goo

飴山實を読む(194)

■旧暦4月18日、月曜日、

(写真)無題

今日は、久しぶりにいい天気だった。しかも、雲日和w。いい味出している雲が多かったのである。朝早くから、叔母の転院の手続きと転院先までの付添い。もろもろの書類作成など。帰宅したら、3時だった。夕方、散歩しながら、ぼーっとする。ふと、こんな考えが浮かんだ。理論的に考えるとは、唯物論的に考えることだと思う。少なくとも、ぼくはそう思う。現実的に考えるとは、両義的に、言いかえれば、弁証法的に、生成のダイナミズムの中で考えることだと思う。そして、理論的・現実的に考えることが、根本的な問題解決の第一条件ではないだろうか。これと矛盾するように思うかもしれないが、俳句的な現実の再構成というものがあり、詩的な現実の再構成というものがあり、これらが、理論的な現実の再構成に投げかけるヒントには大きいものがあるように思う。自ら、その実例を示さなければ、説得力はないのだが…。



すりこぎで肩叩きゐて寒の晴  「俳句」平成十二年一月

■ユーモアに惹かれた。實は、平成十二年三月十六日に腎不全で亡くなる。この原稿ができたのがいつなのか、わからないが、死の三、四カ月前だろう。平成六年より、腎臓の病に苦しんだ末の死去である。この句に現れている飄逸なユーモアに、「民衆の力」のようなものを感じると言ったら言い過ぎだろうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

飴山實を読む(193)

■旧暦4月17日、日曜日、

(写真)無題

午前中、仕事。午後、集合住宅の総会。夕方、ひと眠り。



つながつて石に蝶ゐる霜日和   「俳句α」平成十一年十二月・一月

■非常に詩的なものを感じて惹かれた。詩と異なるのは、季語「霜日和」と「切れ」による一行の広がりだと思える。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

飴山實を読む(192)

■旧暦4月16日、土曜日、

(写真)利根川

今日も肌寒い一日だった。午前中に仕事を済ませて、午後は雑用。夕方、よく行く書店で落語のイベントがあるというので、出かける。演目は、「転失気」。始めて聴いたが、面白かった。柳家ほたるという若手が健闘。若いだけあって、小僧の珍念を演じるときは、いきいきしていた。その後、家族と合流して、買い物、食事。自転車を転がして帰ってきた。



かなぶんの命の果ては裏返り   「俳句α」平成十一年十二月・一月

■まったく言うことがない。見事な写生。俳句の写生は科学主義と結びついた方向に発展してきたが、本当は違うことが實を読むとよくわかる。科学主義的な写生では、対象は固定され、物象化され、退屈になるばかりで、それを補うかのように、解説でその新しさを称揚せざるを得なくなる。句としては、終わっていると思う。



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

飴山實を読む(191)

■旧暦4月15日、金曜日、、満月、夜曇りになったが、一瞬、満月を見ることができた。五月の満月は、願い事を一つだけかなえるという。なにも考えないうちに雲間に消えてしまったが、気分は良かった。

(写真)やなぎ

はや、週末か。いくぶん、肌寒い。もう6月である。

海兵隊の基本性格は、ヘリで外国を侵攻する侵略専門部隊だから、国土を守る機能はない、という意見がある。そもそも、なぜ、海兵隊を置いているのか。また、抑止力と言えば、わかったような気にさせられるが、具体的・現実的に何を指すのか。軍隊だけを指すのかどうか。こういった疑問に対して、米軍を経済的に支えている日本国民に政府は説明する義務があるのではないか。外交は専門家に任せておけばいいというのは、一見もっともらしいが、nation stateの呪縛にとらわれた見方だと思う。戦争は、最終的な問題の解決にはならない。それは人間の歴史が証明している。戦争をしないために軍隊を置く。これほどの欺瞞があるだろうか。軍隊は、現にここから戦場へ移動し戦争をしており、未来に戦争を求めるものである。国民の税金で公然と大量殺戮が行われていることは、どんなに取り繕っても、否定できない事実である。

だが、批判だけに終始するとしたら、責任という観点を失うことになるだろう。戦争をしない、戦争に加担しないための有効な代替案を考えるには、「抑止力」とは、そもそも何のか、そして、今後どうあるべきなのか。米軍の国際戦略に巧みに利用されている「日米安保」をどうすべきなのか。まったく別の国際枠組みが可能なのかどうか。こういった点について、国会で根本的な議論をする時期に来ているのではないだろうか。



つはぶきに峡は三日を晴れつゞき   「俳句」平成十一年一月

■峡(たに)が三日続けて晴れているとわざわざ言っているのだから、普段は、つわぶきの季節(冬)には、曇りや雨などの天候なのだろう。「つわぶきや」で切らずに、「つわぶきに」とつなげているのは、地味な花であるつわぶきに対して祝福するように峡が晴れている、といった印象を受ける。そこに惹かれた。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

飴山實を読む(190)

■4月11日、月曜日、、とげぬき地蔵尊大祭

(写真)無題

朝の4時までかかって、仕事を一段落させた。今日は、昼から、病院でケアマネとソーシャルワーカーと打ち合わせ。方向性がだいたい出た。若い人と違って、高齢になると、元気になる見込みが立ちにくいので、介護というのは、どこかに徒労感がつきまとう。帰宅してからも、ずっと、仕事をしていたので、やけに疲れた。洗濯物を畳んで気分転換を図る。どこか、旅に出たいなあ。



しぐるゝや炙つては替へ酒の粕

■旨そうである。「しぐるゝや」との絶妙の取合せに惹かれた。何気ないが、豊かな時間が流れている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

飴山實を読む(189)

