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宗祇の墓:早雲寺(箱根)2


■もう10月も中旬なのに、宗祇の墓には、墓守のように、藪蚊の大群がいて、閉口した。その蚊に食われながら、供養塔の前に建てられた札に書かれたことをメモしてきた。

連歌師宗祇の墓

連歌師飯尾宗祇は文亀元年(1501)2月、越後の上杉氏の許を発ち、弟子の宗長・宗碩らと関東各地で連句を催しながら、駿河・美濃うに向う旅の途上、翌文禄2年7月30日、箱根湯本で客死した(享年82)。弟子たちは、宗祇の遺骨を担いで箱根山を越え、富士山の裾野、桃園の定輪寺に埋葬した(宗長「宗祇終焉記」)。早雲寺の宗祇の墓は、終焉の地に建てられた供養塔である。

江戸時代に入ると、多くの俳人や旅人が宗祇を偲んで、早雲寺を訪れ、連句や画像を奉納するようになった。蕉門の服部嵐雪は元禄12年(1699)、宗祇墓前で「石塔を撫でてやはすむ一葉かな」の句を詠み、幕府歌学方の北村季吟は同14年、宗祇二百回忌の連吟を早雲寺に奉納している。

稲津祇空は、紀伊国屋文左衛門の手代をしていた頃、蕉門の榎本其角から俳句を学び、正徳4年(1714)、住職柏州和尚を戒師として宗祇墓前で剃髪出家して祇空と号し、江戸浅草を中心に活躍したのち、享保16年(1731)、再び、早雲寺を訪れ、境内に石霜庵なる草庵を結んで、宗祇の墓守として晩年を送った。同18年4月23日没(享年70)。

飯尾宗祇(1421-1502)

室町時代の代表的な連歌師、近江湖東または紀伊有田出身。連歌を心敬・専順に学び、一条兼良・東常緑から古今伝授を受ける。自然斎・種玉庵を号し、「水瀬三吟百韻」「指南抄」「竹林抄」などの多数の独吟、連吟、著作を残した。勅撰「新撰兎玖波集」の撰者でもあった。三條西実隆などの貴族、周防大内氏、越後上杉氏、武蔵太田氏などの多くの大名、武将を指南し、柴屋軒宗長をはじめ多くのすぐれた弟子を輩出した。西行、芭蕉と並んで日本を代表する「漂泊の詩人」の一人である。

■宗祇については、ほとんど、知らなかったが、今度の旅で、芭蕉に連なる重要な連歌師として、認識を新たにした。資料もいくつか入手してきたので、ぼちぼち、宗祇の連歌も検討してみたいと思っている。



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宗祇の墓:早雲寺(箱根)1


■旧暦9月1日、月曜日、、新嘗祭

昨日、今日と、箱根町の早雲寺にある宗祇の墓参りに行ってきた。正確には、宗祇の供養塔で、実際の墓は、富士の裾野の定輪寺にあるのだが、江戸時代から、多くの俳諧師が、宗祇を慕って、供養塔のある早雲寺を訪れている。



宗祇の供養塔。斜め右から。



宗祇の供養塔、正面。



祇空の墓。



北条氏五代の墓。



早雲寺境内。



同上。



同上。



同上。



境内にある宗祇の「世にふるもさらに時雨の宿りかな」の句碑。



苔むした早雲寺境内。



宗祇の供養塔への階段。


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双ヶ岡の長泉寺に兼好を訪ねる


■旧暦9月1日、火曜日、、寒いくらいの朝、新月

(写真)双ヶ岡の空

双ヶ岡は、学生の頃から、よく登ったもので、仁和寺や妙心寺が見晴らせる。人もほとんど来ないので、好きな場所の一つである。ここが吉田兼好が庵を結んだ地だと初めて知ったのは、三里塚闘争に参加して神経を病んだ中核派の元闘士からだった。取合せの意外さに、いつまでも記憶に残り、人づてに、その人が、西行や兼好、芭蕉などの古典文学を深く愛好していたことを知った。双ヶ岡は、古代の古墳で、3つの丘からなっている。仁和寺方面から登ると、森を抜けて、突然丸く光が差し込む二の丘の頂上に出る。



