goo

芭蕉の俳句(126)

土曜日、。桜東風。風で満開の桜の花びらが川面に散っていた。終日、仕事。

文科省によれば、沖縄戦の集団自殺に日本軍の強制はなかったという。その根拠は、1)「軍命令があった」とする資料と否定する資料の双方がある 2)慶良間諸島で自決を命じたと言われてきた元軍人やその遺族が05年、名誉毀損を訴えて訴訟を起こしている 3)近年の研究は、命令の有無よりも住民の精神状態が重視されている。この3点が主なものらしい(朝日新聞による)。

ここで、考えてみたいのは、修正前の記述「集団自殺を日本軍に強いられた」と修正後の記述「集団自殺に追い込まれた」の違いについてである。修正前記述は、日本軍(原因)→集団自殺(結果)と因果関係が明確になっている。集団自殺を強いた主体が日本軍であるとされている。上記の根拠1および2は、この主体に疑義があることを示そうとしたものだと言えるだろう。修正後の「集団自殺に追い込まれた」という記述は、当然のことながら、だれが追い込んだか、明示されていない。示さない理由は、上述の根拠3が、該当するのだろう。

さて、ここで、根拠3について、検討してみよう。命令の有る無しよりも住民の精神状態が近年の研究では重視されているという。「日本軍の命令」よりも、集団自殺に至った原因に「住民の精神状態」が強調されている。これは、ある意味、正しいと思う。集団狂気のようになり、冷静な判断力を失い、明示的な命令がなくても、進んで集団自殺に至った可能性は充分に考えられる。しかし、問題は、この先にある。いったい、どんなメカニズムが、それを可能にしたのか、という問題である。

単線的な因果律で、この問題を考えると、間違えるんじゃないだろうか。日本人の権威に弱いメンタリティにつけ込んだ狂信的な洗脳とそれを支えた国家総動員体制、いわば、国家全体が、集団自殺に追い込んだのだ。したがって、文科省が、上記の3つの根拠から「集団自殺を日本軍に強いられた」を修正するのだとすれば、「大日本帝国によって集団自殺に追い込まれた」とすべきなのである。この修正で、全体的なメカニズムを表現する「大日本帝国」の文言を入れないのは、意図的な国家の責任回避であろう。

こうした官僚の一見もっともらしい根拠の特徴は、歴史に「客観性」なるものがあるようにふるまうところだ。根拠1と根拠2は、こうした発想が前提にある。官僚が考えるような、「大地から浮き上がった客観性」はこの世にはない。上記の3つの根拠で、もっとも欠けている発想は、「死者の声を聴く」というスタンスだ。集団自殺した人々の声を丹念に聴き取るべきではないのか。遺留品や資料の徹底的な調査と、遺族や関係者への聴き取りを徹底的にやるべきではないのか。「「軍命令があった」とする資料と否定する資料の双方がある」などと他人事のように冷静ぶるのではなく、「近年の研究は、命令の有無よりも住民の精神状態が重視されている」などと、学者任せにするのではなく、いったい文科行政はだれのためのものなのか、また、何のためのものなのか、真摯に内省すべきだろう。

自虐史観などと、力瘤を前提にした幼稚なことを言うのではなく、国の歴史と真摯に向きあえる、芯の強い国こそが「美しい国」と言えるのではないだろうか。



つい、筆に力が入った。このごろ、漱石の日記を読んでいる。明治のマッチョな国家体制に批判的な漱石は、「自己本位」ということを言う。今でも、この思想はアクチャルじゃないだろうか。今だから、と言うべきか。



伊陽山中初春
山里は万歳遅し梅の花

■伊陽山中とは故郷伊賀のこと、元禄4年作。山里の様子が具体的に描写されていて、「梅の花」で、一気に景が開ける感じがする。そこに惹かれる。山里の万歳が遅いのを引け目に感じているのではなく、曰く言いがたい趣を感じていると思える。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

An Interview

火曜日、。どうにか、サイバープロテストの第7章が終わった。後は、最終見直しをかける。遅れているので、急ぎたい。学者の文章なので、慎重な結論になりがちだが、社会運動がイデオロギーから切り離されて、だれもが参加する時代が来るとぼくは思っていて、インターネットを利用したさまざまな運動の研究は、もっと、一般書として読まれていいと思っている。新しい政治参加の形が必要だし、求められているのではないだろうか。



