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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(6)

■旧暦7月19日、金曜日、

今日で8月も終わり。長い夏休みだった。体調は、おおむね良好で、仕事に支障があるほどの耳鳴りはなくなってきた。耳鳴りゼロも何度か経験している。今後の仕事のことを真剣に考えなくてはならない時期に来たように思う。今のところ、産業翻訳は年末から年度末にかけて忙しく、それ以外の受注はほとんどなくなった。その間は、出版翻訳を入れているのだが、今後、2つのことを目標にしたい。一つは、ドイツ語でも出版に参入すること。もう一つは、英訳の仕事の経験を積むこと。産業で需要が安定しているのがこの分野だからだ。この二つの目標を達成するにはどうしたらいいか。いろいろ考えていきたいと思っている。

次号の投句にどうにか5句そろえることができた。まだ、不満もあるので、締め切りまでに新たに何句か作りたいが、俳句については、ほぼ、回復してきた実感がある。問題は、詩の方で、まったく書けていない。スケッチさえできていない。早急にリハビリに入りたいと考えている。




unter dem Bäumen
bewegungslose Pferde
während des Regens


木々の下
動かない馬たち
雨が降っている


■この三行詩は好きである。静かな情景が目に浮かぶようだ。この雨は青葉雨なんじゃないだろうか。新緑の感じがする。新緑と動かない馬たち。木々と馬が一つになった時間。雨は木々にも馬にも静かにめぐっている。
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RICHARD WRIGHTの俳句(29)

■サイバーに行き詰まると、WrightやBalzerの俳句を考えている。座礁が多いから、結構、二人の翻訳が進むのである。皮肉というか、なんと言うか。



(Original Haiku)
A huge drift of snow
Blocks the narrow pathway to
The little toy shop.


(Japanese version)
雪が深くて
あの小さなおもちゃ屋に行く
小道が通れない


(放哉)
雪晴れの昼静かさを高く泣く児かな


■ライトの句は、よく子どもに買ってあげたおもちゃ屋なんだろう。大雪で道が通れない。残念な気持ちがあるように思う。子煩悩な父親の一面が見えたように思った。放哉の句は、雪晴れの静まり返った昼である。どこかで、高く赤子が泣いている。静けさが深まるように。放哉の雪の句は、これ以外にもある。たとえば、雪の戸をあけてしめた女の顔などという微妙な句もある。この顔は喜びに輝いたのか、落胆に沈んだのか。
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芭蕉の俳句(149)

■旧暦7月18日、木曜日、

6時起床。今日は子どもが伊豆に合宿に行くので、早く起きた。昨日は、朝一で句作をしたら、はかどったので、今日もサイバーに入る前に、一仕事してしまいたい。



菅沼亭
京にあきて此の木枯らしや冬住まひ
   (笈日記)


■元禄4年作。芭蕉は、「奥の細道」以降、京都周辺に2年も流寓して、今ようやく江戸に帰る途中にある。京都の生活に飽きて、木枯らしに田舎の生活の趣を感じ取っているところに惹かれた。季語は木枯らしで冬。楸邨によれば、「冬住まひ」は当時はまだ季語として現れない。ただ、京にあきたのは、芭蕉ではなく、菅沼亭主人、耕月という解釈もある。この句は、芭蕉の心境でもあり、主人耕月の心境でもあり、二人の気分が溶け合った中に挨拶の心が生きているのではないだろうか。
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飴山實を読む(30)

■旧暦7月17日、水曜日、雨になりそうな雲行きである。

6時起床で気分はいい。雨にならなければ、午後は、久しぶりに筋トレに行きたいと思っているのだが。




山の子の手毬の行方笹の露


■露で秋。この句、遊んでいたときに、手毬が笹の中に入ってしまって見えなくなってしまったのだろう。けれど、なぜが、ディラン・トマスの次の詩句を思い出した。

The ball I threw while playing in the park
Has not yet reached the ground.


公園で遊んでいたときに投げ上げたあのボールは
まだ地上に戻ってこない


DYLAN THOMAS「Should lanterns shine」

この句、ディラン・トマスのような喪失感はなく、むしろ、可憐さが漂っている。それは、トマスのボールを投げ上げたのが少年で、實の手毬を失くしたのが少女だという違いもあるのかもしれない。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(5)

■夕方、夕立。夜、雷。今日は、サイバーが難航して参った。散文は散文の難しさがありますね。座礁すると、Balzerの俳句を考えていた。翻訳の悪いところなんだと思うけど、原文を音楽として感受する前から、書かれたテキストとして見ている。このため、原文の意味だけを忠実に伝えようとする傾向がある。本来、詩は音楽なのだから、原文を音楽として音読し、音楽として日本語にすべきなんだろう。

