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飴山實を読む(161)

■旧暦2月13日、日曜日、

(写真)無題

今日は、寒かった。午前中、配線工事の説明会。午後、指圧にかかる。眼が限界近くに凝っている。指圧を受けたら、血行がよくなったせいか、耳鳴りが激化。帰宅後、少し、眠る。腰痛も少し出てきて参った。



柳田國男に関するエッセイを二本続けて読んだ。一つは、益田勝実の「柳田國男・その詩の別れ」、もう一つは、花田清輝の「柳田國男について」。益田のエッセイは、柳田國男が詩人からスタートしながら、その詩を捨てていくプロセスを、内面に即して論理的に再構成しようというもの。図式的に一言でまとめると、近代主義に対する敗北が、柳田をして、その詩を捨てさせた、となるけれど、ぼくには、納得がいかない。

柳田ほど、近代が一つのイデオロギーにすぎないことを、早くから見破っていた人はいないと思う。彼の民俗学の仕事は、それを論証するために、行われたようにさえ感じる。著作集に、民俗学の仕事を入れながら、詩を除いたわけは、前近代を一つのイデオロギーに帰してしまうことを回避したかったからのように思える。柳田の詩は「分裂」がない。すでに近代が始まっていた時代にあって、芸術として、前近代を相対化する地点で歌っていない。

これに対して、「学として民俗学」は、日本的な匂いを濃厚に漂わせながらも、「科学として文化人類学」に拮抗するものを持ち得るだろうと柳田は判断したのではなかったか。今も、柳田民俗学は、折口民俗学と並んで、科学とは異なった地点に突き抜けている。科学は、まさに近代の申し子である。二人が、文学から出発して、柳田は詩を捨て、折口は、短歌から詩へ移行したことは、ぼくには、益田とは異なった意味でとても示唆的に思える。それは、「近代」に対する二人の文学的なスタンスの違いだったのではなかろうか。

花田清輝のエッセイは、非常に政治感覚に鋭い柳田像を彫琢している。これはこれで面白かったが、結論から言うと、政治的センスに優れた花田清輝の自己投影のように感じられた。花田によれば、柳田は、前近代を否定的媒介にして近代を乗り越えようとした実践家ということになるが、これは、とりもなおさず、花田自身の芸術的なスタンスではないだろうか。誰かを語ることは、常に、己を語ることである。それでも、その語りに心動かされるものがあれば、エッセイとしては、成功なのだろう。前近代的なものを切り捨てるのではなく、アクチャルなものとして見直そうという視点そのものには共感を覚えた。



石にのり秋の蜥蜴となりにけり

■固く白っぽい石に乗り、秋の日差しを浴びている蜥蜴。透明な秋の日差しに惹かれた。



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飴山實を読む(160)

■旧暦2月9日、水曜日、

(写真)木蓮

今日は、冷たい春の雨だった。朝から、健康診断に出かける。久しぶりに、夕食担当。アスパラと人参の肉巻を作って、ラタトゥイユをソースにしてかけてみた。色どりも春らしく旨かった。断珈琲25日目になって、一番好きだったキリマンジェロを飲んでみたら、体が受け付けない。カップ一杯が飲めなくなっていた。これはいったい…。

以前から民俗学関係が、ずっと気になっていて、柳田、折口の本は、文庫で集めてぼちぼち読んでいるのだが、先日、益田勝実の論文がダウンロードして読めることを知り、気になる論文を数本、プリントアウトして、健康診断の最中に読んでいた。その中に、柳田の詩が数編紹介されている。



夕ぐれの眠のさめし時

うたて此世はをぐらきを
何しにわれはさめつらむ、
いざ今いち度かへらばや、
うつくしかりし夢の世に、

モチーフ自体は、70年代の清水昶の詩にも共通する。島崎藤村が出る前の詩である。




どの山のさくらの匂ひ桜餅
   「俳句」平成八年七月

■桜餅一つから、山桜の咲き乱れる一山が浮かんできて惹かれた。この想像力は、俳句の「切れ」によって飛翔できている。



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飴山實を読む(159)