宮崎駿監督に密着したNHKのプロフェッショナルを観た。映画は、「これ一本で世の中を変えてやろうくらいの意気込みでないとダメだ」と語る監督の語る言葉は、どれも含蓄があるが、中でも「プロは半分素人がいい」というのは考えさせられた。プロは保守的になり、決まった手続きで仕事を進めがちだからだ。往々にして、クリエイティブな発想は素人的な領域にあるのではないだろうか。全体を通じて感じたのは、市場の諸条件を逆手に取って、己の映画を鍛えていく監督の姿だった。プロの芸術家の姿を見た気がした。



数ヶ月前になるが、必要があって、詩人の清水昶氏にインタビューした。清水さんは、7年ほど前から、俳句を本格的に作り始め、今では、詩よりも俳句の方に比重がある。このインタビューは、某雑誌の記事「俳句の今」のために行ったものだが、インタビューをすべて使用したわけではない。ある意味で、清水さんの語ったことは、詩にとっても俳句にとっても、興味深いことなので、ここに記録しておきたい。先日触れた小野十三郎の考え方と比較すると、いっそう、興味を引かれる。

1. 詩人のあなたがなぜ俳句を詠むようになったのですか。

・もともとの出発点は短歌だった。短歌には物語性があるので惹かれた。その後、同じように物語性のある現代詩を書くようになったが、俳句なら5・7・5の17音の短い表現で物語ができる。しかも、現代詩よりも語彙が豊富である。俳句を書き始めたときには、日本語の原点である俳句に戻って現代詩を見直すつもりだったが、俳句を書いているうちに、現代詩は長すぎて退屈だと感じるようになった。今後も、現代詩は音韻や響きを重視した詩に戻っていく可能性はないだろう。これに関連して、思い出すのは、詩人の辻征夫が述べた言葉である。「海という言葉には海はない」これは、現代詩で「海」という言葉を使っても、海の風景が立ち上がってこないということだと思う。現代詩の置かれた状況を的確に表現する言葉だと思う。現代詩は日本語の原点である俳句を見落としているのである。

2. 日本で俳句人口が多いわけは何だと思いますか。

・面白い話がある。隣のおばさんに俳句を見せたらわかるが、現代詩を見せてもわからない。これは俳句が日常生活を詠むことが多く親しみを感じやすいということを示している。俳句はだれでも作れそうに思えるが、現代詩は多様化しすぎて緊張感がなくなった。また、俳句が多く詠まれる理由は、俳句が口ずさみやすく、日本人の感性に合っているせいであろう。

3. インターネットが俳句に与える影響は何だと思いますか。

・今、毎日、50句くらい、ウェブ上の掲示板に俳句を発表している。インターネットと俳句は非常に相性がいい。俳句の短さがウェブというデジタル媒体には合っている。現代詩でも短歌でも長すぎる。また、60年代からガリ版刷りで詩を発表してきた者にとっては、ウェブの漢字活字の美しさはとても魅力的である。インターネットが急激に普及したことで、だれでも簡単に俳句を書けるようになり、ますます俳句人口は増えると思う。

4. 近代化や都市化によって、季節感がなくなったり、季語が廃れたりしています。また、地球温暖化により、以前ほど、四季の移り変わりがはっきりしなくなってきました。俳句の未来についてどう思いますか。

・季語について言えば、歳時記を守るべきだと思う。版を重ねるごとに、歳時記から美しい日本語が消えていく。日本人の美意識は、神風特攻隊に象徴されるように、戦時中、国家に利用されてきた。しかし、その美意識を否定しても始まらない。なぜなら、日本人の美意識は、日本語に内在的なものだからだ。

・歳時記を紐解くと、死語が多い。現在では使われていない道具や風習が書かれている。それでも、なぜ、歳時記に載るかと言えば、歳時記を使う人が知っているからである。つまり、実在の言葉だけでなく、記憶の中の言葉も歳時記には掲載されている。その意味では、俳句は老人の文学と言える。

・近代化やグローバリゼーションは、社会が合理的に再編されていくプロセスでもあるわけだが、そのとき生まれた新しい言葉も歳時記には取り上げられている。しかし、心の中の言葉を抹殺し今使われている言葉だけが残るとしたら、残念なことである。

