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フランス語になった俳人たち(9)

■旧暦5月8日、日曜日、

(写真)雨の夏草

熱は下がった。おなかはこわすし、喉は痛いし、熱はあるしで、発熱外来行きかと思っていたが、良かった。過労と風邪だろう。今日は、おとなしくしていた。寝ていてやることもないので、フランス語を検討してみた。しかし、思うのは、いい仕事をしようとするなら、仕事だけしていればいいわけじゃなく、仕事のベースになる心身の健康を維持することが重要だね。ま、当たり前か。


うき我をさびしがらせよかんこどり
  芭蕉「嵯峨日記」


Ah coucou!
agrandis encore
ma solitude!


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002


閑古鳥
わが孤独を
さらに深めよ


■これは、フランス語から原句が比較的すぐ浮かんできた。ただ、「うき我」と「わが孤独」では、フレーズの力点が異なる(我という「実体」と孤独という「状態」)のと、「憂し」と「solitude」とでは、意味範囲が少し異なるように思う。「憂し」は自分の辛い気持で、マイナスの言葉であるが、「solitude」の評価は文脈に依存するのではなかろうか。つまり、独りで充足している状態も表わせるのではなかろうか。英語のaloneと同じように、場所に人気がないとき、つまり静寂を表わすときにも用いるとロベールにはある。ちなみに、フランス語のsolitudeに相当する英語のsolitudeは、COUBUID ENGLISH DICTIONARYでは、次のように完全に肯定的に定義されていて興味深い。

Solitude is the state of being alone, especially when this is peaceful and pleasant.

この場合、文脈に依存すると言えば、フランス語の動詞、agrandirが問題になるが、agrandirには、肯定的な意味もある。というよりも、肯定的なニュアンスが普通かもしれない。力強くする、高める、気高くする、拡大・拡張する、など。だが、問題は、agrandis encore ma solitude! と言ったときのコロケーションの持つニュアンスだろう。ぼくの勘では、否定的な響きを持つような気がする。

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フランス語の俳人たち:Bill Bilquin(5)

■旧暦5月7日、土曜日、

(写真)雨の新緑

午前中、床屋と歯医者。昨日から体調が悪く喉が痛い。夕方、発熱。今日は、何もせず静かに過ごす。




phare dans la nuit
le lapin blanc se répand
sang couleur carotte


夜の灯台
白うさぎが
人参色の血を流している


■phare dans la nuit(夜の灯台)の光で、これだけ鮮やかに見えるのかどうか、疑問に思った。昼の方がいいのではないか。白昼と言わずに他の言葉でそれも含むような表現で。代名動詞という概念は、初めてだったが、ドイツ語の再帰代名詞の使い方と基本的には同じだろう。ただ、répandreは、もともと、他動詞であるから、わざわざ、seという間接目的語を入れなくても、「血を流す」と言えると思うが、この二つの違いはなんだろうか。シラブルを7に整えるためだろうか。
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フランス語になった俳人たち(8)

■旧暦5月6日、金曜日、、鑑真忌(旧暦)

(写真)窓の青い花

朝から、雨で、しかも寒い。午前中に、訪問マッサージ・リハビリの打ち合わせ。先日、久しぶりの人の懐かしい声を聞いた。声というのは不思議なもので、何十年経っても変わらない。その人らしさの一つを構成している。声が運んでくるその人のイメージ。だが、会えば、時の流れを知ることになる。それが自分に訪れたことも。




ほとゝぎす消え行く方や嶋一つ
  芭蕉 笈の小文(須磨)

