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一日一句(868)







地下街は月の気配が立ちこめて






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一日一句(668)







春の風支払調書失せにけり






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冬の日:狂句こがらしの巻(4)


■旧暦2月6日、日曜日、、彼岸入り

(写真)無題

「もっとも悪い行いとは、簡単に騙されること」(マルクス)

今日は、千葉県知事選挙の日だった。この選挙、実に奇妙なのである。候補者は、3人いる。森田健作63歳、千葉大名誉教授の三輪定宣さん75歳、横浜市に住所のあるシェアハウス経営、佐藤雄介氏31歳。この第三の男、佐藤雄介31歳氏の動きが実に奇妙なのである。ポスターを作成しない、政見放送をやらない、選挙公報に主張や政策を載せない。取材は拒否する。なにもしないのだ。顔さえわからない。こんなのが候補者と言えるだろうか。つまり、やりたいことは何もないのに、立候補だけしているのである。当然裏があろう。街には、森田健作のうすっぺらい笑い顔のポスターと三輪さんのポスターの二枚しか貼っていない。投票所へ行くと、3人の候補者がいる。森田健作を間違える人はまずいないだろうが、三輪さんは、第三の正体不明の佐藤氏に票が取られるだろう。なにもやる気のない人にである。これは、だれにとって、好都合なのか、一目瞭然であろう。

佐藤氏のような無為の選挙活動は適法なのかどうか、市の選挙管理委員会に問い合わせてみたところ、ポスターも、政見放送も、公報も、出す出さないは、候補者の意思に任されているので、違法ではないという。つまり、供託金300万積めば、こんな選挙妨害のような活動も合法的にできてしまうのである。制度的な欠陥と言えるのではないか。ちなみに、投票率は31.96%だった。民意も低く制度的にも欠陥があるのでは、金や権力のあるもののやりたい放題になるのではないだろうか。



Facebookやtwitterではつとに話題になっているが、維新の会の西田穣議員の国会質疑を観ていない方もいると思うので、観ていただきたい。こういう人間を国会に送る罪深さは、まさに、「騙される罪」ではなかろうか。戦争もそうだった。原発もそうだったのである。

画像はなぜか貼り付けられない。ここから>>>



TPPに関しては、よくわからない。ただ、非常に危険な匂いがする。まず、事前協議なるものが存在し、しかも、まったくそれが不透明であり、いったいなにがどう協議されているのか、オープンになってないことだ。やましいことが協議されているからだろう。透明にしたら、つぶれるようなブラックなことが協議されていると見るべきだろう。第二に、再交渉権や拒否権は、先発協議国にしかない、というのは、幕末の不平等条約を思い出させる。こんなアンフェアな初期条件で交渉と言えるのだろうか。アメリカがグローバリゼーションをコントロールするためのカードではないか。1%が地球を支配してきた歴史を、1%内にも階層をつけることで、グローバリゼーションを特定の資本系列の利益に誘導したいということではないのか。ただのサラリーマンでしかない経団連のみなさんと与党政治家のみなさんが、資本家階級になったつもりで、世界の1%に仲間入りのつもりが、その中はすでに階層化されていたということではないのか。第三に、安倍内閣は、TPPに参加した場合のGDPを試算し、参加根拠にしているが、数字はいくらでも操作できる。原発のシビアアクシデントの確率計算のいかがわしさと、それがイデオロギーとして使用された現実を思い出せば十分である。TPPに関しては、次の動画と記事が参考になる。

動画、ここから>>>
記事、ここから>>>



かしらの露をふるふあかむま   重五

朝鮮のほそりすゝきのにほひなき   杜国

■杜国の付けは、よくわからない。ただ、季節が晩秋に移ったということはわかる。それほどの感興は起きない。




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冬の日:狂句こがらしの巻(3)


