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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(31)


■旧暦2月8日、水曜日、

(写真)春の雪

起きたら、大雪だった。朝、用があって外出したのだが、さっそく、滑って転びそうになった。「いざゆかん雪見にころぶところまで」である。この頃、俳句が自己満足になって来た。句会に出られればいいのだが、諸般の事情で、なかなか出られない。そこで、思いついたのが、新聞への投稿である。ぼくの取っている新聞は東京新聞なので、東京俳壇に毎週、投句してみることにした。人の目が入った方がいいだろうという意図である。



先日、社会哲学者のI先生と話していてい、面白いことに気がついた。民主主義と資本主義はセットでやって来る。西欧の政策は基本的にそうであるが、そういう話になった。これは、キリスト教が植民地政策とセットでやって来た歴史とぴったり符合する。つまり、現存の民主主義は、資本主義的な植民地化を正当化、あるいは補強するイデオロギーになっている。だが、キリスト教が、植民地政策に対して、両義的であり得たように、民主主義も、資本主義的植民地化に対して両義的であり得る。つまり、来るべき民主主義は、資本主義的植民地化に拮抗し得るのではなかろうか。その重要な条件が「情報の公開」だろう。情報の公開には、二つの重要な要素がある。一つは、情報の使用である。もう一つは、情報をめぐる討議である。

公開された情報をどう使用するか。今度の、原発事故をめぐって、放射能関連のデータやさまざまな発言が、ウェブを中心に出てきたが、これを、暮らしの安全性確保のために使用し行動する新しい主体が形成されつつあるように思う。ことに、お子さんをもつお母さんたちを中心に。お父さんは、家庭よりも組織にまだまだ、組み込まれていて、問題のプライオリティーを正しくつけるのが、下手な気がする。情報の新しい使い方は新しい主体を形成する。

もう一つの「情報をめぐる討議」は、「専門家」という集団がいかに無能だったか、という事実と関連する。「専門家」と「素人」という区分が、すでに意味がなくなっていたというのが、今回の原発事故で明らかになったことの一つだと思う。専門家同士の討議では、「科学的」な討議にはならず「政治的」な討議に傾きがちである。背後の利害団体を代弁することになるからだ。科学者集団の出した結論が、科学的ではなく感情的になるのは、そのせいだろう。喜劇のパラドックスである。

「情報をめぐる討議」が正しく機能する条件をどう整えるのか。これは、教育も含めて、重要な問題ではなかろうか。結局、考えない人間を量産して、少数の考える人間は、みなひもつきになってしまうと、結果的に、社会は機能不全を起こし、立場の弱い人間が大勢犠牲になる。



39, Der Beweis ist unser neues Vorbild dafür wie es ausschaunt, wenn nichts weg- und nichts dazukommt, wenn wir richtig zählen, etc. Aber dieser Worte zeigen, dass ich nicht recht weiß, wovon der Beweis ein Vorbild ist. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 170 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

余計なものは、なにも引かず、なにも足さず、ただしく計算すれば...、こうなる。証明とはそのための新しいモデルである。だが、こう言っても、その証明は何のモデルになるのか、わたしには正しくわかっていない。

■鋭いと思う。これは、一つの形式論だからで、具体的な内容を欠いている。「数学の基礎」でのヴィトゲンシュタインの思考は、弁証法的で、たえず、自分の言説を否定しながら、展開していく。

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一日一句(315)






早春や一人突然走り出し





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(30)


■旧暦2月7日、火曜日、

(写真)無題

夕方から急に冷え込んだが、夜になるとまた、緩んだ。ストーブに灯油補給、地震対策でレンジの固定、椅子の修理、掃除など、終日、雑用。



39, Nicht, dass dies Zuordnen zu diesem Resultat führt, beweist - sondern dass wir überredet werden, diese Erscheinungen(Bilder) als Vorlagen zu nehmen dafür, wie es ausschaut, wenn...   Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 170 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

こう整理すればこういう結論になる、ということが証明されるのではない。こうした諸現象(図)を、ある場合のものの見方のモデルとするように説得されるのである。

■何が証明されるのか。ものの見方のモデルが説得される。それを支える、論理や理性とは、だれを代弁するカテゴリーなのか、という問題設定もありえるだろう。
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一日一句(314)






誰がこゑも神まじりたる弥生かな





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Cioranを読む(99) Hegel et nous(8) 1932


■旧暦2月6日、月曜日、

(写真)2月尽

結果がどのようなものになったのか、まだよく見渡せないが、一つの山を越えたのは確かなようだ。新しい峯がはっきり見えてきたから。何重にもストレスがかかって、かなり厳しい局面の連続だった。今度は、目のまえのその峯を登らないといけない。気力は十分であるが、体力が怪しい。

今日は、非常に寒かった。石油ストーブを出してきた。

ショスタコーヴィチという人がどうもよくわからない。わからないのに、というか、わからないから、気になる。そんなことってないだろうか。れっきとしたクラシックなのに、映画音楽みたいに通俗的でゆるいところに、反発を感じるのだが、他方で、全体的に見て、人間の多様性・多面性・矛盾が集約されていて、なんだか、鏡を見ているような気分にもなってくる。そういう気持ちでいつもいたので、アレクサンドル・メルニコフがショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」作品87を全曲演奏する、というリサイタルを知って、即、出かける気になった。全曲演奏して3時間は超えていたろうか。演奏は素晴らしかった。スタンディングオペレーションと拍手が鳴りやまない。曲全体を聴いて思ったのは、この作曲家は、喰えんオヤジだというのが正直なところである。ショスタコーヴィチは、よく言えば、音楽のモラリスト、悪く言えば、事情通である。隣の若い男の子が、手でリズムをとりながら、楽しげに聴いていたが、そうした無邪気な楽しみ方が、ある意味で「現代人的な」作曲家のためには、いいのかもしれない。一つ、はっきりしていることがある。それは、好きかどうかは別にして、今後も、ショスタコーヴィチを聴き続けるだろうということである。鏡の隣人、ショスタコーヴィチ。