・地球温暖化は、俳句にとって重要な問題だと思う。太平洋戦争末期のニューギニアでは悲惨な戦闘が行われていた、日本軍の兵士たちは、絶望的な戦いを強いられ、次々に死んでいった。そのとき、各部隊の有志を集めて、演劇を上演するという話しが持ち上がった、劇で兵士たちに希望を与えようとしたのである。この劇団は大成功し、兵士たちを慰めることに成功した。そんな中、一人の兵士がこんなことを言う。「死ぬ前に故郷の雪が見たい」このリクエストに応えて、劇団は南の島に紙吹雪の雪を降らせるのである。この雪を見た兵士たちは、みな号泣する。この実話は、四季が人間の生活と密接に関わっているだけではなく、人間の魂とも深い結びつきがあることを示している。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

戦争と母

月曜日、。春風。

終日、仕事。ここ何日か、新しく出た詩集を送っていただいている。以前にいただいた詩集も、読もうと思いつつ、読めていないものが数冊かある。詩集というのは、それを読む時機、タイミングというのが、あるような気がする(読めない言い訳でもあるのだが)。

そんな中、秋山泰則さんの新詩集『民衆の記憶』は、今のぼくの波長と合ったようで、一気に読んでしまった。この詩集は、いくつかテーマがあるが、その中の一つが、「戦争と母」に関するものだろうと思う。秋山さんは、昭和13年、浅草に生まれ、戦争で父上の故郷、松本市に疎開され、戦後もずっと、当地に根ざして、文化活動や地域政治活動など、さまざまな活動をされて、現在に至っている。東京生まれの母上も、一緒に疎開され、さまざまなご苦労をされたことが詩からうかがわれる。


母という字


母という字の有り難さは

正しく書くと

正装をした母が

崩して書くと普段着の母が現れる


力強く書けば

厳しかった母が

優しく書けば

やさしかった母がいる


母を偲んで書くときは

涙ながらに書くときは

幽かに震える母になる


■一人の母を歌いながら、万人の母の歌になっている。心に残る作品だった。母の歌というのは、思うに、自分の母親を一人の苦悩する人間として、詩人が向き合えたとき、初めて歌いだされるテーマだと思う。母というテーマは、一人の母親を歌うことで、実は、詩人を生み育んだ世界総体を歌うことなのだと思う。そう考えて、もう一度、この詩に返ると、山川や友の顔、雲や風の匂いまでもしてこないだろうか。

「朝鮮や支那、それに南方の人達だって、日本の兵隊のために疎開させられたと思う。東京へ帰れなかったのは、せめてもの罪滅ぼしになったかもしれない」晩年、松本さんの母上が語った言葉である。ぼくらを生み育ててくれた世界総体が、こう語ったとして、何の不思議があろうか。


戦死


従兄の肺病は 軍隊で無理をしたせいだといった
街の医者へ行く日には
私の家に寄っていった
家の中へは入らず、縁側に腰をかけて
着物の中から 自分の茶碗をだした
母がその茶碗に白湯を注ぐ
従兄はそれをゆっくりと飲む
私が近付くと 近付いた分だけ離れた
母が近付いても やはり離れた

離れた分が従兄の愛で 離れた分の寂しさをこらえた事が
私達の愛であった

ほどなくして従兄は死んだ
少年兵の戦死であった
屍は国旗に包まれることもなく
敬礼して見送るものもなく 焼かれた

生きている限り私達は従兄を愛し
愛し続けなければならない
嗚咽の中から母の声が私の体に入ってきた


■なにも言うことはない。詩がすべてを語っている。母は戦争の対極にあり、常に「反戦」である。人間は母から離れるほど、あるいは母を持てないほど、狂うのかもしれない。


数式


放課後、校庭に屈んで数学を教えてくれた上級生がいた。土に
書いた数式のひとつひとつを説明しながら、間違いを指摘した。

それは、その日廊下に張り出された私の試験の答案に対しての
ものであった。同じ学校に通っているというだけで、さして親
しくもなかった彼が、あの時なぜ、あれほどの熱意で私に教え
たのだろうか。そののちも、人にものを教わることは数えきれ
なく重ねてきたが、いまだに校庭に彫り込まれた数式ほどの真
摯な教え方に出会ってはいない。

遠い少年の日の夏、一人の上級生によって捺印された数式は、
いくたびか人生の転換を余儀なくされる折に、ふっと、土の
熱気を伴って甦り、大きく舵を切ってくれている。


■こういうことは、自分にもあったな、との思いで印象に残った作品。あるいは、少年期に特有の気まぐれだったのかもしれない。しかし、その時間は、あとから振り返ると、宝石のように輝いている。無垢ということが、人の心から消え、理解されなくなる年齢になっても、ひっそりと、懐かしい泉のように、そこにある。そんな印象の詩。

