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Cioranを読む(13)


■旧暦1月26日、

(写真)道・ベルン

今日は、叔母の緊急入院で、疲れた。昨日から激痛を訴え、今朝、救急車で搬送。退院しても車椅子になる可能性が高いので、施設入居を考えないと仕方ない。介護も新たな局面に来たかという気がしている。今日は、ときおりの春の雪である。病院から戻って、各方面に連絡して、ようやく一段落。まぶたを閉じると、なぜが凍った湖面の凍鶴の姿が、しーんと浮かんだ。

いよいよ、深蒸茶の中毒になってきたようである。飲まないといられなくなるのは、塩分が足りなくなるためか。魂が渇くのか。さて、一杯淹れて、じっくりと行くか。



Épouvantement ― quel dommage que le mot ait disparu avec les grands prédicateurs! Cioran Aveux et Anathèmes p. 13

Épouvantement(底なしの恐怖に突き落とすこと)― この言葉が、偉大な説教師たちとともに、消えてしまったのは、なんとも残念なことである。

■説教に行動を従わせる手段として、恐怖を用いるのは、キリスト教や仏教にあるので、そうおどろかないが、問題は、この恐喝が効かなくなった理由である。一つは科学技術の進展によって、彼岸の存在が希薄になったことによるだろうが、科学技術は、今後、彼岸/此岸の境界をますますあいまいにしてゆくと思う。これは、現実に起きていることが地獄さながらであることと歩みを伴にしてゆくはずである。「地獄」の観念が現実によって無効化されてゆくプロセスは、「永遠」という古い観念が、新たな恐怖として浮上してくる可能性を秘めている。





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2月27日(日)のつぶやき

22:59 from web
Thank you Beez for kind words and RTs. This is a picture of autumn Base. so beautiful place that reminds me of a river in Kyoto. @beezknez
23:26 from web
four chairs/ in the room// spring wind #haiku #poetry #fhaiku
23:28 from web
RT @masaru_kaneko: 朝日は他の新聞と一緒に、政官財学界の旧勢力とグルになってマニフェスト放棄を迫りました。日米「同盟」基軸路線への修正を迫り、中国脅威論と新安保懇「動的防衛力」路線を推進。検察がでっち上げで政党に介入したのに異常な小沢バッシングの繰り返し ...
23:34 from web
alone/ in the spring night// Bach #haiku #poetry #fhaiku
23:42 from web
three white dishes/ on the morning table// spring wind #haiku #poetry #fhaiku
23:45 from web
blue black writings/ on the letter// spring rain #haiku #poetry #fhaiku
23:51 from web (Re: @beezknez
@beezknez Thank you Beez. spring river/ in Basel/ like a lady #haiku #poetry #fhaiku
by delfini_ttm on Twitter
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一日一句(40)






石段の高きを継いで春の空





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一日一句(39)






天心はしんとしづまる雛かな





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Cioranを読む(12)


(写真)道・バーゼル

河津桜祭り。すでにして、夜桜の演出が。今日のような春の日は、初夏の頃の気持ちのいい大気を身体が思い出す。早春に初夏を思う。

病院の待ち時間が長いので、外のベンチで、のんびりした。春日が気分良かった。時間が長く、退屈してきたので、Cioranを読んだ。この頃、Cioranづいている。断章形式というのは、その配列に工夫の余地があるのだろうが、さすがに、横にしか並べられない。円や星形の断章があってもいいかもしれない。pattern poetryの応用で。詩ならいいのかもしれないが、断章だとplasticになるかもしれない。帰りに『七人のシェークスピア』3を購う。数少ない趣味の一つ、コミック。最近は、これと『チェーザレ』『へうげもの』を楽しみにしている。



Nous ne devrions parler que de sensations et de vision: jamais d'idées--car elles n'émanent pas de nos entrailles et ne sont jamais véritablement nôtres. Cioran Aveux et Anathèmes GALLIMARD 1987 p.51

※この文章で、面白いと思ったのは、「devrions」という動詞の使い方で、これは「devoir」の条件法現在形である。現実は、こうなっていないというシオランの憤懣を表していて、ニュアンスが豊かな使い方だと思った。ただの「devons」だったら、こういう表情は出ないのだろう。

われわれが語るべきなのは、本来、感覚と妄想であって、けっして理念ではない。というのは、理念はわれわれのはらわたから出てきたものじゃないからだ。理念は絶対に、本当の意味で、われわれのものではない。


