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沖縄の笑い

■旧暦8月20日、、終日、家にいて、ぼーっとしていた。午後、昼寝。今日で9月も終わりか。

沖縄の「コント米軍基地」をテレビで観た。面白かった。なんと言うか、現実の多面性や矛盾、重層性みたいなものは、どこか、笑いの要素を持っている。それを拡大して、笑わせてくれる。題材は、沖縄の現実であるが、それが徐々に、日本の現実に重なり、最後は、笑いながら、凍りついていた! 「詩は(文学は、と言ってもいいかもしれない)まじめすぎてもいけない」という含蓄の深い言葉がある。まじめであることは、ある意味、人間が一面的になることだから、矛盾に満ちた現実の姿をつかみきれない。沖縄の米軍基地に反対しているその人が、基地で開かれる祭を楽しみにしているなどといったことはなんぼでもある。基地移転に反対しながら、子どもの職や金のために、受け入れに賛成の気持ちもある。基地に反対する「人間の輪」に参加するウチナンチューが年々減っていく。こうした矛盾を否定せず、コントにしてしまう。笑いながら凍りつく。そして、もう少し深く考えるようになる。笑いの有効性を強く感じた夜だった。

写真は、名護市内で見た共産党の基地反対の立て看板。

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ドイツ語の俳人たち:Martin Baumann(1)

■旧暦8月19日、土曜日、

奇妙な夢を見た。多元的な世界を生きている夢で、IDとパスワードで、世界の間を行き来している。ある世界から別の世界に行くと、元の世界では、もう己はいないのが当然の世界になり、そのまま、その世界は継続する。別の世界から、パスワードがどうしても合わずに、元の世界に戻れなくなり、喩えようのない孤独を感じた。

Delfini Workshopの英語版(Delfini Workshop in English)を開設した。当面、リチャード・ライトの俳句と芝不器男の俳句の検討、それと、社会的な問題にコメントをつけるなどしてみたい。このサイトの目的は英語圏の人と対話してみることである。英語を書くのに慣れていないので、果たして正しく伝わるかどうか、わからないが、まあ、やってみることにした。




die morgensonne
von ihrem glanz verzaubert
steht der eichenstamm



朝日は
その輝きで魅了する

オークの幹


■凡庸な作品。切れがあるところが良い点だが、情景は平凡。最後の動詞「steht」は不必要だと思う。

Das ist ein gewöhnliches Werk. Es ist gut zu setzen Pause zwischen "verzaubert" und "steht". Aber die Szene des Werks ist alltäglich. Und Ich denke, "steht" ist die unnötige Erlärung.
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RICHARD WRIGHTの俳句(37)

■旧暦8月18日、金曜日、秋暑し

今日は、午前中、雑用、午後、東京医科歯科大病院。その後、画家の落合皎児さんと詩人の杉本真維子さんの詩画展に行く。落合先生がいらしたので、ちょっと話をした。杉本さんの詩は、まったくわからないと先生はおっしゃるが、面白いことに、わからないながら、杉本さんに言わせると、絵と不思議に符合するのだという。それは、フランス人の詩人とのコラボでも、言えるという。絵画の懐の深さというか、不思議さというか。落合先生の絵は、たとえば、画像のような感じである。実にセンスがよく瀟洒な作品が多かった。

詩や俳句の翻訳の話に、少しなって、面白いことを言われた。スペインに留学していた先生は、それまで、スペイン文学を日本語の翻訳で読んで、自分なりのイメージを持っていたという。それが、スペインに行って、向こうの人と話をすると、自分のイメージと違うというのだ。言葉を訳すとき、翻訳者は、複数ある意味やイメージの中から、コンテキストに沿って、たいてい、一つ選択する(もちろん、一つの原語に一つの日本語ということではない。複数の日本語かもしれないし、複数の原語が一つの日本に置き換わるかもしれない)。その一つは、その時代の日本語としてベストワンであることをめざす。そうして原作者の世界をベストな日本語で再構築するのだが、再構築された世界は、もともとの世界よりも広がりに欠けることがある。それは、もともとの言葉の語源的な味わいや風味、趣、イメージの重層性まで、再構成できないことがあるからだ。つまり、論理は再構築できても、意味以外の何かは、再現することがかなり難しい。これが、詩や俳句の翻訳の不可能性/可能性という問題になるのだろう。けれど、翻訳文学という一つのジャンルがあっていいと思うし、原書で読む楽しみがあっても、また、いいと思う。



(Original Haiku)
Past the window pane
A solitary snowflake
Spins furiously.