■旧暦1月23日、月曜日、

(写真)塩麹に二日漬けこんだチキンに、越前塩を揉み込み、黒胡椒を挽いて、オーブンで焼いたもの。塩麹は、家人が作ったものだが、これがあると、単純な料理も、実に深みが出てくる。上の料理はシンプルだが、素材の旨みを十分に引き出した一品になったと思う。

1月半ばに引いた風邪がやっと抜けた。一ヶ月半かかった。基礎体力の衰えを感じる。風邪をひいている間は、特養に行くことはできなかったので、今日、行ってきた。やはり、一つところに押し込められると、いくら、個室とはいえ、ストレスがたまるようだ。しかも、圧迫骨折を経験しているので、身体のどこかしらが痛む。ストレスは二重にかかる。車いすのまま、館内と庭を一時間程度散歩したら、だいぶ、顔色がよくなった。スタッフの人によると、2月は寒いから、外へは連れ出さなかったらしい。当然の判断と思う。老人は、風邪を引いたら、肺炎などを併発して、下手したら、死んでしまう。





上の動画は、友人の劇作家・映画監督の島春迦氏が制作した映画のプロモーションビデオであるが、3月14日(木)に、横浜で上映会が開かれる。この映画は、監督の故郷、種子島西方の馬毛島(まげしま)に米軍基地移転問題が発生したことで、制作を決意したという。監督を務めながら、雑務をこなし、小道具も作り、その熱意に、出演者やスタッフのほとんどがノーギャラで協力したという。基地問題や故郷喪失問題、都市と地方の問題といった、3.11以降、一層鮮明になってきた諸問題を射程に入れたアクチュアルな映画になっている。お時間のある方は、ぜひ、ご覧ください。



3月14日(木) 午後6時開場 6時半開演

(会場)横浜開港記念館

料金:500円

official site ここから>>>

関連記事1、ここから>>>
関連記事2、ここから>>>



久しぶりにブログを書くと、お知らせばかりになるのだが、「陸前高田市図書館ゆめプロジェクト」というのをご存じだろうか。読み終えて不要になった本を買い上げることで、その資金を陸前高田市の図書館再建資金にしようというプロジェクトである。買取は、5冊以上は、自宅へ集荷に来てくれるので、本の断捨離を考えている方々には、なかなか便利と思う。

陸前高田市図書館ゆめプロジェクトofficial site、ここから>>>



毎週土曜日に更新される非常に面白い連載がある。「息子と僕のアスペルガー物語」がそれである。今週で19回目になるが、どれも非常に面白い。

ここから>>>

才能がありながら、現実に適応する能力が低いために、苦難を強いられる人々。やがて、読むうちに、「現実」の方がおかしいのだという確信に変わっていく。



有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮

かしらの露をふるふあかむま   重五

■あかむま=赤馬。安東次男の考証は、読みにくいので、今回は、参考にしなかった。主水と酒と露と、いずれも、水に関連がある言葉が出て来て、一つの世界を構成しているとも言えるが、展開としては新味に欠ける気がした。










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冬の日:狂句こがらしの巻(2)


■旧暦12月12日、土曜日、

(写真)無題

今朝は、早く起きたので、久しぶりにラジオ体操をした。暖かくて気分が良かった。

romieとの連詩が、春まで来たので、最後に、彼女に春の花で締めてもらい、一応、福島をテーマにした連詩は終わりにする。連詩は、とても面白いので、すぐに、次の巻に入る予定。だんだん、進行の仕方が見えてきたが、まだ、試行錯誤状態に変わりはない。俳諧の検討がだいぶ、参考になっている。