歩道には、「イノシシ注意」のステッカーが。シダ類が凄かった。



突然の青い空



御室仁和寺を眺める





双ヶ岡周辺は、竹林また竹林。ある種の結界だろうか。そう言えば、内裏には松林があった。これは、完全に結界だろうと思う。



付近の中学生があどけない。



兼好の墓を探して長泉寺へ。



長泉寺境内の老松



兼好の庵跡の石碑。長泉寺の墓所の中。



兼好の墓所を示す塚と石碑。


実は、この長泉寺は、元禄時代に建立されたものらしい。兼好は鎌倉末期の人なので、当時の墓は残っていない。この辺りにあったであろうという塚らしい。兼好の庵が、麓の長泉寺付近にあったようなのである。ぼくは、てっきり、仁和寺などを眺めながら、山中で庵を結んでいた「本物の世捨て人」を想像していたが、仁和寺にほど近い丘の麓に住んだ「精神的な世捨て人」というのが実体に近かったのではあるまいか。兼好は、仁和寺とゆかりの深い人だったので、宗派的には、真言宗になる(元をただせば神道だろうけれど)。徒然草を読むと、法然に深い敬愛の念を抱いていたことがわかるが、浄土宗の長泉寺は、兼好存命中には、存在しなかったことになる。石碑には、「ちぎりをく 花とならびの をかのへに あはれいくよの 春をすぐさん」という兼好の歌が彫ってある。






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金福寺(蕪村の墓と芭蕉庵)


■旧暦8月29日、月曜日、、彼岸明け

(写真)蕪村の墓(金福寺)

蕪村の墓のある金福寺は、左京区の一乗寺下り松町にある。もとは、天台宗の寺であったが、のち、一時荒廃し、江戸時代中期、鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺として、今日に至る。蕪村は、仏光寺の立て札からもうかがわれるように、浄土宗との関わりが深い生まれであるが、ここ金福寺に芭蕉庵を再興してから、次のような句を詠んで、金福寺の芭蕉碑の近くに埋葬を希望している。

我も死して碑に辺せむ枯尾花


蕪村の芭蕉への敬慕の念がいかに強かったか、よくわかる句である。



この芭蕉の肖像画は、蕪村筆によるもの。ときに蕪村、64歳。この肖像画の上部には、芭蕉を賞賛した清田儋叟の撰文と芭蕉の句の中で蕪村がもっとも好んだものを蕪村自身が書いている。それは次のような句である。

こもを着て誰人います花の春

花にうき世我酒白く飯黒し

ふる池やかはず飛びこむ水の音

ゆく春や鳥啼魚の目はなみだ

おもしろふてやがてかなしきうぶねかな

いでや我よききぬ着たり蝉衣

子ども等よ昼がをさきぬ瓜むかん

夏ごろもいまだ虱とり尽さず

名月や池をめぐりてよもすがら

ばせを野分して盥に雨をきく夜かな

あかあかと日はつれなくも秋の風

いな妻や闇のかたゆく五位の声

櫓聲波を打て腸氷る夜や泪

世にふるもさらに宗祇の時雨かな

年の暮線香買に出でばやな


蕪村の芭蕉選句というのは、なかなか、興味深いが、軽みの感じられる句ばかりでなく、存在の深みや哀しみに触れている句を多く採っている点が、注目される。

ちなみに、蕪村が金福寺で詠んだ句に次がある

畑打つや動かぬ雲もなくなりぬ

夏山や通ひなれにし若狭人

三度啼いて聞えずなりぬ鹿の声

冬近し時雨の雲もここよりぞ




再興された芭蕉庵 元禄の頃、芭蕉は、京都の東西を吟行した折り、当時の草庵で自適していた住職鉄舟和尚を訪れ風雅の道について語りあい親交を深めた。その後、それまで無名であった庵を鉄舟和尚が「芭蕉庵」と名づけ、芭蕉の高風を偲んだ。その後、70年ほどして、蕪村が当寺を訪れた頃には、すでに庵は荒廃していた。しかし、村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永五年、庵を再興し、天明元年、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、当寺に収めた。その庵が落成したときに蕪村は次の句を詠んでいる。

耳目肺腸ここに玉まく芭蕉庵




金福寺の枯れ山水小庭



同上 安永、天明の頃、蕪村は、金福寺をしばしば訪れ、一門で俳人結社「写経社」を結成し、句会を開いた。結社の名称に宗教性を感じさせるが、蕪村の宗教との関連は、一茶や芭蕉ほど、はっきりわからない。今回の旅で、浄土宗にゆかりの人だったらしいことがわかったが、俳諧や絵画に、宗教性がどう出ているのか、いないのか、興味深い点である。



