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Jack Kerouacの俳句(9)

■今日は、寒かった! 雪やこんこんである。

(写真)フリージア:蕾がよく開いた

ケアマネも様々で、今度のケアマネは、「答え」をすぐに出したがる。既定のシナリオにすぐに乗せようとするので、個性が尊重されない。ぼくのいないときに、鬱病診断シートに勝手に記入させて、鬱の傾向が出ているから、デイサービスへ行くのが適当だと判断したのには驚いた。医師でもない者が家族の了解なしに行うことではないし、鬱の診断は医者でも安易にできるものではない。よかれと思ってやっているのだろうが、理念の一人歩きは、どんな場合も危険である。




Work of the quiet
mountain, this
Torrent of purity


しづかな山の仕事
 この
清らかな急流


■Work of the quiet/mountainというフレーズに惹かれた。Torrent of purityはもっと別の措辞があるようにも思う。ちょっと当たり前のような気がする。



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フランス語の俳人たち:Silvaine ARAVO(4)

■旧暦2月3日、金曜日、

(写真)雪降る森

初雪である。終日、仕事。そろそろ、散文モードから韻文モードへ、頭を切り替えないと、明日の句会が乗り切れない。




Longues allées d'arbres,
Sur la route désertée
La chanson du vert.


長い並木道
行く人なき道には
青葉のそよぐ音


■悪くはないが、詩的感興に乏しい。芭蕉の此の道や行く人なしに秋の暮に比べるのは酷かもしれないが…。



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韻文的古典を読む:神楽歌(2)

■旧暦2月2日、木曜日、

(写真)市役所のネギ。ネギ作りたいなあ!

終日、仕事。夕方、家人と待ち合わせて、オアゾに連れて行く。金もないのに、また洋書を買ってしまう。夜、冷たい雨。夕食時、奄美の焼酎を飲む。これは秀逸な一品だった。まったく悪酔いしない。F巻さん、Vielen Dank!




阿知女法(あちめのわざ)

本方<拍子取り音を出す> あちめ
 おおおお
末方<拍子取り音を出す> おけ
末方 あちめ
 おおおお
本方 おけ
本方 取合せ
 おおおお
末方 おけ

■なんだか、もの凄い。わけがわからないが、かつての現実。阿知女法は精霊や神を招き出す呪術。



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フランス語の俳人たち:Silvaine ARAVO(3)

■旧暦1月30日、火曜日、

(写真)紅梅と電車

午前中、用事で市役所。午後、本・雑誌の片付け。夕方、精密眼底検査。外出すると俳句を訳す癖あり。




Sous le bleu du ciel
L'absence chère a pesé
De son poids d'acier.



青空

大いなる不在は
鋼の重み


■抽象的でよくわからないが、神の不在を暗示しているのだろうか。もっと、別の詠みようがあるようにも思うが。



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フランス語の俳人たち:Silvaine ARAVO(2)


■今日は、雨になった。洗濯物が乾かなくて困る。夕方、用事で外出。伊勢丹で手帳を衝動買い。バイブルサイズのファイロファックスを20年以上使ったが、重くて嵩張るので、移動に不向き。愛着はあるが、ナローサイズのものに替えた。情報管理は、アナログとデジタルを組み合わせると効果的、というのがぼくの持論。売場のお姉さんに聞いてみると、リフィルを交換するタイプの手帳は売れなくなったが、使いきり型の一年手帳が好調だという。いつもの喫茶店で俳句を訳す。

(写真)パンジー




Un oiseau d'argile
Posé sur la cheminée:
Fragments de mémoire.