宗祇に関心があって、箱根の町立博物館で、関連資料を入手してきたのだが、ネットで検索していて、江戸時代に成立したらしい「宗祇諸国物語」というテキストが、とても面白そうである。いろいろ、調べたが、本は古本も含めて入手が難しい。幸い県立図書館に置いてあるので、予約を入れた。宗祇は、芭蕉が慕った連歌師で、当時の連歌師最高の地位に上り詰めながら、あっさり、それを捨てて旅に出てしまう。旅の範囲も芭蕉よりも広く、関東・北陸はもとより、中国、九州・博多まで及び、貴重な見聞録を残している。そうした足跡があるからだろうが、宗祇が越後で雪女に出会った話が残っている。ここから>>> 春の雪の中に雪女が現れる理由が美しい。

高木仁三郎は、郷土の誇る自然科学者なので、ずっと気になってきた。岩波から、『高木仁三郎セレクション』が出たので、F/Bで読んでいる。これを読むと、早い段階から、高木が、科学と人間が組み込まれた全体的なシステムに違和感と危機感を持っていたことがわかる。それは、マルクスの概念で言うと、明らかに、社会関係の疎外のことを意味している。科学も人間も全体の関係に疎外された結果、すでに人間のコントロールが効かないものになっていることを鋭く察知している。



たそやとばしるかさの山茶花   野水

有明の主水に酒屋つくらせて   荷兮

■酒屋は居酒屋のこと、「つくらせて」は店を開いている、ということらしいが、この第三句に関しては、安東次男の解釈と、日本古典文学全集(そのほかの解釈)が面白いように割れている。日本古典文学全集の解釈は、大学入試問題の解答のようで、面白味に欠ける。




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冬の日:狂句こがらしの巻(1)


■旧暦12月19日、水曜日、

(写真)無題

家人が、面白い本を買ってきたので、パラパラ読んでいる。佐藤初女著『いのちを養う食』(講談社)。1921年生まれの佐藤初女さんは、非常に不思議な活動をしている。食を原点にしたセラピーとでも言えばいいのだろうか。青森の岩木山麓に「森のイスキア」というスペースを作り、心に苦しみを抱えてくる人たちに開放している。そこへやってきた人たちは、何かしら問題を抱えて悩みで心が一杯で、なにも食べられず、青い顔をしてして元気がないことが多いという。佐藤さんとスタッフのひとたちは、ただ、よく話を聞き、心をこめた家庭料理を一緒に食べるのだという。この人のおむすびを食べて自殺を思いとどまった人もいる。悩みの答えは、悩む人自身の中にある。わたしが意見を言う必要はありませんと佐藤さんは言う。人の話を聞き、一緒に食事して、眠る。労働を終えた後の人間活動の原型のようなことを、ボランティア活動として意識的に行っていると言えば近いのかもしれない。こういう人間活動の基本が、きちんと行われてゆくと、人間の悩みは、大かた自分で解決へ向かうようになる、という現実は、実に示唆的ではないだろうか。「食べることは生きること」佐藤さんの言葉である。



狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉   芭蕉

たそやとばしるかさの山茶花   野水

■「狂句こがらしの身」という措辞は、芭蕉の並々ならぬ矜持と謙遜を同時に感じさせる。こがらしに吹かれる身と同時に、こがらしとなって花を散らす身。普通の人は、ここまで、自己を凝視できないと思う。「たそや」はだれだろう。


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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(34)


■旧暦12月16日、日曜日、、満月

(写真)無題

熱も下がったので、蒲団干し、洗濯、掃除、ゴミ捨てなど雑用。
漫画版で、漱石(1867-1916)の『思い出す事など』を読む。文庫版で何回か読んでいるが、漫画で読むと、また、違った味わいがあって、面白かった。以前の新潮文庫は、活字が小さいので、買い直して、また、読み始めている。「死」は、経験できないものであり、生と死には、完全に断絶があったと、修善寺の大患から回復した漱石は後に述べている。「死」は経験できない、というのは、ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)も同じことを述べていて、興味深い。