同上



芭蕉庵へ続く門



蕪村が指定した芭蕉庵の窓の形



金福寺の入口階段



金福寺の空



金福寺より京都市内を一望できる



芭蕉庵



同上 



金福寺の古木



蕪村の墓へ



江森月居の墓、蕪村の高弟。几董とともに蕪村門下の双壁と言われた。金福寺では、こんな句を詠んでいる。

山寒し残る弟子さへ二三人

庵成りぬまず咲き出でよ柿の花












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スイス:食


(写真)Bernの日本食レストラン「fugu」にて。名称:Ramen no sake(たぶん、ラーメンの鮭、「鮭のラーメン」と言いたかったのだと思う)カップめんのヌードルに近い麺が、赤味噌仕立てのスープに。新鮮な葱。オリーブ入りバケット。麺の上には、鮭のソテーが。これ、説明されると、とても食べる気にならないでしょうが、実際、食べてみると、意外にいけました。パーツ、パーツの味はいいんですね。惜しいことに、コーディネートのセンスがない。



Bernのスイス料理レストランにて。ソーセージ・レシティ。ソースは、ハヤシライスに近いと言ったら怒られるか。



同上。チーズフォンデュ。非常に旨かったが、人によっては、日本で食べる方が旨いという評価もあるかもしれない。チーズがゴルゴンゾーラ系で、癖があるから。白ワインもたっぷり使用されていた。



同上。やはり、パンは美味。



kleine scheideggのカフェにて。右:Tagessuppe mit Wurst(ソーセージ入り本日のスープ)、左:Raclette(ラクレット) mit "G'schwellti"(?), Zwiebeln(玉葱) und Gurken(ピクルス)、左端のラッキョウのようなものが玉葱。非常に美味。量もたっぷりあった。






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スイス: Lavaux


(写真)Lavaux地区から見たレマン湖。太陽がなかなか落ちないので、湖面にはいつまでも光が。



Lavaux地区ではワインの試飲もできるが、日曜日は、すべて閉まってしまう。





















Lavaux地区は2007年に世界遺産に指定された。歩いていて、気づくのは、石垣の多さだ。葡萄畑は、石垣によって昼間の熱を夜間も維持でき、葡萄の甘みを作りだす。スイスワインは、とても甘い。









葡萄の葉が黄色く紅葉してくると、葡萄の収穫時期になると、近所のおばさんが説明してくれた(たぶん、こういうことを言ったんだろうと思う)。



対岸はフランスのモンブラン。





































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スイス:Lac Léman


(写真)レマン湖のヨット



ロザンヌからメトロでウッシーの駅で降りると、すぐにレマン湖。この透明度。



餌に群がる白鳥



ヨットが多く停泊



オリンピック博物館などがある公園の一角



同上



レガッタ



ウッシーから見たレマン湖の感じ



ホッケーの練習



公園から



同上



同上



白鳥



地元の子どもたちが車道でミニテニス



ウッシーの街



同上



ウッシーのイタリア料理店で:カルボナーラ、さすがに材料がいいので、抜群に旨い



同:フランス風オムレット



同:レマン湖で獲れたパーチのフライ、レモンソースがけ、さっぱりしていて美味。



レストランの珍客、雀。ここは地元の人が新聞を読んだり、ウェイトレスと話し込んだり、思い思い日曜日の午後を楽しんでいた。アジア系らしいウェイトレスのおばちゃんは、フランス語で、歌うように注文を取って歩く。



公園にて



























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スイス:Bern(2)

■旧暦9月24日、日曜日、

(写真)Junkerngasse 51のSteiger家の建物

ヘーゲルは1793年10月から3年間、ここ、シュタイガー家で家庭教師を務めた。六歳の男の子と八歳の女の子を教えた。ヘーゲル23歳の秋である。シュタイガー家は、ベルンの名門貴族で、夏は領地のチュッグですごし、冬は都市ベルンですごした。それに合わせて、ヘーゲルも移動した。



建物正面。現在は、集合住宅になっていて、別の人々が住んでいる。



同上。ヘーゲルの関するプレートも、シュタイガー家に関するプレートもない。Albrecht von Haller(1708-1777)が一時期住んだというプレートのみ。この人は、ゲッティンゲン大学教授の自然科学者で詩人。カントもヘーゲルも著作で触れている当時の有名人。



建物の正面ドアとそのプレート。



ドアを開けると…。



住人の表札。集合住宅の郵便ポスト(と思われる)