■一読すると、なるほどな、と通り過ぎてしまうが、よく読むと二重の意味で興味深い。一つは、ここで、訳したidéesという言葉に関するものである。これは思想でも、思考でも、観念でもいいのだが、もっとも対照を際だたせるために「理念」を使った。この断章の含意は、一つには、「思想の疎外」にある。たとえば、キリスト教の隣人愛の理念がなぜ、人間を外側から抑圧する思想に転化するのか。こうした問題は、初期ヘーゲルの問題でもあったわけだが、シオランも、疎外という発想をしないだけで、この問題意識に近いところにいる。「理念は絶対に、本当の意味で、われわれのものではない」この言葉は、疎外論ときわめて近いではないか。

ただ、感覚と妄想(あるいは幻想、幻覚でもいいのだが)が、直接個人のはらわたから出てくると考えるところに、限界がある。感覚や妄想のありかたに注目すると、社会集団の媒介なしには存在しえないからだ。感覚でさえ社会的なものなのである。そもそも、「個人」なるものは存在しない。あのロビンソン・クルーソーでさえ「個人」ではないのである。その行動様式は、社会のapriorityが前提になる。感覚と妄想の直接性を信じているところは、「文学的な、あまりに文学的な」と言ったところだろうか。

ここまで、読んでみて、やはりHegelと読み合わせてみると面白いと考えた。ちょうど、HegelはPhänomenologie des Geistes(精神の現象学)が手元にあるので、ぼちぼち、読んでみたい。読み切れるのはいつになるのか、わからないが…。






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Cioranを読む(11)


■旧暦1月24日、土曜日、、強風

(写真)道・バーゼル

6時半起床。いろいろ用事があって、昨日は寝たのが2時半。いささか眠い。今日は、これから、叔母の様子を見て来て、薬をセットして、それから、自分の病院へ行く。春先は、気候が安定しないので、耳鳴りがひどくて、困ったものである。



Peut-on se figurer un citadin qui n'ait pas une âme d'assassin? Cioran Aveux et Anathèmes GALLIMARD 1987 p. 44

殺人者の心をもたない都会人など想像できるだろうか

■これも、ドキッとさせられる。面白かったのは、n'ait pas(もたない)という言い回しで、ここには、aitつまりavoirの接続法が使われている。フランス語の接続法の用法は、「事実性が問われず、頭の中で考えたこと」が基本なので、殺人者の心をもった都会人が実際にいる/いないは問題となっていない。ドイツ語も接続法は多様だが、こういう文脈で接続法を使うことはないと思う。ここは、se figurer(想像する)という頭の中のことを表す言葉が使われているのに呼応しているだろう。フランス語では、日常生活の中で、事実と想像を文構造の上で区分するのだろう。話者のスタンスがはっきりして興味深い。






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一日一句(38)






春の日や共同墓地の門放つ





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Cioranを読む(10)


■旧暦1月23日、金曜日、、梅花祭(京都北野天満宮)

(写真)道・バーゼル

今日は、洗濯物を干していて、春をまさに実感。外の方が暖かいのである。兼業の塾の方は、新年度から、中高生の英・国を担当することに。今年度は、国語が中心になるので、楽しみにしている。翻訳は、現在、3本、考えているが、まだ、企画が通らない苦しい戦いが続いている。3本とも、アクチャルな問題をあつかっているので、翻訳する意味は大きいと思っているのだが…。



Ce qui n'est pas déchirant est superflu, en musique tout au moins. Cioran Aveux et Anathèmes GALLIMARD 1987 p.43

引き裂かれるような、いたましさのないものは無意味である。少なくとも、音楽については。

■たしかに、そうなのだと思う。この断章を読んで思い浮かべたのは、ベートーヴェンの音楽である。1番からピアノソナタを全曲聴いてみたことがあるが、そのときよりも、断片的にふいに聴こえてきた楽章にいたましさを感じる。それも、こちらの年とともに、である。いたましさは、否定の強さでもある。それは自己の否定であり、世界の否定でもある。なんらかの「肯定」がいたましさを帯びるのは、その裏に「否定」が隠されているからである。否定から肯定への弁証的なシナリオではなく、断片としてのdéchirant(いたましさ、苦痛、悲痛)にとどまることに意味を見出すシオランの感性は、post great artistsの現代を感じさせる。








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