『一生懸命フォトグラファー列伝』という本が、写真の参考になりそうな気配がある。19歳から100歳までのアマチュア写真家145名へのインタビュー集。



一構鞦つくる窓のはな   凡兆

枇杷の古葉に木芽もえたつ   史邦

■俳諧の凄さに、具体性があるけれど、挙句は、「枇杷の古葉」といい、「木の芽もえたつ」といい具体的な世界が明確に縁どられ、その縁取りの向うに、全体的な生命の気配が満ちている。

ここのところ、藤田省三先生の「『野ざらし紀行』についての覚書」(藤田省三著作集5所収)を読んでいる。大変勉強になり、また、共感もできるテキスト。このエッセイは、明らかに、存在論的な視点で書かれている。その点が凡百の国文学系テキストとは異なっている。これを読んで、「猿蓑」の検討を、ここでいったん中止して、野ざらし紀行の途次、名古屋で巻かれた、歌仙「冬の日」から、遡って検討し直すことにした。



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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(33)


■旧暦12月13日、木曜日、、初地蔵

(写真)早朝

数年ぶりに風邪を引いて発熱した。ひたすら、眠って食べるだけの日を過ごす。幸い食欲は旺盛なので、一日二日寝ていれば、回復するだろう。だが、歳とって、風邪を引くと、たいてい、なにかしら持病があるので、それとの相乗効果があり、意外ときついものだと思った。ぼくの場合は、耳鳴りの持病があるので、これが悪化して困った。却って、風邪そのものよりきつい。



数学・物理学系の論文を集めたコーネル大学のサイト。まだ、探検は、これからなのだが、面白そうなので、紹介したい。arXiv.org ここから>>>



たゝらの雲のまだ赤き空   去来

一構鞦つくる窓のはな   凡兆

■一構(ひとかまえ)とは、一軒の家のこと。鞦(しりがい)とは、牛馬の尾のつけ根から鞍につなぐ革具。安東次男も、小学館の日本古典文学全集も、その他の諸家も触れていないが、鞦(しりがい)を作る家とは、被差別のことではないか、と思う。この時代には、身分制社会が確立していたろうからだ。こうした眼差しは、身分制社会の中で、受益を蒙っていた人々にはないはずで、「いかなるものを見るにせよ、まず見るものである目が、見られるものと同類のものとならなくてはならない」(プロティノス)という、現代では見失われた存在論的な自覚が俳諧師の側にあったためだろう。わびさびは、こうした存在論的な契機を含んでおり、たんなる美意識の表面的な話ではないと思う。

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一日一句(614)







大寒の埃といへど動かざる






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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(32)


■旧暦12月3日、月曜日、、成人の日、四天王寺どやどや

(写真)on the streets

起きたら、吹雪だったので驚いた。足元が異様に冷える。夜になって、雪は止んだ。

楸邨句集を読んでいて、春日部の小淵観音に5体の円空仏があることを知った。芭蕉も、奥の細道のときに、ここに宿泊したという説もある。ただ、調べたところ、本堂の円空仏は小さく、遠くからは判別が難しいようだ。

2006年に上野で観た円空仏展についての記事、ここから>>>

ウェブ上のドイツ語の句会に参加してみた。句はなんとか作って送ったが、選句に泣いた。36句すべてを評価するのは、かなりしんどかった。次回は、もっと、前から、作業に着手しないと。



押合て寝ては又立つかりまくら   芭蕉

たゝらの雲のまだ赤き空   去来

■「たゝら」は多々良浜。博多湾に面し、多々良川を挟んで西は箱崎、東は香椎に至る一帯の浜。安東次男の解釈は、多々良浜の歴史的な経緯を語って、倦むことがない。「フロイスをして九州でもっとも主要かつ裕福な商人町と云わしめた博多」という部分が、印象に残った。小学館の日本古典文学全集の解釈は、まったく違って、鍛冶鋳物師たちの「たたらふむ」煙炎が空に立ち上る情景としている。これだと、前句の景を受けただけで、歌仙の展開に、空間的な要素が欠けてしまう。平板な理解ではないだろうか。
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