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RICHARD WRIGHTの俳句(27)

■日差しはきついが、風に湿気がなくなってきた。秋の風は軽い。

月曜日の内閣改造で、小泉が副総理で入閣という噂がある。マザコン安部晋三のことだから、やるかもしれない。実現すれば、ある程度、支持率は回復するだろう。いまだに純ちゃーんと言って、地方の演説会は盛況だったのだから。自民党の体質が素直に出たのが安部内閣(「そのまんま無能」ということですね)で、それを民意は明確に拒否した。けれど、小泉が返り咲くと、自民党の体質が、その変人ぶりで、見えにくくなる。最後の断末魔とは言え、衆議院選挙に少なからぬ影響が出るでしょう。



(Original Haiku)
Across the river
Huge dark sheets of cool spring rain
Falling on a town.


(Japanese version)
川を渡ると
あたり一面、黒々と冷たい春雨
街は雨である


(放哉の句)
傘にばりばり雨音さして逢ひに来た


■ライトの三行詩を訳していて気がついたことがある。ライトは暗く否定的なものに惹かれる。その意味では、俳句とは、本質的に異なる。差別との戦いに明け暮れた人生から見えた世界は暗く否定的だったのだろうか。嘆いたり、自己陶酔したりはしないが、言葉の選択に否定性が出てくる。最晩年の境地が三行詩に出ているとしたら、幸福とは言えないかもしれない。ライトは、小説が本領だから、時間を見つけて、小説の方も読んでみたいと考えている。

ライトの景は、大きいけれど、よくある話。放哉の句は、雨を詠んで人情を捉えている。男か女かわからないけれど、これから、愉快な、あるいは幸福な一時が始まる気配がある。こういう意匠は、そうはないと思う。
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芭蕉の俳句(147)

■旧暦7月13日、土曜日、

今日は、排水管の清掃で業者が来るので7時から起きて待っていた。その間、自律訓練法を施して、新聞をじっくり読む。相変わらずの政治家の馬鹿さ加減。ドラマや映画化を前提にした恋愛ばっかりの色ボケ小説家の広告。まあ、どっちも金でしょうな。

今日は、午後から、ある講演会を聴きに行く予定だったが、家内の体調が悪く、病院に連れて行くことにした。



菊の後大根の外更になし   (陸奥鵆)

■元禄4年作。大根で冬。菊の古来からの美しさに、庶民的な大根の風味を強調している点に惹かれた。菊の花が終った後には愛すべき大根だけがあり、その俳味は格別である、といった感じだろうか。この句は、古典を踏まえた発想になっている。その古典とは、「是れ花の中に偏へに菊を愛するにあらず、此の花開けて後に更に花無ければなり」(『和漢朗詠集』元稹)と「いとせめていつろふ色の惜しきかな菊より後の花し無ければ」(『拾玉集』慈鎮和尚)である。

鑑賞の対象として菊というのは、現在でもありえるが、鑑賞の対象というよりも、俳味、おかしさ、ユーモアとしての大根というのは、客観写生にこだわると、現代でもなかなか難しいんじゃないだろうか。たとえば、大根を詠んだ有名な句には、

流れ行く大根の葉の早やさかな   虚子

があるが、これは大根の葉を詠んだものであり、俳味やユーモアに乏しい。しかし、

すつぽりと大根ぬけし湖国かな   橋石

大根を葉でぶらさげて湖渡る   平畑静塔

あたりになると、俳味が漂ってくる。

放哉はこんな句を詠んでいる。

大根抜きに行く畑山にある

まあ、あまり面白くないですね。
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