酒見賢一の短編「エピクテトス」を読む。ネロの時代のストア派の哲学者だが、奴隷として生まれ奴隷として生きた。その人生は、奴隷らしからぬゆえに二重に悲惨だが、仏教で言う「空」を体得しているような印象を受けた。どんな目に遭っても平然としている。ある種の悟りに近いような感じがした。




in der Zypressen
verschwindet das Rotschwänzchen
mit Gras im Schnabel


糸杉林
ジョウビタキが嘴に
草をくわえたまま消えた


■この三行詩を読んでいて、詩の好きな人は、懐かしい響きに逢ったに違いない。それは一行目の糸杉林「die Zypressen」である。賢治が「春と修羅」で、このドイツ語を効果的に使っているからだ。

聖玻璃の風が行き交ひ
ZYPRESSEN 春のいちれつ
くろぐろとエーテルを吸ひ

・・・

(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青空を截る
(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)

・・・

(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ


■賢治詩集の注によると、ZYPRESSENは地中海沿岸や中東に分布する常緑樹で、日本には明治中期に渡来したらしい。植生は関東南部以西。賢治のZYPRESSENは物凄い。ゴッホの絵の中の糸杉のような激しいイメージである。BalzerのZypressenは、小さな生き物の余韻や気配を宿して静かなたたずまいをしている。
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RICHARD WRIGHTの俳句(28)

■先日の深夜、もう寝ようかなとベッドに横になったところで、幻の大詩人A・Sさんから携帯に連絡が入った。人類最後の恋愛について、いろいろ話し合った後で、石原吉郎に耳鳴りの詩があるよ、と教えてくれた。調べてみると、「耳鳴りのうた」という作品が確かにある。


耳鳴りのうた

おれが忘れて来た男は
たとえば耳鳴りが好きだ
耳鳴りのなかの たとえば
小さな岬が好きだ
火縄のようにいぶる匂いが好きで
空はいつでも その男の
こちら側にある
風のように星がざわめく胸
勲章のようにおれを恥じる男
おれに耳鳴りがはじまるとき
そのとき不意に
その男がはじまる

(中略)

いっせいによみがえる男たちの
血なまぐさい系列の果てで
棒紅のように
やさしく立つ塔がある
おれの耳穴はうたうがいい
虚妄の耳鳴りのそのむこうで
それでも やさしく
たちつづける塔を
いまでも しっかりと
信じているのは
おれが忘れて来た
その男なのだ


石原吉郎の詩集『サンチョ・パンサの帰郷』から



外出の行き帰りに、ライトの俳句を考えていた。今回の俳句は、否定的な要素は無く、切れに近い意識も見受けられる。

(Original Haiku)
In the summer haze:
Behind magnolias,
Faint sheets of lightning.


(Japanese version)
夏の靄
一面のほのかな光を背に
木蓮が咲いている


(放哉)
朝靄豚が出て来る人が出て来る


■放哉、恐るべし。ライトの三行詩も美しくていいが、放哉の句には俳味がある。西欧人は「俳味」や「諧謔」というのを理解するのが難しいのかもしれない。庶民あるいは生活の中に新しい趣向の美を見出すよりも、絵画的な美を描くことに重点を置いているような気がする。それはそれで、三行詩としては美しいのだが。
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芭蕉の俳句(148)

■旧暦7月16日、火曜日、

昨日、カイロを施術してもらいながら、担当のAくんから面白い話を聞いた。パソコン関連の痛みやしびれでカイロに通う人が大多数らしいのだが、その痛みの種類が今までにない不思議なものだと言う。たとえば、「どう痛みますか」と聞くと「パリパリ痛む」という表現や、「どこがしびれますか」という問いに、肩の上の空間を指したりするというのだ。パソコンは、新しい病気を作り出しているようなのだ。



水仙や白き障子のとも映り   (笈日記)

■この句には解釈が二つある。それは「とも映り」をどう理解するかによる。「や」で完全に切れていて、相照らしあっているには障子だとする楸邨の理解。「や」は意味的には「と」と同じで、水仙の白と障子の白が合い照らしあっているのだとする説(新編日本古典文学全集 小学館)。

ぼくは水仙と障子だと思う。障子同士が相照らしあっているという構図は、具体的に二重の障子の構造か、あるいは角の障子でもないかぎり、想像しにくい。障子と水仙が相照らしあっている方が無理なく景が浮かぶ。
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飴山實を読む(29)

■旧暦7月15日、月曜日、

風が吹いて涼しかった。2時まで昏々と眠る。午後から、カイロに出かける。体調は非常に良く、耳鳴りはゼロである。今後の問題は、台風の低気圧と句会の長丁場をクリアすることで、この二つが越えられれば、相当回復したと言えるだろう。これに向けて、調整したいと思っている。

日曜日に、サッチモとビリー・ホリデーの出演した映画「ニューオーリンズ」をDVDで家内と観る。舞台は1917年のニューオリンズ。家内は早口の英語が聴き取れたみたいで、冗談に笑っているが、ぼくの方は、さっぱりで、悔しかった。それはともかく、音楽にも黒人差別が反映されていて、興味深い内容だった。クラシック=白人音楽、ブルース・ジャズ=黒人音楽という構図になっていて、白人でも、ジャズの素晴らしさに気がついている人は、クラブに聴きに来るのだが、人目を偲んでこそこそ来て、知り合いに会うと口止めを頼むのだ。ぼくは、ジャズにそれほど詳しくないが、ビリー・ホリデーの歌とサッチモのトランペット・歌、そして、二人の演技は良かったなあ。演技というより、生き方、地そのまんま。



