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北と南(1)

日曜日、。午前中、眠。午後、2人が外出。借りてきた、DVDを観る。溝口健二監督の「雨月物語」。「雨月物語」は、学生時代に、文庫で何度か読んだが、改めて、今、パラパラ読んでみると、その文体に惹かれる。いつか、時間のあるときに、じっくり再読してみたい。

この映画には、男はダメだ~というメッセージを感じた。俳優陣も、女優の方が、存在感と気品がある。男は、出世(権力)と金に目がくらんで、限りなく狂っていくが、女性は生活の本質をわかっている。家族で楽しく暮らすことである。なんでもないようだが、実は、大変な努力がいるのではなかろうか。経済的な責任を果たすだけでなく、子供や妻と向き合わなければならないからだ。これまで、金さえ家に運べはいいというある種の甘えが多かったような気がする(そうなった歴史的・社会的要因もあるが)。溝口その人は、フェミニストとはとても思えないが、この映画から感じたのは、男の愚かさと女の哀しさだった。

印象的だったのは、京マチ子だった。蛇性の淫の若狭役が、はまりすぎるほど、はまっている。とくに、その目つきには、ぞっとするものを感じた。立ち居振る舞いの美しさと相俟って記憶に残った。



アイヌと琉球に関心を持っている。北と南の俳人、詩人などについて、ぼちぼち調べていきたい。琉球に俳人はいる(いた)のだろうか。こういう素朴な疑問を持つのは、常夏のイメージが強く、四季の変化が、本州よりも、はっきりしていないのではないか、と想像するからだ。季語は、いったいどうしている(きた)のだろうか。これが、疑問の一つ。また、沖縄は、独自の王朝文化があり(たしか、独自の韻律をもった文芸がある)、大和朝廷の宮廷文化の流れを引く俳句を、簡単に受け入れてきたのだろうか。これが疑問の2。

琉球文化は、ほとんど無知なので、見当外れの疑問もあるだろうが、上記のような問題をとりあえず設定して、調べてみたい。

篠原鳳作の場合(1)






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解酲子飲食

日曜日、のち

午前中、図書館で雑誌のコピーをして、午後、句会の選をしたのだが、なかなか決まらず困った。その後、掃除、散歩。図書館に行く途中の橡の木の街路樹が黄緑の新緑で、光が優しい。

昨日、詩人の倉田良成さんに『解酲子飲食』(倉田良成著 開扇堂 2003年)をいただいて、昨日、今日で一気に読んでしまった。一気読みするほど、面白かった。倉田さんの博学にも驚くが、自らの舌を使った経験の数々は、広範囲におよび、しかも面白く、飲食の思想を感じさせる。正直言って、その経験には、妬ましささえ感じる。ぼくは、どちらかと言えば、下戸で、飲食の経験はかなり限定される。句会などの帰りに飲むのが関の山で、一月に1回、多くて2回程度しか、飲まない。そういう人間からすると、飲食の世界は奥深いなあ、とつくづく思う。

それでも、読んでいると、不思議に上機嫌になっていく。これは、たぶん、ここに語られている事柄が、上質な快楽の経験であるからだろう。俳句をやるようになって、上質な快楽の世界が人を自由にすることに気がついたが、『解酲子飲食』は、その意味で、散文で書かれた俳句という趣がある。

他方、散文ならではの批評もあって、飲食から観た、社会のありようも浮き彫りになっている。

ふりさけみれば、肉がご馳走でなくなったのはいつのころよりか。マグロの刺身に心ときなかなくなったのはいつからか。すべてハレとケの境目が曖昧になってきているからである。成人戒(イニシエーション)の本来の意味が失われて、「大人」のカラーコピーみたいな子供や子供みたいな大人が世を席巻するようになってきたのもこのことと関連があるだろう。そのいっぽうで、ほんものの野菜や魚の味わいに驚嘆するようなことがあるが、これも本来われわれが拠って立つべきケの領域が文明という名の野蛮さに侵食されつつあることを意味している。日々の辛苦の果てに爆発的に訪れるのがハレであり、毎日ディズニーランドへ行っていたらおかしくならないほうがおかしい。(『同書』pp.188-189)


