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飴山實を読む(129)

■旧暦10月14日、月曜日、

(写真)無題

朝、叔母の様子を見にゆきながら、ヘルパーを増やす件でケアマネと調整。ヘルパーにあらかじめ要望を伝えるヘルパーノートを作成。久しぶりに徹夜した。仕事が止まらなくなってしまった。深夜、メチャクチャ冷え込んだ。床から冷気が上がってくる。今日は、炬燵用の下敷きと上掛けを使用。午後、昼寝。夜はやはり冷え込んできた。明日ははや師走か。

着膨れて節約のこと話しをり





虚空から何のこぼるヽ初雲雀
   「花浴び」

■確かに雲雀の声を聴いていると、こんな感じに捉われて、思わず、空を見上げることがある。本当に、何かが零れているのかもしれない。



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飴山實を読む(128)

■旧暦10月13日、日曜日、

(写真)無題

『LUKACS AFTER COMMUNISM』(EVA L. CORREDOR 1997)が届く。10年前に出た本だが、11人の知識人にルカーチについてインタビューを試みており、10年後のこの段階で読むとどういう発見があるのか、楽しみにしている。表紙は絵が描かれた比較的新しい時代のベルリンの壁である。

ストレスというのは、その対策を適切に行わないと、ぼくの場合がそうだったように、耳鳴りなどの疾病を引き起こす。だが、たいていの場合、よく眠れていれば、問題は起きない。もっとも危ないのが眠れないという事態で、風邪が万病の元であるように、不眠はあらゆる精神疾患の元である。というわけで、今日は、眠り込みを行ったのである。


亡きひとの声聞く夢や冬籠





にぎはへる岬の町は目刺の香
   「花浴び」

■目刺が好きで、この句に惹かれたのだが、岬の町の実に庶民的なにぎわいを想像させて楽しい。かつて、こういう句を作った。
目刺焼く馬鹿のつくほど大真面目



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サイバープロテスト!!!





■『サイバープロテスト』(皓星社)が遂に明日刊行! 「現存」に疑問を持つすべての者たちへ。社会運動にインターネットはいかなる可能性を持ち得るのか、あるいは得ないのか。感情論やセンセーショナリズムに傾くことなく、冷徹な分析のメスが光る。


人と人のコミュニケーションは、一緒に食事することから始まるが、高度情報化と高度消費化が進展する「ポストモダン状況」にあっては、実体性の喪失したネットコミュニケーションは、実体剥奪(戦争や殺人等)にこそふさわしい、というパラドックスを本書がどのように解き明かしているのか、実に興味深い。

一九六九年、黒人女性活動家アンジェラ・デイヴィス(現在、カリフォルニア州立大学バークレイ校教授)救援の動きが、社会主義圏・資本主義圏―今やいずれも崩壊!―の枠と距離を越えて、ヨーロッパ大陸、アメリカ大陸、大西洋を越え跨って、ルカーチやラッセルによってなされていた。あれから四十年! ネット社会はそれだけの濃密さのある主張と意思伝達を実現できるのか、が問われている。「インターネットと社会運動」―両極端のベクトルは合流できるのか、興味深い視点である。一読をすすめたい。


      『ルカーチの存在論』公開講座十九周年講師(D合)社会哲学者 石塚省二



サイバープロテスト―インターネット、市民、社会運動
クリエーター情報なし
皓星社







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飴山實を読む(127)

■旧暦10月12日、土曜日、、芭蕉忌

(写真)櫻紅葉

カルディでキリマンジェロを買うつもりが売り切れていた。確かに安くて旨いが、売り切れは初めて体験した。

駐輪場に置いていた自転車がパンクしていた。何者かの仕業であろうか。最近、パンク事件が多いのである。殺人放火事件以降、このあたり一気にスラム化した感がある。


冬の空日ごとスラムとなりにけり

芭蕉忌やスラムを猫がひた走る

棟梁のくはへ煙草や冬の雲

風流は趣味か逃避か懐手


英語俳句を作るのが面白くて50句近く作ってしまった。上手くいっているかどうかわからないが、ご興味ある方はDelfini Workshop Ⅱへ。ドイツ語でも挑戦していきたいのだが、ただ英語を独訳したのではつまらないので、着手していない。しかし、金にならないことに情熱を傾けるこの性格はいったい……。




夕まけて柱にうつる春の雪
     「花浴び」

■こういう世界も確かにある。現実がどれだけひどくても、である。一瞬垣間見えた和解した世界である。人間と人間が、人間と自然が。こういう世界は一瞬にしか現れない。




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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(13)