Où le coucou
disparaî―
une île

※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002


ほととぎす/郭公の
消えたところ



■これは、構造的にはほとんど問題がない翻訳じゃないだろうか。ぼくがひっかかったのは、le coucou(郭公)というフランス語で、笈の小文でも郭公と表記して「ほととぎす」と読ませている。ほととぎすと郭公を分けなかったとも考えられるが、郭公は閑古鳥として認識されていた。この俳句は、飛びながら鳴いているので(ほととぎすの姿とその鳴き声を分離して認識していたとは考えにくい。ほととぎすと言えば、その鳴き声を愛でたからである)、ほととぎすのことだと思う。郭公は木に止まって鳴くのではないだろうか。郭公と表記して「ほととぎす」と認識していた、ということかもしれない。したがって、フランス語は、le coucouよりも、……と思って調べてみたら、ロベールにはun coucouはほととぎす科の総称とある。だから、これで間違いじゃないのだろうが、鳴き声が違うので、違和感は残る。ちなみに、ネットのオンライン翻訳で調べると、ほととぎすは、un coucou du grayheadedという英語の入り混じった言葉が出てくる。声じゃなく、頭の色で識別しているらしい。


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フランス語の俳人たち:Bill Bilquin(4)

■旧暦5月5日、木曜日、、旧暦の端午

(写真)夏草

500円~1,000円程度のDVDを集めるのが趣味になって困ったもんだ。どんどんたまって、一向に観られない。今日は降ったり止んだり。午前中、どうもやる気が起きず。午後、叔母を病院へ。夕方、O君に会う。夕食をちょこっと手伝う。明日は早いので、さっさと寝る。




parfums calcinés
je ne vois plus les corneilles
champ en jachère


焼けたいい匂い
もう鴉を見ない
休耕地


■parfums(匂い)が複数になっているところが面白い。これで、匂いが辺りに広がっている様子が窺われる。何の匂いだろうか。



寝る前に、ロラン・バルトの『表徴の帝国』(宗左近訳 ちくま学芸文庫 1996)を読んでいるんだが、俳句について、なかなか、面白い指摘をしている。たとえば、


廃絶されているものは意味ではない。因果律という観念のいっさいである。(中略)俳句は(もっとも現代的でもっとも社会化した日本の生活を特徴づけている無数の図形的なしぐさと同じく)≪書くためにこそ≫書かれたものなのではないだろうか。
『同書』p.133
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一茶を読む:七番日記(8)

■旧暦5月4日、水曜日、

(写真)the most famous man in Asagaya

ヴァレリー・アファナシエフ詩集『乾いた沈黙/Dry Silence Valery Afanassiev Collected Poems』(尾内達也訳 論創社 2,500円)が6月10日から店頭販売開始されます。この詩集は、表表紙から開くと日本語版、裏表紙から開くと英語版の構成になっており、間に短い日本語のエッセイを入れています。この本の発売に関連して、アファナシエフの詩の朗読会が6月12日金曜日に開催されます。場所は朝日カルチャーセンター湘南教室、時間は午後1時から2時半まで。最初にアファナシエフの英詩の朗読、続いて、小生の日本語版の詩の朗読、その後に、参加者を交えて詩について議論、という形で進行します。通訳付き。チケットはこちらに直接申し込んでください。定価3885円。まだ、席は余裕があるようです。



うつくしき艸のはづれのう舟哉

■「うつくしき」はなかなか使うのが難しい言葉で、先日のA句会でも、議論になった。この場合、さまざま草はある中で、「うつくしき草」と言っているので、的確に使われているものと思う。たとえば、小生の遊ぶ子の声美しき卯浪かなという句では、遊んでいる子どもの声は美しい、と言っている。遊んでいる子どもの声が美しいのは、当然と感じるか、いや、遊んでいる子ども声ほどこの世で美しいものはないのだと、見るかで、意見が分かれる。また、後者の意見を取るとしても、卯浪の音がメインなのか、子どもの声がメインなのか、テーマが絞り込めないという点が問題になってくる。
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一茶を読む:七番日記(7)

(写真)阿佐ヶ谷のガード下

■暑かった。諸々、動きだしたな。仕事の体制が徐々に固まってきた。夏はどこか、旅に出たいなあ、ぼーっとしに。芦屋の虚子記念文学館から虚子編の歳時記を取り寄せる。新型インフルエンザに罹って監禁された担当者が、見事! 生還して送ってくれたのである。しかし、昨日のD屋の初鰹の刺身は旨かったが、鎌倉産だろうか。もう鎌倉では鰹漁はしていないか。鰹は生姜醤油に限ると思ってきたが、大蒜もなかなかこくが出ていけた。月に一回打ち合わせに行くかね。ワッフルも旨いし。