同感である。この本で、いろいろ、旨いものを知った。すぐにでも作れそうな料理もあって、なんだか、旨いものをたくさん食べた感じである。

旨きもの数へて春のよき日かな   冬月
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飯田龍太

木曜日、。久しぶりに晴れたので、洗濯物がよく乾いた。午前中に、仕事を終らせて、午後、昼寝。その後、飯田龍太の特集を組んだ「俳句」5月号を読む。編集部が選んだ龍太200句を読むと、明朗な伝統系と見られることの多い龍太だが、同時代の憂愁の色彩も混じり、ときに前衛のような顔も見せる。意外に、観念性といった資質もあわせもっていたのではないか。

その200句から選をしてみた。

春の鳶寄りわかれては高みつつ

野に住めば流人のおもひ初つばめ

抱く吾子も梅雨の重みといふべしや

わが息のわが身に通ひ渡り鳥

露の村墓域とおもふばかりなり

花栗のちからのかぎり夜もにほふ

ひややかに夜は地をおくり鰯雲

露草も露のちからの花ひらく

鰯雲日かげは水の音迅く

いきいきと三月生る雲の奥

百姓のいのちの水のひややかに

山河はや冬かがやきて位に即けり

新米といふよろこびのかすかなり

大寒の一戸もかくれなき故郷

月の道子の言葉掌に置くごとし

湯の少女臍すこやかに山ざくら

雪山のどこも動かず花にほふ

春の雲人に行方を聴くごとし

ねむるまで冬瀧ひびく水の上

落葉踏む足音いずこにもあらず

生前も死後もつめたき箒の柄

父母の亡き裏口開いて枯木山

子の皿に塩ふる音もみどりの夜

一月の川一月の谷の中

かたつむり甲斐も信濃も雨のなか

白梅のあと紅梅の深空あり

たのしさとさびしさ隣る瀧の音

葱抜くや春の不思議な夢のあと

なつかしや秋の仏は髯のまま

花スミレこの世身を守るひとばかり

こころいま世になきごとく涼みゐる

闇よりも山大いなる晩夏かな

白雲のうしろはるけき小春かな

仕事よりいのちおもへと春の山

露の夜は山が隣家のごとくあり

百千鳥魚にも笑顔ありぬべし

涼風の一塊として男来る

蟷螂の六腑に枯れのおよびたる

春ときに緋鯉の狎れのうとましき

遠くまで海揺れてゐる大暑かな

編集部は選んでいない句で、追悼文の中にある句から

春すでに高嶺未婚のつばくらめ

雨音にまぎれず鳴いて寒雀

外風呂へ月下の肌ひるがへす

どの子にも涼しく風の吹く日かな

あるときはおたまじゃくしが雲の中

春の夜の氷の国の手鞠歌

花桃に泛いて快楽の一寺院

山青し骸見せざる獣にも

夏羽織侠に指断つ掟あり

月の夜の海なき国を柳絮とぶ


■追悼文では、金子兜太の文章と正木ゆう子の文章が面白かった。兜太は、俳句の「深み」について、正木ゆう子は「高み」について、一つのアプローチを示している。とくに正木の言っていることは、芭蕉の軽みそのものと思われた。
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芭蕉の俳句(138)

木曜日、

漱石日記(岩波文庫)読了。この中では、「ロンドン留学日記」が一番面白かった。大正3年家族日記になると、ほとんど病気だと思う。被害妄想が膨らんで、女中や奥さんの言動のいちいちを悪意に取っている。これでは、統合失調症になってしまうだろう。頭の良すぎる人は、運動したり、世界を複数持つことで、心身のバランスを取った方がいいのだろう。大正5年最終日記に書かれた言葉;

倫理的にして始めて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり。



五月雨や色紙へぎたる壁の跡  嵯峨日記

「へぐ」ははがすの意。ある意味、往時と現在を比較して、現在のうらびれた侘しさに趣を感じているのだろう。こういうところに注目する感性は、廃墟に魅力を見出す感受性と近い。過去と現在の比較という意味では、時間の二重性が見られる。五月雨との取り合わせの妙と時間の感覚に惹かれた。
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ごきぶり