■旧暦2月8日、火曜日、

(写真)無題

昨日、「マスメディアの未来」をnhkで観た。テレビと新聞のなんとか協会会長という老人3人とインターネットに詳しい若手2人に、社会学者という構成だった。まず、びっくりしたのは、マスメディアが既得権益集団に有利な横並びの偏向報道をこれだけしているにも関わらず、まったく、自己否定の感覚がないことだった。また、報道のプロを自称しながら、同時に、くだらないバラエティ番組で、視聴者を幼稚化し、思考停止状態に置いていることに対する自覚がない。そもそも、ここに出てくるような老人は、自民党の論理と同じ論理でトップに上った連中なので、感受性が硬直していて、議論の共通の土俵を形成するのに時間がかかり、核心的な問題に入る前に終わった観がある。マスメディア側の人選をもっと真面目にやれと言いたい。形式的にトップの老人を出せばいいというものじゃない。しかし、こんなレベルでトップが務まるのだから、マスメディアの未来は相当危ないんじゃないか。

マスメディアには、官僚と同質の奢りを感じた。自分たちが共通の言論広場を形成してやる、という奢りを。そうやって形成された広場がいかに情報操作に満ち、「客観的」という名の体制補完報道なのか、想像力がまったく届いていない。組織力とプロの記者というリソースは、常に、もろ刃の刃だろう。

昨日、番組を観て思ったのは、メディアリテラシーの教育が若いうちから必要なのではないか、ということ。現在、社会認識の枠組みは、マスメディアが形成しているのだから、マスメディアを批判する能力は、生活をしていく上で、必須だと思う。インターネットは、今ある意味で、ゲリラのような役割を果たしていると思うが、討論や情報交換を通じて、メディアリテラシーの教育の場としてのポテンシャルを持っているように思う。

インターネットは、まだ混とんとしていて、姿が見えない。あるいは、そもそも、混沌がネットの本質なのかもしれない。しかし、創造的なものは、常に混沌の中から生まれるのではなかろうか。




傘持ちの高野歩きやほとゝぎす
  「俳句文芸平成八年五月」

■高野山の雨は、去年7月に行ったときに経験したが、不思議に気持ちがいい。霊廟は、死者の眠る場所だが、高野山の墓域には、不思議な生命力が宿っていて、それが雨によっていっそう際立つように思える。「高野歩き」という措辞、なかなか出てこないと思う。



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飴山實を読む(158)

■旧暦2月6日、日曜日、春分の日

(写真)寒緋桜(上野公園)

昨日は、長谷川等伯展に行く。40分並んで、2時間、人だかりの中を観て、博物館を出たら、へとへとだった。有名な松林図屏風は、東京国立博物館の常設作品なので、何回か観ている。今回も、やはり印象的で、観ていると、画面の中に歩み去って、消えていくような気がする。いや消えてしまいたいような気分になる。ほかに、印象的だったのは、息子久蔵を26歳で失くした直後に描いた釈迦涅槃図で、その巨大さと極彩色に圧倒される。ほかに、芒を大胆にあしらった萩芒図屏風、岩と砕ける波を墨でデフォルメして描き金箔を施した波濤図、端然と座る千利休像などが印象的だった。屏風や襖は権力者の住居や寺院のために描かれたものだが、今で言うスペースデザインを兼ねており、こういう屏風や襖に囲まれて生活すると、そのメンタリティには何かの影響があるだろうなと思わざるを得ない。デジタル処理された複製ではなく、直筆のオーラが空間を満たすのだから。




夕風となりたるころの朴の花
  「俳句文芸」平成八年五月

■これも、夕風が出る時分の朴の花の風情が彷彿として惹かれる。春の夕闇が白い大きな花びらを包む感じが。



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飴山實を読む(157)

■旧暦2月4日、

(写真)無題

昨日、彼岸の入り。そろそろ、寒さも終盤か。久しぶりにP君に会う。Howard Zinnの「A PEOPLE'S HISTORY OF THE US」を読んで、議論。Zinnが、アメリカの歴史をコロンブスの発見から始めたことを除けば、大いに共感できる。楽しみである。




朴咲いて安養界に雨こぼす
   「俳句文芸」平成八年五月

■これも印象的で惹かれた。雨の朴の花は、確かにこんな感じを受けることがある。安養界は安養浄土のことで、極楽浄土と同意。



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飴山實を読む(156)

■旧暦2月2日、

(写真)red

昨日は、天気がいいので、叔母の歩行リハビリを行った。周囲を一周するだけであるが、そうやって見えてくる、季節の変化は、当人は意識していないかもしれないが、末期のまなざしなのかもしれない。若い人間より俳句に近いところにいるのかもしれない。




たましひのうつゝに朴のつぼみかな
   「俳句文芸」平成八年五月

朴の花は、はじめて見たときは、驚いた。これが花か、という思いだった。朴のつぼみもまた、人を茫然とさせるものをもっていると思う。共感できた。



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飴山實を読む(155)