鎌倉を生て出けむ初鰹   芭蕉



斯う居るも皆がい骨ぞ夕涼

■この覚めたまなざしには、凄味を感じる。これを言っちゃあおしまいよ、という気もするが、一茶には、風流を破壊する衝動を感じことがある。この衝動はどこから来ているのだろうか。現代俳人たちが一茶に注目したのも、このあたりに関係があるような気がする。

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フランス語の俳人たち:Bill Bilquin(2)(3)

■旧暦5月3日、火曜日、

(写真)杉並区役所の緑のカーテン

昨日は、F巻さんのところへ打ち合わせに行く。その後、D屋で飲む。初カツオの刺身が旨かった。最後に駅前の喫茶店でワッフルを食す。これも美味かった。酔っ払って深夜帰宅。今朝は、風が涼しい。晴れである。洗濯物がよく乾くだろう。さて、珈琲でも飲むか。




la mer est basse
un crabe essaie d'attraper
des éclats de lune


海音低し
蟹は
月のかけらを挟まんと


■éclatsをどう考えるかで迷った。éclatはfragmentとbrightnessの意味があるが、複数になっているので、fragmentと考えた。比喩だろう。詩的な俳句だと思う。


mouche amourese
d'une plante carnivore
l'amour fait mal


食虫植物に
恋した蠅
愛は禍


■さして感心しないが、l'amour fait mal(愛は禍)は印象的。ある意味で、愛には、こういう側面はあるのだろう。一種の狂気のような。
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フランス語の俳人たち:Bill Bilquin(1)

■旧暦5月1日、日曜日、新月

(写真)"O where are you going?" said reader to rider, W.H.Auden

終日、仕事。折鶴蘭の植え替えの土を購う。湿気が苦手で、とたんに調子が悪くなる。夜半雷。突然食べたくなって、夕食に夏野菜カレーを作る。かなり評判良し。

先日、訪問介護の合意書を医師に頼んでおいたのだが、当病院では書けない、という一方的な電話があった。なんの理由の説明もなくである。上目線で患者に接するんじゃなく、担当医にきちんと説明させなさい、と言うと、医者から電話はできないが、おそらく、西洋医学では、マッサージなどを嫌うからのようだ。こういうことは過去かなりあったという。指圧は中国発祥だが、マッサージは西欧が発祥地である。しかも、面白いのは、土曜日のK医師なら、書いてくれる可能性があるという。これには、笑った、病院として統一性がないばかりか、ある種の科学主義、言いかえれば、単純な西欧バカからだ。そこで、土曜日に行くと、簡単に書いてくれたではないか。なんだこりゃ。




de son nénuphar
la grenouille saute gaiement
dans un gros nuage



睡蓮から
勢いよく蛙が飛び込む
大きな雲の中へ


■極楽に住む蛙のごとし。ビル・ビルカンは1971年、ベルギーのブリュッセル生まれ。


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蕪村の俳句(23)

■旧暦4月29日、土曜日、

(写真)初夏の花(シャガ)

6時起床。夏の早起きは気持ちがいい。朝、散歩。いつもの喫茶店で芭蕉七部集を読む。クリーニングを取って帰宅。さて、今日も仕事か。




ゆきたけを聞で流人の袷哉
  「落日庵」(明和六年)

■一茶と類似のまなざしを感じた。おかしみと哀しみが同居していて惹かれた。
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飴山實を読む(109)

■旧暦4月28日、金曜日、、強風で物干し竿が二度落ちる。

(写真)初夏の花々

5時起床。早起きである。雑用。ブログ、英語版を更新。コンビニ版『鎌倉ものがたり』を読む。バカバカしいが不思議に癒される。終日、仕事に明け暮れた。Mojaのブログを2つリンク。本ブログのブックマーク参照。彼のブログに貼ってあるYouTubeは笑える。photoblogは写真好きにはとくにお勧め。




奥山の風はさくらの声ならむ
  「花浴び」

■吉野のようなところだろうか。ぼくは、一度、深い谷に沿って桜が咲いているのを見たことがある。そんなことも思い出した。
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