うぶすなは提灯だけの秋祭   『次の花』

■「うぶすな」(故郷)というのは、離れていると、実にいろいろな思いを抱かせる。これほど、両義的なものもないだろう。久しぶりに帰ると、ああ、帰ってきたなという感慨は、赤城の青い立ち姿であったり、利根川や渡良瀬の流れであったり、空っ風であったり、がらんとした駅の風情であったりする。祭も、ぼくの小さい頃は、楽しみの一つで、夏休みに入るとすぐにあった。風呂に入っている時間も惜しくて、そうそうに夜の町に飛び出して行ったものだった。親子で祭に行くのが、なぜか、気恥ずかしくて、いつも友達を誘って行ったっけ。この句、秋祭りは提灯だけというのである。今みたいにカラオケの騒音もないし、アフリカンドラムの演奏などというしゃれたイベントもない。ただ提灯だけが秋風に揺れている。あたりは、しーんと漆黒の闇。どこからか、祭囃子が風に乗って聞こえてくる。商店街の振興というより、実りの神に感謝する祭。こんな秋祭もいいですねえ。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(4)

■旧暦7月14日、日曜日、

たまっていた夕刊をまとめて読む。金子光晴の記事が目にとまり、詩集を出してきて、しばらく読む。





人を感動させるような作品を
忘れてもつくってはならない。
それは芸術家のすることではない。
少なくとも、すぐれた芸術家の。

すぐれた芸術家は、誰からも
はなもひっかけられず、はじめから
反古にひとしいものを書いて、
永恒に埋没されてゆく人である。

たった一つ俺の感動するのは、
その人達である。いい作品は、
国や、世紀の文化と関係がない。
つくる人達だけのものなのだ。

他人のまねをしても、盗んでも、
下手でも、上手でもかまわないが、
死んだあとで掘出され騒がれる
恥だから、そんなヘマだけはするな。


■偈(げ)とは仏教の真理を詩の形で述べたもの。うーん、なんだか、励まされるぞ。しかし、金子さん、社会的評価というのは両義的だと思うけどね。




verblüht neigen sich
Rosen, immer noch duftend,
dem Tisch entgegen


萎れた薔薇が
テーブルに首を垂れている
香は今もそのままに


■Balzerの三行詩にはいつも肯定的な契機があって気分がいい。この作品には、今までと違って、切れはない。人生幸福な人が肯定的な契機を持つのは、言ってみれば当たり前の話なのだが、俳句は、否定的な条件を背負わなければならない人が、世界を肯定的に感じる、あるいは、肯定的に笑える一瞬を与えてくれる。感じ方の違いや重大さの違いはあっても、不幸の要素のない幸福はないし、幸不幸の切れ目は、傍で見ているほど、はっきりしないことを思うと、俳句の偉大さがわかるような気がする。Balzerのこの三行詩、いいとは思うけれど、中村汀女のバラ散るや己がくづれし音の中には、太刀打ちできないだろう。
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RICHARD WRIGHTの俳句(27)

■日差しはきついが、風に湿気がなくなってきた。秋の風は軽い。

月曜日の内閣改造で、小泉が副総理で入閣という噂がある。マザコン安部晋三のことだから、やるかもしれない。実現すれば、ある程度、支持率は回復するだろう。いまだに純ちゃーんと言って、地方の演説会は盛況だったのだから。自民党の体質が素直に出たのが安部内閣(「そのまんま無能」ということですね)で、それを民意は明確に拒否した。けれど、小泉が返り咲くと、自民党の体質が、その変人ぶりで、見えにくくなる。最後の断末魔とは言え、衆議院選挙に少なからぬ影響が出るでしょう。



(Original Haiku)
Across the river
Huge dark sheets of cool spring rain
Falling on a town.


(Japanese version)
川を渡ると
あたり一面、黒々と冷たい春雨
街は雨である


(放哉の句)
傘にばりばり雨音さして逢ひに来た


■ライトの三行詩を訳していて気がついたことがある。ライトは暗く否定的なものに惹かれる。その意味では、俳句とは、本質的に異なる。差別との戦いに明け暮れた人生から見えた世界は暗く否定的だったのだろうか。嘆いたり、自己陶酔したりはしないが、言葉の選択に否定性が出てくる。最晩年の境地が三行詩に出ているとしたら、幸福とは言えないかもしれない。ライトは、小説が本領だから、時間を見つけて、小説の方も読んでみたいと考えている。

ライトの景は、大きいけれど、よくある話。放哉の句は、雨を詠んで人情を捉えている。男か女かわからないけれど、これから、愉快な、あるいは幸福な一時が始まる気配がある。こういう意匠は、そうはないと思う。
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