■旧暦2月1日、火曜日、

(写真)桜の莟

辛夷はもう咲いているが、木蓮がそろそろ開花。春先は、白い花が多くなる。パリのアファナシエフに英語俳句とドイツ語俳句を送る。彼の英語の小説を2篇預かっているが、はたして訳せるかどうか。訳せても、出そうという出版社があるかどうか。おそらく、まったく金にはならないだろう。生きているうちに本にしてあげたいという気分は強いのだが…。今週もいろいろな意味で厳しい戦いが続く。運動でもして気分転換を図ろう。




千葉笑ひなんぞと夜を笑ひをり
   「俳句研究」平成八年一月

■千葉笑ひ。千葉市中央の千葉寺で江戸時代に行われた習俗。毎年大みそかの夜、人々が集まり、顔を隠し頭を包み声を変えて、処の奉行、頭人、庄屋、年寄たちの善悪を言いたて、行いの悪い人に対して大いに笑い、褒貶した。

身分制社会とコミュニティーのきつさから来る、一種のガス抜きなのかもしれないが、この種の話は、ほかの村でもあったことをどこかで聞いた。こういう直接的な批判の習慣はなかなか痛快である。

このとき「笑ひ」は、庶民の武器になっている。



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飴山實を読む(154)

■旧暦1月29日、日曜日、

(写真)無題

今日は、いい天気である。春を実感。掃除してから、ゆっくり本でも読もう。断珈琲2週間目。かなり胃の調子は良くなったが、その代わりやたらに紅茶を飲んでいる。何事も、過ぎたるは及ばざるがごとし、か。確定申告2通作成。始めて国税庁のHPから作ったが、かなり楽だった。問題は領収書の計算だが、日ごろからエクセルで管理しておけば、一発なのだが…。




峡の蟹いくさのごとく食みちらし
   「俳句研究」平成八年一月

■峡の蟹というのは食したことはないが、「いくさのごとく食みちらし」という措辞で、食後の場面が目のまえに開かれた気分になる。たらば蟹やずわい蟹など、海の蟹も、食した後は、確かに戦場のような気配が漂う。命を食べることのめでたさと罪深さが、ここには同居しているように感じて惹かれた。



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Jean Ferratというフランスのシンガーソングライターを初めて知った。きのう亡くなったようだ。初期の代表作「夜と霧」。画像にも息を呑む。Jean Ferratは、ユダヤ系かもしれない。



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飴山實を読む(153)

■旧暦1月28日、土曜日、

(写真)無題

昨日、風呂に入りそびれたので、今から入浴。淺山泰美さんのエッセイを読んでいたら、ダライ・ラマの楽観主義について触れている一文に目がとまった。世に言われる「楽観主義」は現実認識が甘いという意味で使われることが多いが、ダライ・ラマは、ある課題や困難に対して、解決が可能だという信念を常に持つことで楽観的と言える。一つのアプローチでダメなら別のアプローチを何回も繰り返す持続性が重要だと説いている。この粘り強さとその根底にある余裕は、「死」という人間にとって最大の恐怖の一つを完全に克服しているところから出てくるように思われる。チベット仏教の修業はすべて「死への準備」である。マルクスが、人間にとって解決不可能な問題は人間は提出しない、という言葉を残しているが、楽観性という点で、どこか相通じるものがあるように思う。大いなる楽観性。励まされるものがある。




杣の子か木の実しぐれか木のさやぎ
   「俳句研究」平成8年1月

■森の「木のさやぎ」。このときの杣の子は人間の子というよりも、森の精のように感じられてくる。森の深さ、何か人間を超えた存在の気配が伝わってきて惹かれた。



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飴山實を読む(152)

■旧暦1月26日、木曜日、

(写真)無題

今日は、終日、確定申告の書類作成の予定。領収書の計算がめんどくさい。3月は、三寒四温で、自律神経にずいぶん負荷がかかる。この時期、そのせいもあるのか、耳鳴りがひどくなって困る。眠れないほどひどくなるので、睡眠薬を服用するのだが、これが日中まで残って眠くて仕方がない。いやはや。




ひと欠けの青のかぐはし粥柱
   「俳句」平成八年一月

■この青は、香の野菜のことだろう。粥柱は粥の中に餅を入れた七草粥や小豆粥などを指すが、青が効いているので、粥に餅を入れたものに香の野菜を散らしたのかもしれない。この「ひと欠けの青のかぐはし」という措辞で、粥柱がとても旨そうで惹かれた。



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