粘土の鳥は
暖炉の上でしづか

記憶のかけら


■詩としてはなかなか余韻があるように思う。しかし、最後の一行は、説明的にまとめたように響く。そもそも、コロンは、具体的に説明する句読法であろう。俳句の「取り合わせ」あるいは「間」、「切れ」の考え方は、ヨーロッパ人には、なかなか理解できないように思う。ドイツの俳人も、これを説明として用いる。もしかすると言語内在的な要因があるのかもしれない。フランス語やドイツ語の詩を具体的に検討してみるとはっきりするだろう。アファナシエフの英語の詩やツェランのドイツ語の詩を訳した限り、説明的なところはなかったが……。



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韻文的古典を読む:万葉集(2)

■旧暦1月29日、月曜日、

(写真)パンジー

年寄りはわがままである。よく聞く言葉であるが、たいてい、言っているのは、介護したり、めんどうをみたりしている若い人である。ぼくも、この言葉は、ある意味でよくわかる。性格的な傾向性や生理的な好き嫌いは、年齢に関係なくだれにでもある。その意味では、だれでもわがままなのだが、日常生活に人の手を借りざるを得なくなると、介護の論理や医療の論理と、性格的な傾向がぶつかることがある。このとき、老人は「わがままになる」。しかしながら、自分勝手や自己中心的というのとはちょっと違う性格的な傾向性は、変えるのがかなり難しい。人が生きていく上で、居心地の良さを感じるのは、性格的な傾向性が実現できているときであり、他者がそれを受け入れてくれているときである。友だちとは、そもそもそういうものだろう。インターネットなどのテクノロジーによって、介護を必要とする人々が、医療・介護の論理と性格的な傾向性を両立することはできないか。叔母の介護に関わるようになって、そんなことをしきりに思う。時間差があるだけで、年を取らない人はいないのだ。




うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流れあふ見れば
 (万葉集巻一 82)長田王

■「うらさぶる」は心淋しい。「さまねし」は「さ・あまねし」で隅々まで行き渡っている様子。心寂しさで一杯。しぐれに対する心の反応を歌っていて惹かれた。俳諧や俳句の「しぐれと」は、感じ方が違う。この歌では、しぐれと心情が一体的に詠まれているが、俳諧・俳句では、心情とは切り離されて、しぐれの趣に重点があるように思う。山頭火のうしろすがたのしぐれてゆくかは、万葉集のこの歌に近い「しぐれの」使い方ではないか。



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Lunch Poems - Ilya Kaminsky(embedding disabled by request)
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フランス語の俳人たち:Silvaine ARABO(1)

■旧暦1月28日、日曜日、のち

(写真)友だち

よく寝た。11時起床。午後、掃除して買い物。いつもの喫茶店で俳句を訳す。フランス語の辞書は全然だめ。とくに学習用と言われるやつ。三省堂のクラウン仏和辞典を引いていもさっぱりわからない。帰宅して、ロベール仏和大辞典で引くと一発。夜、かつをの叩きで奄美の焼酎をしこたま飲む。いいよい酔い心地。




Printemps enneigé
Fleurs si roses des pommiers
Dans les soirs, jadis...


春の雪
赤い花林檎は夕闇の中
かつては…


■ちょっと思わせぶりじゃないか。そう悪くはないけれど、いい句じゃない。手前みそだが、かつて、こういう句を書いた。

夕空を捥いて来たりし林檎かな



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フランス語の俳人たち:Jean ANTONINI(9)(10)

(写真)移動八百屋

■病院で俳句を2つ訳す。まだ、散文は訳せないが、徐々にフランス語に慣れてきた感じがする。ドイツ語の複雑さを知っていると、調べるのもそう苦にならない。今日は疲れたので、家で酒を飲んでグダー。


feuilles mortes
dans la lumière d'automne
tranquillement



枯葉が
秋の日の中で
しづもれる


■俳句としてはいたって凡庸。ジャン・アントニーニさんは、フランス俳句協会会長らしいが、フランス語で俳句を詠む難しさと面白さを感じる。


vieux calvaire
au carrefour de deux routes
laquelle choisir?



古い受難像の
交差点
どっちに行こうか


■不定法の使い方に関する理解に自信がないが、たぶん、こういう感じだろう。フランスの街(リヨン?)の風景が見えてきて惹かれた。しかし、閉口するのは、フランスの俳人たちを掲載しているアンソロジーのサイトで、アクセスするたびに、「賞金に当たりました!!」という表示が出る。サイト管理者のセンスを疑う!