Le fait que la pensée philosophique de notre époque se tourne vers la dialectique (Kröner, Jonas Cohn, Liebert, Litt, Heidegger, etc) prouve qu'il est nécessaire de dépasser une pensée rigide, purment analytique, qui enferme la connaissance dans une sphère improductive. La dialectique est un processus synthétique et productif. La progression synthétique et dialectique ne doit pas être entendue dans un sens formel. La dialectique part d'une transcendance du formalisme, mais pas du schématisme, car celui-ci peut avoir une fonction concréte. Le formalisme est toujours transcendant; le schématisme a une immanence concrète.    Cioran Solitude et destin(1991) p. 166

われわれの時代の哲学的思考が、弁証法を志向しているという事実(クレーナー、ヨーナス・コーン、リーベルト、リット、ハイデッガーなど)は、ただ硬直的に分析するだけで、知識を不毛な領域に閉じ込めてしまう思考を乗り越えてゆく必要があることを示している。弁証法は、統合と生産のプロセスである。統合的で弁証法的な展開は、形式的な意味で理解してはならない。弁証法は、形式主義の超越性から出発するが、それは図式主義ではない。というのは、図式主義は、具体的な機能を持つからである。形式主義は常に超越的だが、図式主義は具体的な内在性のことである。

■形式主義と図式主義を、こういう区分で分けているのは、面白いと思った。だが、形式が超越的なだけで、機能を持たない、という考え方は、どうなのだろうと思った。つまり、形式は理念的・超越的であるがゆえに目的定立行為と関連する。その意味で、使用目的がある。形式と図式を分けるのは難しいように思うのだが。この後の展開が楽しみである。
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Cioranを読む(98): Hegel et nous(7) 1932


■旧暦2月4日、日曜日、

(写真)無題

今年は、鴨長明の「方丈記」成立800年になるらしい。徒然草は、中高生を教えていると、よく出てくるから、なじみ深いし、自分でも好きなテキストなので、手元に置いて、読んだりもするのだが、「方丈記」はそれほど、読んでいない。1212年3月末に脱稿したことがわかっている。長明58歳。清盛や西行と同時代人。当時は、保元・平治の乱、洛中大火、竜巻、飢餓、疫病、元暦の大地震など、天変地異が頻発していた。大地震・津波、原発事故、放射能汚染と続き、今なお、大規模地震が予測されている今と重なる。ここで、描かれた死者たちは、過去の死者であるが、今の死者でもあり、将来の死者でもあるのだろう。テキストはここから>>>

『モンテーニュ―「エセー」の魅力―』を読んでいる。生活に困らない金持ちの貴族が悠々自適の生活の中で、書いた書物、という実につまらない認識しかなかった己を恥じる。その人生の戦いぶりに感動して涙が出そうになった。モンテーニュには、ユダヤの血も入っている。これは、社会を見る上で、大きかったのではなかろうか。国家横断的な存在は、差別も受けるが、それが弱者へのまなざしともなり、なにかに凝り固まらず寛容な心を維持できたのかもしれない。この本を読んで、紀伊国屋書店へEssaisを買いに走ったのだが、フランス本の売り場の前で、行きつ戻りつして、Essais3巻を何度も手にとって、結局まだ、その機が熟していないと判断して、買うのを見送った。まずは、関連本や日本語版を読んで周囲から攻める...。



Il en est le dernier grand philosophe. Ensuite s'amorce la décadence. Ce qu'Aristote est à la culture antique, Hegel l'est à la culture moderne. Cette affirmation ne s'appuie pas sur une adhésion personnell à un système, mais sur une évaluation qualitative des valeurs culturelles, en fonction de leur structure, sans subjectivité. Hegel a été le dernier à réunir dans une conception unitaire tous les domaines d'objectivation de l'esprit. Non qu'il les ait tous connus; mais il les a tous marqués subjectivement. En cela consiste l'universalité qui, dans le cas de la création philosophique, ne peut exister que liée à un centre de vie subjectif.     Cioran Solitude et destin(1991) p. 165

ヘーゲルは最後の大哲学者である。その後始まったのがデカダンスである。アリストテレスは古代の文化に属するが、ヘーゲルは現代の文化に属している。こう断言するのは、哲学体系を個人的に支持しているからではなく、主観抜きにその哲学構造を考えてみたとき、文化的な価値が質的に評価できるからである。ヘーゲルは、精神の客体化された領域全体を、統合された一つの概念にまとめ上げることのできた最後の哲学者だった。それは、ヘーゲルが領域全体に精通していたからではない。主観的に、全体を強調したのである。哲学的創造の場合には、主観的な命の中心に結びつくことなく、哲学的な宇宙は存在しないのである。

■実に感動した。生の哲学の系譜と言えば言えるけれど、そうした学説史的な整理とは違ったところで、ヘーゲルの生き生きした部分を感じ取っている。une conception unitaire(統合された一つの概念)に収まりつかないものが、概念の周囲に漂っているような感じがする。たとえば、ヘーゲルのReflexionsbestimmungen(反省的諸規定)という概念。これほど、深くて広い言葉に、これまで出会ったことがない。





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一日一句(313)






春の雨食洗廻る音しづか





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一日一句(313)






梅一輪片手は雲をつかむかな





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一日一句(312)






この路地は匠に果つる梅の花





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一日一句(311)






携帯にひとりごちたり春の月










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