」として考察する。また、ロマン・インガルデンの文学作品の存在論的な分析をイデオロギー論的に読み替え、そのアクチャリティーを提示する。ここまでが、理論篇で、実際に、現存のイデオロギーを3つに絞って検討してみる。一つは、ケインズの分析に依拠しながら経済学のイデオロギー、二つは日本の経営思想のイデオロギー、三つは、最近のある論争の分析。実証主義を検察・マスコミの中核イデオロギーとして、触れられれば触れたいとも考えている。あまり時間がないので、どこまでできるか、わからないが…。



256. Anderseits ändert sich das Sprachspiel mit der Zeit. Wittgenstein Über Gewißheit p.170 Suhrkamp 1984

他方、言語ゲームは時間とともに変化する。

■これまでの議論から、言語ゲームは、行為ゲームでもあり、言語(判断)と行為は一体的に捉えられている。この把握は、マルクシズムのpraxisの概念と同じだと思う。ただ、マルクス・エンゲルスのように、精神的労働/肉体的労働の分離による精神労働の自律化とその社会関係への影響(ヴェーバーの問題とも重なる)という発想や社会関係の矛盾が世界像の根拠になっているという発想はない。これをどう考えるべきなのだろうか。ヴィトゲンシュタインは、日常生活のミクロレベルから発想する。そこでの行為を懐疑の終点と考える。そこに、結果的に確実性があると考える。たしかに、行為は、社会関係の中で生成しこれに規定されるが、社会関係から生まれる矛盾が世界像(イデオロギー)の根拠だと言う議論は、それ自体、一つの世界像だとも言えるのではないだろうか。つまり、われわれは、この命題をどのように論証すればいいのだろうか。

言語ゲーム(行為ゲーム)が時間の中にある、という256の議論に反論する人は少ないのではないだろうか。ただ、言語ゲーム(行為ゲーム)は、空間の中にもあるはずである。集団による社会的空間の形成や環境による物理的な空間の形成が、言語ゲーム(行為ゲーム)を規定する面は、考慮する必要があるのではないだろうか。行為は常に集団を前提にしている。

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10月26日(火)のつぶやき

17:24 from web
thank you @beezknez for the retweet of "god's eye."
by delfini_ttm on Twitter
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10月25日(月)のつぶやき

00:07 from goo
スイス:Jungfrau/Mönch/Eiger #goo_delfini2 http://bit.ly/b49hpS
17:32 from goo
俳句50句 #goo_delfini2 http://blog.goo.ne.jp/delfini2/e/6e6cf4d5821624680e7cf8ce110e853a
17:46 from web (Re: @beezknez
hi @beezknez, thank you for seeing photos. yeah, that is in toilet, not stickers but graffiti. swisse people love to write graffiti on walls
17:57 from web (Re: @beezknez
@beezknez your metaphor of the trams is so funny but a true :) some tram's bodies are painted all graffiti. that's so splendid.
19:20 from goo
スイス:Wengen #goo_delfini2 http://bit.ly/byfeYD
by delfini_ttm on Twitter
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