(Japanese version)
窓ガラス
一片の雪が
舞い狂う

(放哉)
飛び込んで犬雪振ふ暖炉哉


■桜が散る様子が浮かんだ。「spins furiously(舞い狂う)」という表現は、たぶん詩的なもので、俳句ではあまりないように感じた。基本的に、存在を肯定するのが俳句だから。放哉の句、有季定型から選んでみた。よくある場面だが、まさに、こうとしか言いようがないようなピタッとはまった表現だと思う。
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飴山實を読む(34)

■旧暦8月17日、木曜日、、今日は満月である。昼間は雲が多かったが、夜になって、雲が切れて、満月をみることができた。昨日と今日と夕食当番になって、結構、忙しかった。料理の評判は良し。




郵便車ゆさゆさ萩をこぼしけり


■両側に萩の咲く細い田舎道を行く郵便車が浮かんできた。「ゆさゆさ」は萩が揺れるさまであるが、同時に、郵便車が舗装されていない道を行く様子でもあるように思える。このくらいの時代が幸せなんじゃないだろうか、人間が生きてゆくには。近代も後期に入るとみんな狂ってくる。

Everything is connected when it comes to world globalization.

ある社会学者の言葉である。写真は、那覇の街角に立つ郵便ポスト。
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芭蕉の俳句(152)

■旧暦8月16日、、夕方、空の一部に鱗雲が見えた。昨日の十五夜は、空の青と雲の白がはっきり見えてきれいだった。今日は雲で月が見えない。




魚鳥の心は知らず年忘れ
   (流川集)

■元禄4年作。魚や鳥の心に想像をめぐらせて、人間世界と対比している発想に惹かれた。魚や鳥には「絶望」という心はないだろう。それとセットになる「希望」もまた。般若心経を読むと、大乗仏教の教えは、魚や鳥の心になる教えという気もする。


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琉球と沖縄:沖縄の文学(8)

写真は、首里城から南につづく石畳の一コマ。かなり長い距離、この石畳は続いていて、途中に県立芸術大学がある。この辺りは、まったく人気がない。猫の鳴声がやけに耳についた。石塀にいた蝸牛は、ヤドカリみたいな貝殻をしていた。少し下ると、右手に寒緋桜の並木がある。沖縄で「桜」と言えば、この花を指し1月から2月頃に咲く。北の地域から順次咲き始めるという。




首里秋風坂だんだらの石畳
若夏の満月を上げ椰子の闇
珊瑚咲く海へ染まりに島の蝶
泡盛にハブを仕込めば今日も雷
花梯梧星を殖やして夜も炎ゆる


小熊一人(1929-1988)千葉県生まれ。1975年から3年間、沖縄気象台に勤務。亜熱帯沖縄の季語の発掘に努め、1979年『沖縄俳句歳時記』を編んだ。

■「若夏(わかなち)」は沖縄独自の季語で、初夏の頃を言う。「花梯梧(はなでいご)」も沖縄の夏の季語だろう。それ以外は、本土の季語を踏襲している。沖縄を詠むとき、季語をどうするかが、一つの問題になるだろう。沢木欣一のように、本土の季語だけで押し通す方法もあると思うが、その土地独自の季節を表す言葉を使うことは、その土地への親密な挨拶になるのではないか。この5句、どれも趣深い。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(13)

■旧暦8月14日、月曜日、風が冷たい。

大学は、三連休で月曜日が休みになることが多くなったので、そういう場合の月曜日は授業を行うのだと言って、子どもが朝早くから多摩まで出かけていった。足を怪我しているので、心配なんであるが。

昨日は、ゴーヤの天ぷらを早速作ってみた。かなり評判良し。ゴーヤの種をスプーンでくりぬいて、薄く輪切りにスライスして、塩もみして15分放置。その後、水洗いしてから水にさらして15分放置。これで、灰汁が抜けるので、後は、天ぷらにするだけ。一つか二つしか食べられないのではないかと危惧したのであるが、いかんせん、いくらでも喰えるではないか。今日の朝まで食べていた。苦味がほどよく、黒ビールなどに合う。簡単なので、一度試されたい。ただし、ゴーヤは活きのいいのに限ります。それと、ゴーヤは揚げすぎないことがポイント。昨日は、十分揚げないと、苦いのではないかと慎重になったが、もともと生でも食せる食材なのであった。ころもが白いくらいでちょうどいい。




der kleine Altar
mit Teelichtern zugestellt
an Heiligabend




小さな聖壇を
隠すようにローソクが立っている
クリスマスイヴ


Teelichtは、アルミニウム製のカップに入った、煤の出ない小さなローソク。大きいのかと思ったら、かなり小さいようだ。そんな小さなローソクを何本か置いたら、見えなくなってしまう聖壇なのだから、相当小さなものなんだろう。どんな聖壇だったのか、見てみたい気がする。かわいらしい情景が浮かぶ。

