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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(5)

■夕方、夕立。夜、雷。今日は、サイバーが難航して参った。散文は散文の難しさがありますね。座礁すると、Balzerの俳句を考えていた。翻訳の悪いところなんだと思うけど、原文を音楽として感受する前から、書かれたテキストとして見ている。このため、原文の意味だけを忠実に伝えようとする傾向がある。本来、詩は音楽なのだから、原文を音楽として音読し、音楽として日本語にすべきなんだろう。

酒見賢一の短編「エピクテトス」を読む。ネロの時代のストア派の哲学者だが、奴隷として生まれ奴隷として生きた。その人生は、奴隷らしからぬゆえに二重に悲惨だが、仏教で言う「空」を体得しているような印象を受けた。どんな目に遭っても平然としている。ある種の悟りに近いような感じがした。




in der Zypressen
verschwindet das Rotschwänzchen
mit Gras im Schnabel


糸杉林
ジョウビタキが嘴に
草をくわえたまま消えた


■この三行詩を読んでいて、詩の好きな人は、懐かしい響きに逢ったに違いない。それは一行目の糸杉林「die Zypressen」である。賢治が「春と修羅」で、このドイツ語を効果的に使っているからだ。

聖玻璃の風が行き交ひ
ZYPRESSEN 春のいちれつ
くろぐろとエーテルを吸ひ

・・・

(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青空を截る
(まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる)

・・・

(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ


■賢治詩集の注によると、ZYPRESSENは地中海沿岸や中東に分布する常緑樹で、日本には明治中期に渡来したらしい。植生は関東南部以西。賢治のZYPRESSENは物凄い。ゴッホの絵の中の糸杉のような激しいイメージである。BalzerのZypressenは、小さな生き物の余韻や気配を宿して静かなたたずまいをしている。
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RICHARD WRIGHTの俳句(28)

■先日の深夜、もう寝ようかなとベッドに横になったところで、幻の大詩人A・Sさんから携帯に連絡が入った。人類最後の恋愛について、いろいろ話し合った後で、石原吉郎に耳鳴りの詩があるよ、と教えてくれた。調べてみると、「耳鳴りのうた」という作品が確かにある。


耳鳴りのうた

おれが忘れて来た男は
たとえば耳鳴りが好きだ
耳鳴りのなかの たとえば
小さな岬が好きだ
火縄のようにいぶる匂いが好きで
空はいつでも その男の
こちら側にある
風のように星がざわめく胸
勲章のようにおれを恥じる男
おれに耳鳴りがはじまるとき
そのとき不意に
その男がはじまる

(中略)

いっせいによみがえる男たちの
血なまぐさい系列の果てで
棒紅のように
やさしく立つ塔がある
おれの耳穴はうたうがいい
虚妄の耳鳴りのそのむこうで
それでも やさしく
たちつづける塔を
いまでも しっかりと
信じているのは
おれが忘れて来た
その男なのだ


石原吉郎の詩集『サンチョ・パンサの帰郷』から



外出の行き帰りに、ライトの俳句を考えていた。今回の俳句は、否定的な要素は無く、切れに近い意識も見受けられる。

(Original Haiku)
In the summer haze:
Behind magnolias,
Faint sheets of lightning.


(Japanese version)
夏の靄
一面のほのかな光を背に
木蓮が咲いている


(放哉)
朝靄豚が出て来る人が出て来る


■放哉、恐るべし。ライトの三行詩も美しくていいが、放哉の句には俳味がある。西欧人は「俳味」や「諧謔」というのを理解するのが難しいのかもしれない。庶民あるいは生活の中に新しい趣向の美を見出すよりも、絵画的な美を描くことに重点を置いているような気がする。それはそれで、三行詩としては美しいのだが。
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芭蕉の俳句(148)

■旧暦7月16日、火曜日、

昨日、カイロを施術してもらいながら、担当のAくんから面白い話を聞いた。パソコン関連の痛みやしびれでカイロに通う人が大多数らしいのだが、その痛みの種類が今までにない不思議なものだと言う。たとえば、「どう痛みますか」と聞くと「パリパリ痛む」という表現や、「どこがしびれますか」という問いに、肩の上の空間を指したりするというのだ。パソコンは、新しい病気を作り出しているようなのだ。



水仙や白き障子のとも映り   (笈日記)

■この句には解釈が二つある。それは「とも映り」をどう理解するかによる。「や」で完全に切れていて、相照らしあっているには障子だとする楸邨の理解。「や」は意味的には「と」と同じで、水仙の白と障子の白が合い照らしあっているのだとする説(新編日本古典文学全集 小学館)。

ぼくは水仙と障子だと思う。障子同士が相照らしあっているという構図は、具体的に二重の障子の構造か、あるいは角の障子でもないかぎり、想像しにくい。障子と水仙が相照らしあっている方が無理なく景が浮かぶ。
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