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原爆詩181人集(10)

旧暦6月22日、土曜日、

今日は、早くに目が覚めた。今日も暑くなりそうだ。



栗原貞子(1913-2005)、広島県生まれ、広島で被爆。

生ましめん哉

こわれたビルディングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
くらいローソク一本内地下室を
うずめていっぱいだった。
生臭い血の臭い、死臭、汗臭い人いきれ、うめき声。
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生れる」と云うのだ。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらいのくらがりの中でどうしたらいいのだろう。
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と云ったのは、さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄のそこで新しい生命は生れた。
かくてあかつきを待たずに産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめん哉
生ましめん哉
己が命捨つるとも


■この詩には、「原爆秘話」という詞書が記されている。この詩をはじめて読んだとき、二重の意味で衝撃的だった。一つは、こんな極限状況で、こんなことがあったのか、という驚き。ここには、あの安倍晋三の云う「美しい国」のありようが、端的に現れている。他者への繊細な配慮、自己犠牲、職業倫理といった今では半ば崩壊した美しい日本人たちが確かにいる。が、同時に、こうした「美しい国」が、国外で行った野蛮とのギャップがひどい。いったいこれはなんだろう。国家の行為と民衆の行為は次元が違うのだ、洗脳されていたのだ、情報統制があったのだ、特高などの監視システムがあったのだ、反対すれば命がなかったのだ、と言えば、わかったような気になる。だが、荷風などの日記文学が伝えているように、庶民が積極的に体制に協力した面もあったのではないか。「みんながそうだったのだから」というには、あまりにも「他者への想像力」が欠落している。むろん、ぼくだって、当時生きていれば、天皇陛下万歳! だったろう。批判する資格はないだろう。だが、この違和感は……。この詩は『マクベス』の魔女の言葉、「きれいはきたない、きたないはきれい」を極限的に考えさせてくれて衝撃的だった。

後年、栗原貞子は、次のような詩も書いている。

ヒロシマというとき

<ヒロシマ>というとき
<ああ ヒロシマ>と
やさしくこたえてくれるだろうか
<ヒロシマ>といえば<パールハーバー>
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といえば 女や子どもを
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが 返ってくるのだ

<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>とやさしくかえってくるためには
捨てたはずの武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ

<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と
やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない






■181人の中から、ほんの10人ほどの詩人を紹介しました。良い詩でも長いものは紹介しきれないものがありました。ご興味を持たれた方は、実際に手にとって読んでみてください。『原爆詩181人集』(コールサック社)
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