■旧暦10月10日、木曜日、

(写真)無題

もう木曜日か。早いな。仕事が難航また難航。難しいテキストでもスイスイ訳せる人もいるが、自分にはとてもまねができない。

夜、寝る前にブログを更新すると、ただでさえ、不眠気味がますます眠れなくなる。夜は、ぼーっとしているに限る。

西東三鬼のエッセイ『神戸 続神戸 俳愚伝』を読んでいて、気がついたのだが、三鬼と英語の関わりは浅からぬものがある。神戸で、進駐軍との渉外にあたるほどの英語力があったのだから(今でいう、ビジネスレベルか)、その俳句に英語の影響がないとはとても思われない。三鬼の俳句に詩的かつ散文的な要素が大きいとすれば、英語の持つ論理性が影響を与えたのではなかろうか。たとえば、広島で詠んだ有名な

広島や卵食う時口ひらく  三鬼

にしても、「広島や」がなければ、説明的な散文である。しかも、卵は鼻から喰うのか、と突っ込みを入れたくなるようなベタな散文である。そして、どこか、英語を日本語にしたような響きがある。散文性ということで言えば、楸邨にも強く感じるが、この場合は、たぶん、発想というよりも、ヨーロッパ言語から日本語に訳した翻訳文体の影響があるのだろう。新興俳句と外国語あるいは翻訳との関わりという視点は、意外にも、今まで盲点になってきたように思える。これは、今も続く影響の一つと思われる。当然のことながら、その評価は一概には言えないだろうけれど。


冬籠貧乏神に愛されて

飄然と枯木の上の昼の月




のつぽりと師走も知らず弥彦山


■弥彦山は越後平野のただ中に佇立する山。もう師走の時期だが、人間界の慌ただしさとは無関係に屹立する自然。こうありたいと思って惹かれたが、人間が生きていくのは、いろいろいろと大変である。



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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(12)

■旧暦10月9日、水曜日、

(写真)廃墟

朝、ラジオ講座。ノートパソコンのバッテリーがいかれてしまって、使えなくなった。いやはや。ノートの意味ない。洗濯担当に戻ったので、洗濯物を干す。今日は午後から病院、そのまま仕事へ。諸般の状況が一段と厳しさを増してきて、トータルで苦戦を強いられている。

慶応落研卒のU氏推薦のジャクソン・ポロック関連本の翻訳に着手。この本は、ポロックを主人公にしているが、ポロック本人だけが登場しない劇のようなもので、関係者へのインタビューで、ジャクソン・ポロックとは誰だったのか、あぶり出している。この本を訳すにあたって、西部生まれのアメリカ現代絵画の旗手、ポロックに、現代の諸問題が集約的に現れているという仮説を立てた。それが、会話の中に滲み出るように訳すことを目標にしている。時間はあまりないのであるが。


不揃ひの蜜柑嬉しきバケツあり

包丁は一声入れて河豚さばく

夜の底火の匂ひする枯木かな





柴垣に小鳥集まる雪の朝


■これも、小鳥を眺める良寛のまなざしの中に微笑を感じて惹かれた。雪の清浄な朝に小鳥の声がなんとも言えず、楽しげである。「雪の朝」という措辞が効果を上げているように思う。



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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(11)

■旧暦10月7日、月曜日、、勤労感謝の日

(写真)蜜柑

早朝から、ラジオ講座。ウェブチェック。仕事。叔母の調子を見に行く。寒くなってきたので、できるだけ毎日、顔を見に行くことにしている。去年、12月には脳梗塞で倒れたからである。冬はお年寄りには危険な季節である。朝から、ハヤシライスを食す。珈琲3杯。蜜柑、次郎柿。午後、疲れて爆睡してしまった。初めての自家焙煎の店でキリマンジェロを購う。夕食は、久しぶりに包丁を握る。

鋤焼きの好み違うて家族かな





湯もらひに下駄音高き冬の月


■弾んだ気分が、下駄の音に出ているふうに感じて惹かれた。わははと大笑いではないが、心は微笑している。考えてみるに、ぼくが子どもの頃にも、もらい湯というのは経験したことがある。どういう事情があったのか、覚えていないが、他の家の(確か親戚だったような気がする)風呂は、新鮮に、しかも、広く思えて、楽しかった記憶がある。昔の家族は、大家族が多かったが、良かれ悪しかれ、さまざまなニュアンスに富んでいたように思う。



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※最近知ったのだが、firefoxにYouTubeCinemaというアドオンがある。音楽に集中したい場合には、これを使用すると、いいかもしれない。
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ドイツ語の俳人たち:Udo Wenzel(20)

■旧暦10月6日、日曜日、、小雪

(写真)無題

早朝に起きて、パウル・ツェランの詩を一篇、日本語に翻訳して、コールサック社に送る。午後、昼寝してから掃除。冷蔵庫に少しずつ溜まった珈琲豆を全部処分する。残ったのは、セブンで緊急用に買った大袋だけとなった。これ、不味いのであるが、捨てるのもな。

今週の半ばに、拙訳『サイバープロテスト』(ヴィム・ファン・デ・ドンク、ブライアン・D・ローダーほか編 皓星社刊)が店頭に並ぶ。この本は、欧州の社会学者たちが、社会運動におけるインターネットの可能性について調査研究した論文数本からなっている。インターネットについて、楽観論/悲観論の二元論を退け、具体的なケースを取り上げて分析しているので、今後、実践的にも、理論的にも、価値ある一冊になるだろうと考えている。


世の中とひととき和するおでんかな

大いなるため息ひとつ竈猫





Kirschblütenregen.
Der Alte unter dem Baum
summt ein Kinderlied.


