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一茶を読む:七番日記(51)


■旧暦4月29日、火曜日、

(写真)猫になつかれる

昨日の午後、詩人の清水昶氏が亡くなった。高血圧による心筋梗塞である。突然だった。享年71。深夜には、掲示板に書き込みをしている。突然で、言葉がない。しかし、あの声が耳に残っている。組織が馬鹿馬鹿しくなってやめた直後に、昶さんに出会って、テロリストに間違われたのが、そもそもの始まりだった。ずいぶん、いろいろ、話をした。ぼくには、全身が宿題みたいな人で、詩も俳句も、昶さんがいなければ、やっていなかったと思う。昶さんがいなくなって、宿題がいくつか残された。そして、声は、まだ、耳に残っている。

清水昶、最後の三句。


遠雷や町は地獄の一丁目


五月雨て昏れてゆくのか我が祖国


遠雷の轟く沖に貨物船


今日は、午後に、叔母の施設へ。80の叔母は元気である。食欲も旺盛。車いすと短期記憶障害を除けば...。




古郷や仏の皃のかたつむり
   文化十年六月

■かたつむりが、仏の顔に見えた、というのがやはり面白い。それで、故郷を実感している。故郷は、ことに、一茶には両義的であったろうに。山川草木悉皆成仏という言葉を思い出した。こういう疎外や物象化とは異なる次元の世界は、今では、見えにくくなっているが、意外に、われわれの中に強くあるような気もする。女の子たちがよく上げる「かわいい!」、「ちょーかわいい!」といった悲鳴は、これに近いのではなかろうか。establishmentになるほど、疎外や物象化に自己同一化し、差異に鈍感になるのではなかろうか。



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※昶さんは、母校、同志社が好きだった。ぼくも、この頃、この母校が好きである。



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一日一句(131)






五月闇聊斎志異を閉じてのち





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(2)


■旧暦4月28日、月曜日、

(写真)無題

いわゆる「コンピューター監視法案」が明日、法務委員会で採決される見込みなので、法務省のホームページで調べてみた。法案を細かく見ていないので、法律自体の問題点を指摘することはできないが、Q&Aが載っていたので、そこを読んでみた。この法律が、暴走しない論拠として、法務省が挙げているのが、「裁判官の発する令状」であるが、この令状は、どういう条件のときに発せられるのか、あるいは、発せられないのかが、よくわからない。審理するとも書かれているので、裁判官が共同で討議するようにも受け取れる。ここを公正性の根拠にするなら、そのメカニズムと発令の条件を明示したうえで、過去の具体的な事例を明らかにすべきではなかろうか。発令に特定の傾向性がないかどうかも知りたい。三権分立を盾に裁判官の判断根拠を不可視化するとすれば、原発問題で明らかになった、政・官・財・学・マスコミのような構造的腐敗が隠されていても(大いにあり得ると思う)、こちらからは見えないことになる。裁判官の独立を自明視しすぎている点が気になった。



9. Was wir "logischer Schluß" nennen, ist eine Transformation des Ausdrucks. Z.B. die Umrechnung von einem Maß auf ein anderes. Auf der einen Kante eines Maßstabes sind Zoll aufgetragen, auf der andern cm. Ich messe den Tisch in Zoll und gehe dann auf dem Maßstab zu cm über. - und freilich gibt es auch beim Übergang von einem Maß zum andern richtig und falsch; aber mit welcher Realität stimmt hier das Richtige überein? Wohl mit einer Abmachung, oder einem Gebruch, und etwa mit den praktischen Bedürfnissen. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 40-41 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

われわれが「論理的推論」と呼んでいるものは、表現の変換のことである。たとえば、ある単位を別の単位に換算することである。あるものさしが、一方の側はインチ目盛で、他方の側がセンチ目盛になっているとする。わたしが、机をインチで測り、次に、同じものさしで、センチに切り替えてみる。もちろん、目盛を替えるときにも、正しくできたりできなかったりはする。だが、このとき、どの実在に一致すれば、その変換は正しいのだろうか。きっと、一致するのは、約束あるいは使い方なのだ。そして、たぶん、実際の必要性なのである。

■実に衝撃的な断章。1+1=2は真理ではなく、表現の変換(eine Transformation des Ausdrucks)だということになる。しかも、変換の正しさは、外部の実在に一致することで保証されるのではなく、変換の約束あるいは変換の使用法に一致するかどうかで決まる。これをヴィトゲンシュタインは、実際の必要性との一致(mit den praktischen Bedürfnissen)と言っている。社会関係のアプリオリティを指摘しているものと思う。

ここで述べている論理的推論(logischer Schluß)は、実は、翻訳にこそ、もっとも当てはまる事態である。翻訳は、言葉の外部に何らかの実在があるわけではない。翻訳が難しいのは、1+1=2のように、変換規則が明示的でも固定的でもなく、(やや大げさに言えば)一回ごとに、規則を見つけなければならない点にある。その意味で、個性的な論理的推論である。



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一日一句(130)





荒梅雨やかけ蕎麦にふる柚一味





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Cioranを読む(51)


■旧暦4月27日、日曜日、

(写真)ある猫の後ろ姿

台風2号の大雨で引きこもり状態。掃除して、あとは、『近世数学史談』(高木貞治著)を読む。この中で、Gauss(1777-1855)は、数学の研究には、切り刻まれざる時間が必要だと述べている。1807年以降、Gaussのおかれた立場は、ゲッチンゲン大学教授兼天文台長。一見、恵まれた立場に見えるが、まとまった理論的な仕事をする時間が取れない生活だったらしい。天文台長と言っても、設備も、スタッフも、コンピューターもなく、観測から計算まで天文台長が一人でするのである。さらに、大学の講義がある。「虚空に漂う精霊の影を捉えようとして頭がいっぱいになっているさなかに、講義の時間が来る。飛び上がるようにして、まるで違った世界へ心を向け変えなければならない。その苦しさは言語に絶する」と述べている。しかも、薄給である。金にならない仕事を、家族や親類は理解しない。狂人だとまで言われる始末。Gaussが残した楕円関数の計算の中に、こんな走り書きが残されている。