■旧暦4月9日、土曜日、

(写真)この団子屋は、佐原の路地の奥にあるのだが、非常に美味だった。1本60円である。

昨日は、朝まで眠れず。仕方ないので、仕事をしていた。塾の仕事をしていると、帰宅しても、テンションが下がらないので、ときどき、こういうことがある。眠れないまま、twitterで韓国のtwittererと話をしたのだが、日本語が上手なのでびっくりした。ハングルと日本語というのは、欧州の言語と日本語ほど離れていないのだろうか。まったく見当がつかないのだが。朝、そのまま、排水管清掃に立ち会う。午後中眠って、床屋へ。頭がぼーっとしたまま、夕飯を食べたら、どうにか、元に戻った。缶詰のココナッツミルクをバニラアイスにかけて食すと、その取り合わせが絶妙なことに気がついた。4月に作った作業計画表を見直していて、作業がまったく進んでいないのに愕然とする。なかなか苦しい戦いだが、これから、挽回である。



山川やつゞきの畳蟹あるく   「俳句」平成十年七月

■飄逸な味わい。ユーモアに惹かれた。「山川や」の上5が句に広がりを与えている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

平井照敏の句

■旧暦4月8日、金曜日、、仏生会(旧暦)

(写真)無題

今日は暑かった。いきなり真夏か、ヘンだな地球。さてさて、あっという間に金曜日。これじゃ、あっという間のあの世かな。



漫画家の長谷邦夫さんと平井照敏の俳句について、ここで話して、改めて興味をもって、櫂先生の『海と竪琴』から照敏句を選句してみた。照敏を論じた個所で、先生は二つ印象的なことを話されている。一つは、「近代以降、俳句は日本や中国の古典のみならず、海外の文学も下敷きにすることができるようになった」(『同書』p.172)ということ。これは、日本文学の近代化の成果とも言えるものだろう。もう一つは、「平井氏の句は現実の世界を写していても、言葉がこの世ならざる光を帯びてしまう。…この光は歳月とともに強まり、やがて、その光源に死があるらしいことが、ほかの者にも分かり始めた」(『同書』p.174)ここには、ニヒリズムとセットになった近代的な時間意識を見ることができるのではないだろうか。照敏の句には、近代の光と影が色濃く刻印されているように思える。


相生橋さまざまな夏わたるなり

藁しべをかみたる春の氷かな

雲雀落ち天に金粉残りけり

どこまでも芹の青さをたどりけり

十月の真赤な滝のしぶきけり

日のとんぼ影のとんぼに清水湧く

凍て窓の一つに見守られてゐたり






コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

飴山實を読む(188)

■旧暦4月7日、木曜日、

(写真)無題

午前中仕事、午後には、叔母の今後の件で病院へ行き、医師とソーシャルワーカーと話し合ってきた。帰宅して、仕事。夕方から兼業へ。終日、霧雨で今夜は蒸し暑い。帰宅途上で、葉桜が風に大きく揺れていたので、俳句を作ろうと、30分くらい立って考えていたが、結局、できない。帰って、この話をしたら、「怪しい」と口をそろえて家人らに言われてしまったが、これが怪しいとすると、しょっちゅう、ぼくは、怪しげな人物なのだな、と自覚した次第である。

今日は、久しぶりに詩人の清水昶さんと電話で話したのだが、やはり、昶氏、ただ者ではないな。最近俳句は作らないんですか、と聞くと、「ぜんぜん作る気にならない。活字はダメだな。詩も小説も全然ダメだ。俳句がかろうじてなんとか」これ、普通じゃ出てこないと思う。つまり、俳句の本来の立ち位置を言い当てているからだ。民衆の意識・無意識に近い口誦性や笑いを言っているのだとぼくは思う。



ザビエルの鐘鳴りわたる夏霞   「俳句」平成十年七月

■「ザビエルの鐘」という措辞にまず、はっとさせられる。何気ないが、歴史の重みのある措辞だと思う。ぼくが無知なだけかもしれないが、ちょっとウィキで調べただけでも、ザビエル周辺には、びっくりするような物語がたくさんある。司馬遼太郎の『南蛮のみち』を読んではじめてザビエルがバスク人だったことを知った。この鐘は、山口のザビエル記念聖堂かもしれない。夏霞という季語で、視界が明るくさえぎられ、歴史の彼方から鐘の音が聞こえてくるような感じがする。







コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

飴山實を読む(187)

■旧暦4月6日、水曜日、

(写真)無題

雨になると、持病の腰痛が、耳鳴りが。歳はとりたくないね。早く寝るに限るな。



老鶯や水のきほひで橋揺れて   「俳句」平成十年七月

■水の勢いで橋が揺れる、という光景は、よくわかる。急流の険しい川なのだろう。水しぶきがこちらにかかるような臨場感に惹かれた。



Sound and Vision

芭蕉をテーマにした現代音楽をいくつか書いているので、作曲家の湯浅譲二に関心を持っているのだが、Youtubeで検索したら、こういう曲も作っていた。ちょっとびっくり。詞は山田太一。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

飴山實を読む(186)

■旧暦4月5日、火曜日、

(写真)無題

今日は、朝から、順天堂病院まで付き添い。一日かかった。帰ったら、さすがに疲れた。チロルチョコを食べながら、ウィスキーを飲んでいる。今日は、これから夜中まで仕事である。



花あけび吉野へかゝる吊橋に   「俳句」平成十年七月

花あけびは、初めて知った。蘭にも似た清楚な感じの花。この句で、惹かれるのは、「吉野へ」という措辞で、この言葉一つで、花あけびの「花」が花の吉野と響きあい、あけびの花の向うに吉野山の桜の花が見えてくる。「花あけび」と「吊橋」の響きあいもよく考えられていると思う。春の山の深さが伝わって来る。






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