花の雨
桜の木の下で
老人が子守唄を口ずさむ


■Kirschblütenregen(花の雨)という季語を知っているのにまずびっくりした。ドイツの桜の頃の雨はどんな感じだろうか。桜は、そもそもあるのだろうか。少し惜しい気がしたのは、Kirschblütenregenと使っておきながら、再び、unter dem Baum(その木の下で)と繰り返し桜を使っている点である。欧州の言語構造の中では、「切れ」という概念を、理解するのが難しいことを改めて思う。



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プラトンとアリストテレス/ルカーチ『社会的存在の存在論プロレゴメーナ』

■旧暦10月5日、土曜日、、達磨忌、波郷忌

(写真)無題

蜜柑がバケツに3杯分も届いたので、配っている。庭の蜜柑の木になったものだという。次郎柿もよくなったらしい。柿は好物なので、配らない! 


ふるさとや世のはじまりに蜜柑あり

次郎柿種の周りがやはらかき




夕方から、I先生の哲学塾に出る。今日は、プラトンとアリストテレスの話だった。プラトンとアリストテレスは、学生時代に、多少は読んだが、今日のように、哲学史の中に系統的に位置づける作業をしてもらえると、理解が進む。プラトンがイデアを生む存在として創造者を想定し、キリスト教神学の先駆けになった、という話は初めて知った。プラトンの考え方の基礎にあるものが、精神的なものだったのに対し、アリストテレスの考え方の基礎は動物だったという話も、なんだが、示唆的だった。その後の西欧の理論史は、この二人を批判的に継承する歴史とも言えるわけだから、植民地主義や資本主義を通じて、「西欧」が世界化していくプロセスを考えれば、プラトンとアリストテレスの話を聴くというのは、世界の端緒を垣間見るような思いがする。

後半、ルカーチの『社会的存在の存在論のプロレゴメーナ』のポーランド語版というのを先生が朗読して、その場で、日本語にしてくれたが、内容的には、非常に面白い。今日のレクチャーで、やはりな、と思ったのは、フッサールに始まる現象学には、「歴史」がないのではないかと、感じていたが、ルカーチは、現象学は、自然と社会を排除している、という批判をしている。存在のもつ社会性が現象学からは消えていると。

今、検討しているテキストは、メルロ-ポンティの肉の存在論に「技術性」が欠如しているという点が一つの中心的な論点になるが、これと、ルカーチの現象学批判-社会性・自然性の欠如-をどう考えるかが、作業として浮上してきたことになる。ルカーチのプロレゴメーナは、「労働」「再生産」「理念・イデオロギー」「疎外」といったカテゴリーで世界を読み解く社会的存在の存在論の入門篇となるもので、非常に示唆に富んでいる。時代を根源的に考えていく上では、不可避のテキストだろうと思う。
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フランス語になった俳人たち(21)

■旧暦10月4日、金曜日、

(写真)無題

今日は早朝から起きているので、妙に、腹が減った。朝から、珈琲三杯とトースト2枚、蜜柑と柿を食した揚句に、野菜炒めを載せたあんかけラーメンを喰う。午後、散歩。水を買って帰る。江戸川は、枯芒がいい味。そろそろ、ウォーキングがしたくなってきた。

枯芒ざわわと風を生むところ

ゆつくりと雲に風でる檻の鷲


夜、非常に冷たい雨がポツリポツリと降った。初雪にでもなりそうな気配だったが、一時的なものですぐに止んだ。




年暮れぬ笠きて草履はきながら
   芭蕉「野ざらし紀行」

L'année prend fin-
toujours le même chapeau
les même sandales de paille!


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002

年終わる
いつも同じ笠
同じ草鞋


■微妙に異なるが重要な違いは、日本語では、旅の中の人生を詠んでいるのに対して、フランス語版では、旅の身なりを詠んでいる。この違いは、たぶん、日本語の動詞「きて」「はきながら」の動きにあると思う。フランス語版では、動詞は使われていない。ただ、動詞を使うと、散文に近くなるという配慮があって、意図的にフランス語訳者は名詞化したとも考えられる。英語の俳句を書き、読んでいると、そう感じられる。



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