火曜日、のち

終日、仕事。早朝、二人のキャーキャーいう声で目が覚める。何事か、と思ってキッチンを覗くと、ごきぶりが出たらしい。しかし、嫌われますな、ごきぶりは。まだ、ほんの子どものごきぶりなのに。殺虫剤を撒いたが、どこにも姿が見えない。器具類を入れてある引き出しの中に現れたので、すべて、食洗機で洗った。人間様、とくに女類様に大変嫌われるごきぶりであるが、拾う神もありますな。俳句の神ですね。立派な夏の季語ですね。



ごきぶりを天敵として友として 坊城としあつ

ごきぶりを見しより疑心兆したる 西村和子

ごきぶりを目に追ひ電話つづけをり 長屋せい子

淑女には遠しごきぶり打ち据ゑて 林明子

僧を過ぎ女人の方へ油虫 鈴木六林男

影を出て影を曳き出す油虫 鷹羽狩行

油虫出づ鬱々と過す人に 山口青邨

油虫にぶくなりしをもう追はず 山口誓子

愛されずして油虫ひかり翔つ 橋本多佳子

売文や夜出て髭の油虫 秋元不死男

風呂場寒し共に裸の油虫 西東三鬼

油虫殺すいちめんの夕日いろ 加藤楸邨

ねむたさがからだとらへぬ油虫 中村汀女

ごきぶり死す脚二三本身をはなれ 能村登四郎

ごきぶりを打ち損じたる余力かな 能村登四郎

鷹女忌のすでに出てゐる油虫 石原八束

夜寒さや吹けば居すくむ油虫 富田木歩


■嬉しいですね。俳句の面目躍如ですね。ごきぶりを詠える文芸というのは、なぜか、信頼できるんですね。

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芭蕉の俳句(137)

月曜日、。春寒。

週の前半、子どもが、朝早く出るので、夕食をぼくが担当している。なるべく早く寝かせる必要があるからだ。若鶏の味噌漬けを焼いて、春キャベツをチンしたものとマヨネーズで和えた。味噌汁は、煮干を20分漬けてだしを出し、化学調味料で、味を調えて、えのきと、豆腐と、葱を具に使った。この2品は、かなり評判良し。後は、ホウレン草のおひたし。これは家人に応援を頼んだ。

某俳人(あえて名を伏す)は、皿などはみんな白いもんであるから、「真白なる皿」というのは、言葉の重複だとかつて語ったが、実は、こういう発想しか出てこないのは、料理を家族のために作ったためしがないからなのである。皿は、その料理をどう旨そうに見せるか、重要なポイントで、色も形状もさまざまある。盛り付けと皿は、料理の重要な要素なのである。



能なしのねぶたし我を行々子  嵯峨日記

「ねぶたし」は「ねむたい」。行々子は葭切(ヨシキリ)のこと。夏の季語。文法的には、あるいは意味の上では、能なしのねぶたき我を行々子となるはずである。切れると切れないのでは、どんな違いが出てくるのだろうか。新編古典文学全集 松尾芭蕉①では、能なしの「し」、ねぶたしの「し」、行々子の「し」で韻を踏むためと、言い切りで語勢を強めていると理解している。一方、楸邨は、「能なしのねぶたし」我を行々子と独創的な解釈である。つまり、「」内は、芭蕉の独り言だと言うのだ。能なしの上に眠いときている。そんな俺の眠りを妨げるなよ、行々子よ。

後の一茶に繋がるような感覚を感じた。ぼくも、ある意味、能なしで、眠るのが趣味なので、共感しましたな。
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アイヌ交流ウィーク