正面ドアの並びは…。



51番地を出るとすぐにBerner Muenster。Muensterの鐘の音を聴きながら、若きヘーゲルは、キリスト教批判の草稿を書いていた。



Berner Muensterから見たBern旧市街。ゲーテが「私が見た中で最も美しい都市である」と言ったと伝えられる。現在、世界遺産都市。



同上



同上。左はアーレ川。



同上



同上



同上



Bern旧市街を蛇行するアーレ川



旧市街より新市街を望む。高層ビルと工場からの煙が見えた。



旧市街



同上



同上



同上



Muenster尖塔の螺旋階段。相当な高さになり、登るとき、旧市街がちらちら見えて、足がすくむほど。



旧市街



Berner Muenster。尖塔部分はシーズンオフの工事中だったので、全部は登れなかったが、この高さ…。



Muenster部分



同上



市内を蛇行する雨のアーレ川


※参考文献「ベルンのヘーゲル」松村健吾

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スイス:Bern(1)


■旧暦9月23日、土曜日、

(写真)Bären Platzの市場に出ていたAppenzeller

Bernで出会ったもののうち、もっとも印象的だったのは、アッペンツェラー(Appenzeller)だった。スイスが誇るチーズの名品である。フランスのカマンベールやイタリアのゴルゴンゾーラに比べると、日本での知名度はそれほど高くない気がする。ぼくも、スイスに行くまで知らなかった。スイス東部のAppenzellを主な原産地とするハードタイプのチーズである。ソフトテイストのチーズが好きな人には、勧められないけれど、はじめて食べて一発で好きになってしまった。風味が豊かで濃厚な味わい。調べてみたら、ネット通販もやっている。サイトは、ここから。生産される工場や地域によって、味わいは微妙に異なる。このチーズは、ごく薄くスライスすると食べやすくなり、より美味しく感じられた。



Bären Platzの市場から。向日葵が売られていたので、温室か何かだろうと思ったら、Bern郊外に咲き乱れていた。



同市場から。野菜は、それほど、日本と変わらないが、人参、トマトなど、全体に小ぶりな印象。とくに、ラッキョウのようなミニチュア玉葱が珍しかった。ラッキョウのように酢漬けされていた。



雨模様だったが、地元の人も市場に足を運んでいた。



Bern駅前の横断歩道



駅前。Bernに限らず、Baselでも、Genèveでも、tramととにバスが市民の足になっていた。



Bern駅構内



同上



Bären Platzでチェスに興じる人々。雨模様でかなり寒かったが、見物人も出る盛況。



子どもチェスもあった。



郊外のパウル・クレー・センター。tramでBären Platzから15分くらい。クレー関連の企画展が中心。



センター内の向日葵



クレーセンターの周囲



同上



駅近くのtake awayのVeterで昼食用に購入したサンドウィッチ。ボリューム、味ともに、申し分なかった。



クレーセンター。日本語のパンフレットもあって驚いた。



クレーセンターのオブジェ





















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スイス:Wengen


(写真)Wengen村の教会

スイスの人々の親切さには、驚いた。登山鉄道に乗りこんで、席が空いていないので、立っていたら、前の席のご老人が、補助椅子を教えてくれたり、車内から、外の景色の写真を撮っていたら、わざわざ、大きな窓を引き下ろしてくれて、この方がきれいに撮れると、大きな声で教えてくれたり。スーパーで野菜の買い方がわからないで、ぼーっとしていたら、買物のご婦人がそっと教えてくれたり、パウル・クレーセンター前の向日葵(!)に見とれていたら、地元のおばあさんと中学生の孫が、もっといい場所があると教えてくれたり…。この孫など、10分ほども「ハロー」と言い続けて、ぼくらの注意を引いたのである。Berner Muenster近くの小さな本屋でスイスの詩人の詩集を尋ねたら、山のように上の階から運んでくれたり。とにかく、親切であった。しかもお節介ではない。非常に感銘した。観光立国なので、お客さんを大事にする風土があるのかもしれないが、それにしても、それにとどまらない、素朴な善意を感じることができた。





Wengenにて



Wengenの猫



Wengenの老人と猫



Wengenの牛。首に鈴がついていて、はじめは、教会の鐘が鳴っているのかと思った。



Wengen村の小売店にあったポッキー。帝という名前。



同店の野菜売り場。林檎の小ささが目を引いた。スイスの林檎は、赤と青があり、赤は、さほどうまくないが、青は、原始的な酸っぱさを持っていて、気に入った。



Wengen村は、写真からは伝わりにくいが、広大な牧場に牛が放牧されている。この地方の人々は、農作業に出れば、遠方の人と話す必要があるために、男性は声の大きい人が多い印象を持った。そう言えば、都市でも、地方でも携帯で話している人はほとんど見なかった。



Wengenの公園



ハロウィーンの準備

このように、木造の住宅も多い。首都のBernでさえ、1405年の大火までは、街全体は木造だったらしい。現在では、重厚な石造りの旧市街が世界遺産に指定されている。













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