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飴山實を読む(99)

■旧暦1月27日、土曜日、

(写真)夕桜

午前中、アファナシエフのチケットを5枚押える。なかなか良い席が取れた。午後、叔母を病院へ。車椅子の付き添いは疲れる。おまけに、病院の質が悪い。夜、仕事。




冴返る匂あつかふ老舗かな
  「花浴び」

■お香の店だろうか。「冴返る」という季語との取り合わせに惹かれた。匂いは、温度が上がると、拡散するが、冴返る気温では、袋に封じ込められたままである。匂いが入り混じることなく、店先に整然と並んでいる景が浮かぶ。



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近江商人と芭蕉(1)

(写真)静

■ジャーナリストの哲野イサクさんより、大変興味深い質問をいただいた。質問は、以下のとおりで、それに対するぼくのはじめの反応も合わせて掲載する。


随分おひさしぶりです。

今日はコメントでなく、質問です。確か勝海舟は日清戦争に批判的だったな、とおもって「氷川清話」(松浦玲・江藤淳 編 講談社学術文庫)で探していたら、つい脱線してしまって。P153からP154に「塚本定次」という人のことを褒めてあります。塚本は、どうも江戸時代から続く豪商で、時々海舟とおしゃべりを楽しんでいたようです。海舟が塚本を褒めるには、植林とか教育とか息の長い地味な仕事にお金を出して、地元の長期的発展を考え、実行したからのようです。

 この塚本が海舟に芭蕉についての解説をしたようなのです。関係箇所を引用すると、

 「おれのために、芭蕉翁に就いてよい解釈を与えてくれたのもやはりこの男だ。全体おれは平生から芭蕉という人はどうしても尋常のものではない、その余徳が深く人間(じんかん)に入って居ることは、ただ発句の高妙なるゆえのみではあるまい、きっとほかに何かそのわけがあるだろうと思って居ったところが、この塚本という男の言ふには、いはゆる近江商人なるものは、実にその芭蕉の教導訓示によりて出来たものだそうな。この事を聞いて、おれは積年の疑団が、ここに初めて氷解して、大いに釈然とした。」

 ところが私は全然釈然としない、有り体にいえばなんのことだかわからない・・・。

 この項目の注に、恐らく松浦玲の文章だと思いますが、「その塚本が説明した松尾芭蕉と近江商人との関係は、なかなか興味深い。」といれてあります。

 ますます私にはわからない・・・。

ここの解釈をして戴くと、頭の中の小さな黒雲が払われて、さっぱりすると思い立ち、質問に及んだ次第です。


以下、ぼくのはじめの反応


■哲野さんの疑問は、芭蕉の思想と近江商人の経済倫理の関係だと思うのですが、今、すぐにお答えできるほど、単純なお話ではない様に思いますので、じゃっかん、お時間をください。このテーマは、「経済倫理と思想・理念・イデオロギー」という形でくくれると思います。いくつかアプローチがありえると思うのですが、

1.芭蕉の直接の弟子に近江商人がいたかどうか
これを調べると、弟子が媒介となって、芭蕉の生き方や倫理が近江商人のグループに浸透していった可能性がでてくるかもしれません。まだ、調べつくしていませんが、芭蕉の近江の弟子は、武士階級や僧侶、医者が多かった印象があります。

2.近江商人の間で俳諧の流行があったかどうか たぶん、あったように思いますが、これがあると、当然、近江に縁のある芭蕉の影響がでてきますね。直接の弟子ではなくても影響力はあったでしょうから。

3.近江商人の経済倫理で今まで議論されてきたのは、浄土真宗との関わりです。マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の影響下に、内藤莞爾が書いた論文(70年代、75年くらい?)がたぶん最初ですね。芭蕉の弟子にも、浄土系の時宗の僧侶がいた気配がありますので、近江商人との関わり方は、複雑で重層的になってきます。

なかなか興味深い問題で、近江商人の経済倫理は、今の儲け主義とは違った理念と実践が一体の原初的な資本主義のありようを感じさせます。


■哲野さんの質問を考えていて、これは、深さと広がりをもった質問だと気がつき、じっくり考えてみるべきだと思うようになった。いつ、答えが終わるのか、今のところ、見当はつかないが、上記のアプローチの方向で、考えをしばらく進めてみようかと思う。例によってマイペースなやり方になろうけれど。
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