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一日一句(556)







難病と言うて笑ふや大根引






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一日一句(555)







蕎麦よりも蕎麦掻旨し吉祥寺






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一日一句(554)







師走かな腹が立つたら飯を喰ふ






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一日一句(553)







何事も三日坊主の海鼠かな






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一日一句(552)







修羅の世のいつまで続く焚火かな






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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(23)


■旧暦10月13日、月曜日、

(写真)無題

昨日は旧暦(10月12日)で芭蕉忌だった。奇しくも、三島由紀夫の命日と重なった。三島由紀夫で記憶に残っているのは、やはり、市ヶ谷駐屯地での演説の映像だが、もちろん、当時、テレビを観ても、まるでわからなかったろう(リアルタイムで観たかどうか記憶がない)。後から、繰り返し流された映像が刷り込まれている。ただ、そうした後からの映像の中で、三島が、団員たちと、飯を食っている映像があって、それは一度しか観ていないのだが、妙に、なまなましく印象的だった。

白米のどんぶり飯を箸で口に運ぶだけの映像が、強く印象に残ったのは、それが、飯を食うために飯を食っていたからだと今にして思う。なにかに思いつめると、話したり、休んだり、料理を見たり、味わったりといった余計なことがなくなってゆくのだろう。しかし、人は、「余計なこと(遊び)」を本質的なことに転化して人になったと思うのだが...。

今日は、冷たい冬の雨だった。一時、激しく降った。ゴッホなどにも影響を与えた広重の浮世絵、近江八景の中の「唐崎夜雨」は、夏の長雨だと思うが、もし、冬の雨だったら(画面には冬の気配もある)、其角の句「此木戸や錠のさされて冬の月」と同じように、壮絶な感じになると思う。その方が、面白い。

唐崎夜雨 ここから>>>



痩骨のまだ起直る力なき   史邦

隣をかりて車引き込む   凡兆

■安東次男によれば、ここは、源氏物語が踏まえられていて、病人が、男女の中を取り持つ場面になる、という。4人の連衆の間では、源氏を踏まえていることに、合意ができていたらしいが、現在で、こういう古典を踏まえた付け句ができるか、疑問に思う。芭蕉の時代、富裕層の教養は、たいてい、決まっていた。現在のように、メディアが、溢れている消費社会とは、社会が質的に違う。この辺の事情も、現在、俳諧が成立しにくい社会的背景なのだろう。しかし、古典を、このように、踏まえることができたら、奥行きが出て、面白いとは思う。

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一日一句(551)







月見るや月の貌してゐたりけり






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一日一句(550)







凩や世渡りの綱かく細き






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一日一句(549)







酒飲むは祈りに似たり枇杷の花






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一日一句(548)







唐崎の夜雨たちまちに冬の雨






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