秋山さんのこうした詩と「詩壇」の「先鋭詩人たち」の詩は、ずいぶん違うように思える。その違いを一言で言えば、novelty(新しさ)への志向のある・なしのように感じる。先鋭詩人たちは、詩史の上での、「新しさ」を脅迫的に追い求めているように思えてくるのだ。詩史の上での「新しさ」の追求が実は、詩市場というごく小さなマーケットでの、新製品開発競争につながっているのではないだろうか。もう、とっくに市場は飽和状態で、新製品は出尽くしたのに、未だに、新しい詩のありかを探しているのだとしたら。この市場の特徴は、新製品が、優れているとは限らないことだ。むしろ、退行している気がするのは、ぼくだけだろうか。優れた詩は、いつでもどこか、懐かしいものではないだろうか。母なる世界の臥所からやってくるのだから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

芭蕉の俳句(125)

日曜日、。ベランダのサボテンにほとんど、毎日のように、水をやり続けて、徐々に持ち直してきた。天辺に緑色の部分が少し出てきた。今日は、終日、ボーっとすごす。掃除だけした。

このところ、小野十三郎が、気になって、その詩論を読み返している。「短歌的叙情の否定」や「奴隷の韻律」といった詩論は、今、読んでも、衝撃的である。近代の限界が、各方面ではっきりしてきて、詩人や俳人、歌人に伝統回帰の傾向が見られるように思う。ぼく自身も、伝統系の結社で俳句を書く一方、俳句から、韻律や季節感、時間の重層性を、詩に取り込もうと、実験を重ねている。

小野十三郎の詩論を読むと、執拗な短歌嫌悪が見られる。この生理的な拒否反応は、ある面、理解できる。短歌には、自己陶酔や詠嘆、気持ちの悪いベタつきが現れる場合があるからだ。しかも、それが、短歌だけではなく、詩人の書く詩の中にも現れる場合があって、辟易することがある。小野の短歌批判の根源にあるのは、短歌の韻律と日本人の中にある権威主義の結びつきであるように思える。権威主義は、奴隷根性と言い換えてもいい。この端的な現われが、天皇制である。己一個として精神的に自立することができなくて、常に、己の外部に権威を求めるメンタリティ。権威の最終的なよりどころとしての天皇制。組織に行けば、こんな日本人はうじゃうじゃいる。いい歳をして、己を確立できない日本人と短歌のリズム/リリシズムには、内的な関連性がある。これが、小野の批判の本質であるように思える。己がないから、一挙に、戦時体制になだれ込むし、社会的所与を批判的に考えることもできない。

俳句の5・7・5のリズムは、ある意味で、覚醒が伴うので、短歌ほど嫌悪感をむき出しにしていないが、それでもやはり、短歌・俳句とワンセットで論じられ、俳句も消滅すべき「古い音楽」と見なされている。小野十三郎を近代主義者と観るべきなのだろうか。この点については、小野を読み込んでいるわけではないので、正確な判断は下せない。ただ、聴覚よりも視覚性を重視した考え方(造形性の重視)がテキスト重視の考え方につながり、現代詩が中に浮いてしまった一つの要因を作ったように思える。

他方で、小野十三郎の「奴隷の韻律」論は、アドルノとホルクハイマーの「権威主義的パーソナリティ」に通じるものがあるように感じる。その意味で、戦後現れた優れたファシズム論の一つではないか、とも思う。また他方で、小野十三郎を読むとき、韻文の理解が狭いことも感じる。小野の韻文の理解は、和歌・俳諧連歌・俳句・新体詩といった表の韻文の流れが中心で、ユーカラ・おもしろさうし(韻文に分類できるかどうかわからないが)や梁塵秘抄、閑吟集、狂歌、川柳、山家虫鳥歌といった韻文を検討した形跡がない。こうした韻文を検討したとき、何が見えるのだろうか。「奴隷の韻律の両義性」が、あるいは見えるのかもしれない。



乙州が東武行に餞す
梅若菜鞠子の宿のとろろ汁

元禄4年、大津での作。鞠子の宿は、東海道宿駅の一つ。駿河国、安倍郡(現静岡市丸子)にあり、とろろ汁が有名だった。

昔の旅は、ある意味で、命がけでもあったから、東海道を下る旅人に、旅の楽しみを数え上げる芭蕉の心遣いが、とてもいい餞になっている。こういう句を餞にもらったら、いい気分で旅に出られそうである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

芭蕉の俳句(124)