■お知らせ■

■以下のアイヌ関連のお知らせを知人から受け取りました。ご興味のある方はご検討・ご連絡ください。

2007年「アイヌ民族交流ウィーク」企画について

 私たち市民団体、ピリカ全国実行委員会・関東グループは、毎年秋に「アイヌ民族交流ウィーク」を開催しています。

この企画は今年で11回目となります。
毎年、講師として旭川市の川村カネトアイヌ記念館長の川村シンリツ エオリパックアイヌさんをお迎えして、民族文化の伝承保存を紹介、学習しています。

講演会、料理講習会、学校での授業などに取り入れて頂く主旨の上、職場、地域、学校での取り組みを是非検討して頂けますことをお願い申し上げます。

講演会では、日本人にとって欠落してきた民族問題、真の歴史を学びます。
料理講習会と実演では、自然と共存するアイヌ民族の知恵を学びます。(料理教室のあることが条件です。)

学校の授業では、歌や踊り、アイヌ語の紹介、民族楽器(ムックリ)の製作、アイヌ文様の刺繍講座などを行ないます。

これらのことを通じて川村さんと交流し、アイヌ民族の文化や世界観を伝えていきたいと思います。

ご賛同、ご協力のほど宜しくお願い申し上げます。


期 間 10月中旬~下旬  今年は10月20日(土)、21日(日)をはさんで前後1週間

講師 川村シンリツ エオリパック アイヌさん(川村カ子トアイヌ記念館館長)
1951年旭川市近文コタンに生まれる。「シンリツ エオリパック アイヌ」は「先祖を大事にする人」という意味。26歳で川村カ子トアイヌ記念館館長になる。 1985年、旭川では28年ぶりのイオマンテ(熊送り)を行う。旭川アイヌ語教室やチカップニアイヌ民族文化保存会などの活動の中心的存在。

連絡先 ピリカ全国実・関東グループ 
渋谷区恵比寿4-19-5ホワイトハイツ鈴木103
      TEL&FAX 03(3446)9058  pirika_kanto@yahoo.co.jp
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フランス社会について

日曜日、。春疾風。

終日、掃除・片付けに追われた。

昨日の朝日の朝刊に吉本隆明が、コラムを書いている。自然に対する感受性の重要性を指摘する吉本隆明の指摘には共感するが、3つ気になった。1つは、自然に対する感受性が欠如した若手詩人たちの背景には、後期近代社会の都市化、グローバリゼーション、季節の不安定化(温暖化)などがある点。社会と自然の関わりの変化といった枠組みで、詩人たちの感受性の変化を捉えないと、大事な問題を見逃すような気がする。第二に、こうした若手詩人たちの感受性を構成した当事者の一人が、吉本のような詩の評論家ではないか、という点。長く文芸批評に携わってきた者の発言としては、他人事のような印象を受ける。第三に、若手詩人の30冊と言っても、所詮は、思潮社の詩集であること。全国から出されている詩集を年齢に囚われず幅広く渉猟すべきではないのだろうか。思潮社だけが詩人を代表するわけでも、詩の今を写しているわけでもないだろう。



昨日は、哲学塾だった。お茶を飲みながらの雑談で楽しかった。パリを研究拠点にしている石塚先生に、日ごろ、疑問に思っている点を、いくつか尋ねてみた。

<家父長制と議論好き>

・ぼくの疑問:リセで哲学の授業が行われ、議論する習慣のあるフランス社会は、どうやって、市場競争に生き残っているのか。ぼくのイメージでは、家父長制社会や家族主義的な組織は、命令系統が一元的であり、市場に適応しやすい。他方、議論して意思決定する自由な組織は、判断が遅れたり、民主主義的な手続きを踏むため、資本主義的競争に合わないのではないか。リセの哲学教育を廃止しようという動きはないのか。

・フランス社会の基層は完全な家父長制社会で、強い大統領が求められる。大統領の権限は非常に大きい。家父長制社会はカトリシズムの精神風土とマッチしている。

・基本的にリセの哲学教育は最終学年に行われる。フランス革命によって、政教分離の原則が出来てから、宗教に代わる倫理教育として出発している。このため、廃止の動きはない。

