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そらトびタマシイ

水曜日、。旧暦、11月1日。日差しはあれど、寒かった。

パソコンをビックカメラで購入。一度、メーカーを絞って、デスクトップをくまなく試してみたが、どれも条件に合わない。たとえば、キーボードの感触やキーの高さと幅、液晶モニタの反射具合、反応性能、メモリとHDDの容量などが、セットで揃えるとどこかに不具合が出る。そこで、スペックと信頼性、保証期間、アフターサービスの観点から、パーツごとにばらばらに揃えることにした。17万で、かなりのスペックが揃った。ビッグカメラには、部品組立相談コーナーがあり、そうとう親切にセレクションに付き合ってくれた。



五十嵐大介のコミック『そらトびタマシイ』(講談社)を読んだ。優れたコミックは、現実異化効果があって、とてもいい気分転換になる。五十嵐大介には、期待している。だが、この作品集は、いまひとつだった。処女作はいろんな意味で、作者のポテンシャルが入っているので、まず、この作品集から読んでみる気になったのである。

絵は非常に上手い。少女マンガ系とも言えるようなタッチであるが、よく観ると、絵のダイナミズムは、やはり男性作者を感じさせる。ぼくが、いまひとつと感じたのは、幻想あるいは非現実的な物語に必然性が稀薄なところである。もう少し、言うと、現実から非現実につながるときのつなぎ目が、あまりにも自然すぎるのである。宙に浮いているのである。たとえば、諸星大二郎なら、そのつなぎ目が、論理や民俗学的な考え方で裏打ちされている。少々、その点で不自然でも、なるほど、こういう仮説を前提にしているかと、それはそれで、納得できる。しかし、五十嵐大介は、いきなり自然に髪に羽が生えてきたり、ごく自然に、犬と人の合体した少女が、そこにいるのだ。絵は上手だから、絵としてのインパクトはある。しかし、物語全体の構造に入り込めない。

それと、これは、なぜだか、上手く言えないのだが、このコミックには、暴力の匂いがある。これは、たとえば、「熊殺し神盗み太郎の涙」にあるような、人殺しや目玉を取り出す行為といった描写に暴力を感じるというよりも、もっと、違ったレベルにあるように思う。民話や神話にあるような無造作な暴力あるいは死の匂いが、このコミックの底流にはあるように感じるのである。このことの是非を述べたいのではなく、その底流の暴力的な何かが、民話や神話ほど、うまく昇華されてないように感じるのである。その結果、喉元に妙な不快感が残る。これは、暴力的なるものや死が「詩」になっていないためではないだろうか。別の作品も読むと、この辺りの違和感の正体がはっきりするかもしれない。

あとがきに、作者の食へのこだわりが見えて面白かった。週一回、その週分のパンは自分で焼いているらしい。

同じ作者の「魔女」も合わせて購入したので、タイミングを図って読んでみたいと思っている。



そらトびタマシイ (KCデラックス アフタヌーン)
クリエーター情報なし
講談社







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PC不調

金曜日、。旧暦、10月25日。

パソ不調のため、しばらく更新ができなくなるかもしれません。THINK PADもiMACも、ともに不調で困りました。

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翻訳された俳句(17)

土曜日、。冷たい冬の雨。旧暦、10月19日。



(原句)

蚤虱馬の尿する枕もと   (奥の細道)

(ドイツ語訳) ディートリッヒ・クルシェ訳

Floehe, Laeuse-
die Pferde pissen nahe
bei meinem Kissen.


(日本語訳)

蚤虱-
馬がわたしの枕もとで
ゆばりしている。

(英語訳) ドナルド・キーン訳

Plagued by fleas and lice,
I hear the horses staling
Right by my pillow.


(日本語訳)

蚤や虱に悩まされ、
枕もとでは
馬のゆばりする音が聞こえる

■原句の構造をまず、検討してみたい。「蚤虱馬の尿する枕もと」は、詠んでいる素材は、一つである。芭蕉が宿泊した封人(国境を守る人)の家の様子を「枕もと」に託して描写している。したがって、一物仕立ての句である。同時に、形式的には、「蚤虱/馬の尿する枕もと」で切れる。この切れは取り合わせの切れではなく、音楽の切れである。

クルシェのドイツ語訳を見ると、音楽の切れに忠実に訳出していることがわかる。「Floehe, Laeuse-」の「‐」にそれが現れている。一方、キーンの英語訳は、この句の伝えようとしている意味を忠実に訳出している。ある意味で、この句の解釈をそのまま英訳している。確かに、芭蕉は蚤虱に悩まされていた。「Plagued by fleas and lice,」そして、その家には、飼われている馬が同じ屋根の下にいて、ゆばりする音が聞こえてくる。「I hear the horses staling」(当時、奥州地方の農家では、母屋内に馬を飼っていて、人馬同居する風俗だった)

クルシェのドイツ訳は、近代の客観写生の俳句のように、物を物として突き放して訳している。キーンの英語訳は、解釈が入り説明臭くなっているが、句の根幹に横たわる「わたし(I)」の存在を浮き立たせている。キーンの方がクルシェよりも、欧米には、三行詩として受け入れやすいのではないか。ただ、俳句の特質をそのまま維持するとしたら、クルシェの訳も捨てがたい。「俳句の文法」が日本語の文法と密接に関係しているだけに難しい問題かもしれない。
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