Der Tod ist mir lieber als ein solches Leben. 「こんな生活なら死んだ方がましだ」 Gaussにしてこれか! と思う。

現代では、「切り刻まれざる時間」を確保するのは、特別な場合をのぞいて、ほとんど、不可能なんじゃないか。長い散文的な詩よりも、俳句の方が現代的だと、ぼくは思っているが、一つは、断片を表現しながら、全体に触れるからだし、断片的な時間を逆説的に活せる表現の一つとも思えるからだ。この意味で、CioranやWittgensteinの断章形式に、とても興味を惹かれる。



Le renoncement est la seule variété d'action qui ne soit pas avilissante. Cioran Aveux et Anathèmes p.44

断念も行為のうちだが、唯一、われわれの品性を卑しくしない行為である。

■石原吉郎の「断念」の思想を思い出させる。断念としたLe renoncementは、「禁欲」でもあり、「放棄」でもある。この逆は、どこか、「欲望」と関わる面がある。欲望は、行為や活動、労働と切り離せない。Le renoncementが品性を卑しくないのは、どこかに、宗教性を帯びるからだろう。宗教と労働、断念と欲望。面白いテーマだと思う。



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※京都が懐かしくなった。変わらない街で青春時代を過ごせたのは、幸運だったのかもしれない。
















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一日一句(129)





被曝してローズマリーの花を切る





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(1)


■旧暦4月26日、土曜日、

(写真)無題

今日は、とくに何もせず。昼過ぎに起きて、ベランダのローズマリーを剪定し、図書館で本とCDを借りて、喫茶店でシオランを読んだ。喫茶店の路地で、野良猫2匹としばらく遊ぶ。シオランが、しきりにバッハのカンタータを勧めるので、何枚かiPodに入れて聴いている。意外に、歩きながら聴くのに向いているように思う。



4. ...Das Zählen, und Rechnen, ist doch - z.B. - nicht einfach ein Zeitvertreib. Zählen (und das heißt: so zählen) ist eine Technik, die täglich in den mannigfachsten Verrichtungen unseres Lebens verwendet wird. Und darum lernen wir zählen, wie wir es lernen: mit endlosem Üben, mit erbarmungsloser Genauigkeit; darum wird unerbittlich darauf gedrungen, daß wir Alle auf 》eins《 》zwei《, auf 》zwei《 》drei《 sagen, usf. - 》Aber ist dieses Zählen also nur ein Gebrauch; entspricht dieser Folge nicht auch ein Wharheit?《 Die Wahrheit ist, daß das Zählen sich bewährt hat. - 》Willst du also sagen, daß >wahr-sein< heißt: brauchbar (oder nützlich) sein?《 - Nein; sondern, daß man von der natürlich Zahlenreihe - ebenso wie von unserer Sprache - nicht sagen kann, sie sei wahr, sondern: sie sei brauchbar und, vor allem, sie werde verwendet.</font>
Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp.37-38 Werkaufgabe Band 6 1984 Suhrkamp

...数えることや計算することは、たんなる気晴らしのようなものではない。数えること、つまり、このように数えることは、われわれの生活の多様な活動の中で毎日使われている技術である。そのため、際限なく練習して、無慈悲な厳格さで、現に数えているように数えることを学ぶのである。それで、われわれは、だれもが、「一つ」のあとに「二つ」、「二つ」のあとに「三つ」などと述べるように、強制されるのである。「だが、そうすると、この数えるというのは、ただの使用なのか。実際には、この順番に一つの真理が対応しているのではないか」その真理とは、数えることは有用だったということである。「それでは、<真理である>とは、使用できること(あるいは有用であること)だと言いたいのか」いや、違う。自然数列については、ちょうど、われわれの言語と同じように、真理ではなく、使用できるものであり、なによりも、使用されるものだ、ということを言いたいのである。

■自然数列は「真理」ではなく「使用できるもの」(有用なもの)、一つの日常生活上の技術に属するもの。ということであろう。1の後に2が来るのは、真理ではなく、生活上の技術的な有用性である。しかも、それは強制的に習得されるもの。では、1+1=2や2+1=3は真理ではないのか。これについて、ヴィトゲンシュタインは、「論理的必然性」や「論理的推論」と真理の関係を分析して、探求していく。実に興味深いが、次回。



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一日一句(128)





雨あがる柿の花なるひとしづく





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一茶を読む:七番日記(50)


■旧暦月25日、金曜日、

(写真)時と人

この頃、ブルーブラックをいろいろ試して楽しんでいる。ペリカーノジュニアを新たに入手し、ペリカンのブルーブラックを使い始めたのを皮切りに、クロス、パイロット、昔のモンブラン(ショパンやモーツァルトといった、今の奇妙な商品開発路線はなんだろう? そして、あの装飾過剰は?)と書く対象に応じて使い分けている。ぺリカーノは鉄ペンだが、なかなか、いい味を出してくれる。今のところ、パイロットのBのブルーブラックが書き味は一番いい。パイロットは、以前より、ブルーが濃くなったような気がする。



大の字に寝て涼しさよ寂しさよ   文化十年五月

■率直さに惹かれる。下五の「寂しさよ」は、何気ないが、凡庸な俳人には書けないと思う。うまく取り繕うのではなかろうか。



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一日一句(127)






雨ちかき新樹の森は葉のさわぎ





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