・ぼくの疑問:家父長制社会と議論する風土が両立しているメカニズムは何か。

・これは、伝統的に労働組合が強いことに現れている。家父長制社会が非常に強いので、その反動として労組の存在が強くなる。ここから、面白いことに、右派のサルコジは、家父長制社会こそがフランス社会の競争力を弱めていると攻撃している。というのは、家父長制が強すぎるからこそ、労組の力が強く、長期バケーションや労働時間の短縮が行われるからだ。

<移民>

・ぼくの疑問:イスラム圏からの移民が増大し、昔からのユダヤ人問題は、後退したのか。

・今でもユダヤ人問題は根強くある。欧州で、今でも火を噴く未解決の問題は3つある。一つはユダヤ人問題、2つはフランス革命をどう観るかという問題、3つはハイデッガーとナチスとの関わりの問題。ユダヤ人は、知識人・ショービジネス・マスコミに多く進出している。ユダヤの陰謀に対する決起としてビンラディンの9.11を捉える構図さえある。反ユダヤのデモが9.11後に起きている。

・移民は、北アフリカのマグレブ諸国からの移民が多い。黒人である。黒人差別は非常に大きい。フランス社会では。人種分業が見て取れる。黒人は見えないところで働いている。レストランでは、厨房。ビルなら警備。

このほか、先生専門の社会哲学について、いくつか、面白い議論を聴くことができた。論点だけ記す。

・ぼくの疑問:ヴィトゲンシュタインは、一次大戦後の知性たちの危機意識の中ではどういう位置づけになるのか。

・ヴィトゲンシュタインは、基本的に、論理実証主義の源流になる。実証主義の一つ。つまり、近代科学技術や進歩、楽天的な世界肯定と結びつく余地がある。

・ぼくの疑問:ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、規律・学習という側面で、存在の被拘束性(カール・マンハイム)を受けることになるのではないか。その意味で、カール・マンハイムやマルクスの唯物論とも近い側面があるのではないか。

・確かに、その点では、社会の拘束性を受けると思う。ただ、ヴィトゲンシュタインを考える場合、前期と後期を分けて考える必要がある点と、前期・後期を一貫する言葉の用法の厳密さへの志向性は、ある意味で科学主義につながるところがある。
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春夕焼

金曜日、。朝まで、仕事、午後まで眠。雑用を済ませてから、泳ぎに行く。笑ひ・祝福・運動。この3つが欠けると、心が硬くなるような気がする。

帰りに、きれいな夕焼を見た。春の夕焼は、夏の暑苦しさがなく、しかも、穏やかでいい。時間の長さも、冬を経た後なので、はっきりと感じられてくる。秋の夕焼は、暮れるのが早すぎる。春の夕焼は、どこか、少女のような表情をしている。

こんな話を家人にしたら、夏の夕焼には蜩の音楽があるので、いつまでも見ていたくなるのだという。なるほど、確かに、春の夕焼には蜩は鳴かない。けれど、その淡い紅と薄い青空の青、白い雲の色彩の調和は、どこか音楽的である。

雪山に春の夕焼滝をなす  飯田龍太

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芭蕉の俳句(136)

木曜日、。終日、仕事。最近、フルトヴェングラーの1951年のライブ録音で第九を聴いた。この録音は、以前から知ってはいたが、どうも古くて躊躇してきた。今回、聴いてみて、現代の指揮者の演奏と根本的に違うと感じた。音楽を聴いて、泣くことはある。けれど、その場合、音楽に触発された回想やイメージに泣くのであって、音楽そのものに涙するのではない。そこには時間差が生まれる。フルトヴェングラーのこの演奏は違う。音楽と同時に泣くのである。気がついたら、涙が出ているのだ。第九は、何人かの指揮者の録音で聴いてきたが、ここにこそベートーヴェンがいる、そんな感じを受けた。



一日一日麦あからみて啼く雲雀   嵯峨日記

元禄4年作。一日一日と時間の経過を詠んでいるところに面白みを感じた。これは、リアリズムの句であろう。麦が一日一日あからんでいく状態を言った句なので、麦秋で夏。芭蕉は、季重ねを縦横に駆使する句が多い。
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