Ein Teelicht ist eine kleine, nichtrußende Kerze in einem Becher aus Aluminiumfolie. Ich hielt die Teelichter zuerst für große Kerzen, weil diese einen Altar zustellen können. Aber der Altar ist zu klein. Ich möchte ansehen, was der ist. Es muß der liebliche Anblick sein.
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琉球と沖縄:沖縄の文学(7)

那覇はほとんど東京の新大久保あたりの風景と変わらない(写真)。家賃も都心とそう変わらないようだ。中部のナカグズクあたりになると、月3万から4万でマンションが借りられるらしいが、いかんせん、仕事がない。那覇の町を歩いていて、目立ったのは、「若者に仕事を!」という共産党の立て看板とホームレスだった。国際通りをちょっと外れると、木陰でうずくまって熱心に古新聞に見入る老婆がいたり、国際通りを行き来しながらコンビニのゴミ箱を漁る若いホームレスがいたりする。沖縄は離婚率が高い。経済的な理由から、夫の方が家庭を放棄してしまうことが多いらしい。唯一の産業が観光業・不動産業だが、それも、本土の資本がなだれ込んでいる。こんな豊かな島が近代という枠組みに組み込まれたとたん「辺境」に追いやられてしまうのは、何かがおかしいのだ。




屋根獅子の阿の牙くぐる初雀
戦跡の岩つたひゆく揚羽蝶
風灼けて蒲葵のたかぶる神の島
右左基地の灯の占め甘蔗積む
冬ぬくし赤土に変わる犬の糞


瀬底月城(1921~)(ただし情報は1992年時点)佐敷町生まれ。1969-75年まで「タイムス俳壇」の選者。「俳句は万象に愛を注ぎ愛を受けるにある」と考え、伝統俳句の立場から活躍。句集『若夏』

■琉球王国からの文化に誇りを持ちながらも、たいていの俳人は、基地と戦争という現実から目を逸らさない。それだけ、この問題は沖縄の俳人にとって切実なんだろう。今回の旅では、現代史に関わるスポットはすべてカットした。まだ、自分には、準備が出来ていないと考えたからだ。那覇でたまたま拾ったタクシーの女性ドライバーが、「沖縄の歴史を知るには首里城を、沖縄の心を知るには、ひめゆりの塔と平和祈念館を見て欲しい」と言っていたのが忘れられない。その女性ドライバーは、「日本では」という言葉の使い方をしていた。裏を返せば、自分たちは日本人ではない、琉球人であるというアイデンティティの宣言だろう。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(12)

■旧暦8月12日、土曜日、蒸し暑くて参る。

午前中、雑用、午後は、家人に付き添って病院の検査。待ち時間にバルツァーを翻訳する。今日は、夕方からI先生の講座があるんだが、仕事が遅れているためやむなく断念。




der Blick verliert sich
nicht die Spur eines Weges
Schnee-flächendeckend



見失ったのは
道行ではない
雪 一面の


■詩的で優れた作品だと思う。雪のありようが説明抜きで一挙に眼前に浮かんでくる。雪の前の「切れ」が効果的。

Ich denke, dieses ist eines poetische und vorzügliche Werk. Der Schnee steht mir vor Augen im eiem Zug ohne die Erklärung. "Kire"(das Schneidende oder die Pause) vor "Schnee" funktioniert wirksam.

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琉球と沖縄:沖縄の文学(6)

琉球舞踊は、衣装がカラフルだが、動きは、能によく似ている。五穀豊穣を祈願する舞(写真)が中でも印象に残った。この舞は、宮廷で行われたもののようで、首里城の一画で、毎日上演されている。踊りということでは、島唄の演奏に合わせて踊ることも多いようだ。このとき、男女の踊りのスタイルは若干異なる。男は握りこぶしの両腕を上に上げて、足でリズムを取りながら、両手をゆっくり左右に動かすのだが、女性の場合は、握りこぶしではなく、手を開いて行う。




蛍火や首里王城は滅びたる
白南風の崖吹き上ぐる万座毛
炎帝の入りて孕みし墓の腹
釜出しの地熱を奪ふ白雨かな
夕月夜乙女(みやらび)の歯の波寄する


沢木欣一(1919-2001)富山県生まれ。沖縄の名所、行事、風物などを詠った句集『沖縄吟遊集』を発刊し、県外の人による沖縄詠俳句の先駆的役割を果たした。俳句は、即物、即興、対話の三要素の連繋する接点にあると論じ、日本人の失われた故郷の回復を志向した。俳誌『風』主宰。

■『沖縄吟遊集』は、旅の前に読んだが、今ひとつ、心に入ってこなかった。今回、沖縄を旅して、もう一度、読んでみると、詠まれた対象が具体的にイメージできる。漢字が多くて、全体に硬い感じを受けるが、沖縄県外の人間が沖縄を詠むときの一つのモデルになるような気がする。
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