木曜日、。花冷。

今日は、朝の3時半まで仕事に追われて、起きたら12時だった。夜になって調子悪い。早く寝よう。

仕事して、すぐに寝るのも癪なので、DVDの「樹海解体新書」なるドキュメンタリーを観る。富士山麓の樹海を探検する模様が記録されている。廃墟探検家の栗原亨さんが、監修している。ここは生物の楽園だが、一般には自殺の名所で有名である。そのせいか、観音像やマリア像が、樹海の中に設置されている。奇妙だったのは、通称「ジャングルジム」と呼ばれる、高さ30メートル幅10メートルくらいの金属製の物体が忽然と現れたこと。ジャングルジムそっくりの形をしている。樹海に関する何らかの観測用に作られ、目的達成後、そのまま放置されたと見られる。樹海の真っ只中にあって、実に神秘的だった。探検中に、白骨死体を新しく発見し(死後1~2年)、警察に連絡するシーンも出てくる。驚いたのは、生きている人間と遭遇したこと。「やらせ」とも思えない。中年男性が3日前から、樹海に寝泊りしているというのだ。「帰りましょう」と栗原氏が促すと、「帰る所はない」と答えるのみ。スーツ姿のまま、シートの上に座っている。過去に3回来ているという。この男性は、取材班に促され、最終的に、樹海から出ることになった。



昨日は、尊敬する詩人のSさんから電話があった。年度末で、心に余裕がなく、詩や翻訳詩の原稿ができず、締め切りを過ぎてしまったのだ。期限は、わかっていたのだが、どうも書く気になれず、だらだらと時間だけが過ぎていた。不思議なことに、Sさんから電話があって、スイッチが入ったのである。昨日・今日で一気に一篇書き上げてしまった。もっとも、ごく短い詩なので、そうたいしたこともないのだが。後は、アファナシエフの詩を翻訳すれば、なんとか、次号に間に合いそうである。



石山の石にたばしる霰かな

元禄2、3年頃。「たばしる」は、勢いはげしくはしりとぶことだが、ここでは、石に当たって跳ね返ること。石山とは近江の石山寺のこと。庭の石山の石が白いことは、古来、著名と解説にある。楸邨によれば、実朝の「おももふの矢並つくろふ籠手(こて)の上に霰たばしる那須の篠原」を心に置いた発想という。

石にぶつかり跳ね返る霰の硬質な感じが、「たばしる」という言葉で伝わってくる。石の白さと霰の透明な氷の感じが、冬のカラッとした寒さと響き合って、惹かれる句である。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

仰臥漫録

火曜日、、なれど寒し。

今日は、娘の合格祝いで、夜は外で食事してきた。ホテルオークラの日本料理、フリーオーダー制というやつ。3時間も食べてしまった。さすがに、苦しい。

突き出し、活き造り、酢の物、煮物、焼き物、今日の目玉(伊勢海老の天ぷら)、揚げ物、汁物、ごはんもの、デザートとフリーにオーダーできるのだが、面白かったのは、穴子酢。穴子は好物なのですぐに目がいったが、それを酢で和えるとどうなるのか。結果は、かなり旨い。オリジナルの酢を使っているのであろう。酢が勝ちすぎず、穴子のコクとうまく調和していた。活き造りは、やはり旨いのだが、中でも「初鰹の叩き風」がもっとも美味だった。鰹が新鮮なのがよくわかる。期待はずれだったのは鮪。貧弱。うーんと唸らされたのは、「野菜の合わせ煮」。これは、シンプルに根野菜を出汁で煮込んだだけの料理であるが、野菜の甘みが見事に生かされた一品だった。難を言えば、出汁の醤油が若干きつい。この日、ぼくがもっとも感動した一品は、ふきのとうの天ぷらだった。自分で作ると、ふきのとうを天ぷらにするのは、なかなか難しく、苦味が勝ちすぎてしまうことが多い。今日のてんぷらは、苦味がほどよく(適切な前処理を施しているのであろう)、一口食べると、口の中に早春の息吹が広がるのだった。

食い物の話で盛り上がるつもりはなかったのだが…。料理が好きなので、今後、食べ物ネタというのも、書いてみようかな。



食べ物といえば、子規の『仰臥漫録』は凄い。食べるだけが楽しみだったと書き残しているけれど、それにしても、大変な大食。来客も心得たもので、全員、手土産には食べ物を持ってくる。おやつも入れれば、一日4食、大量に食べ、大量に排泄している。まるで、子規という人の多彩な活動が食事一本に集約されたかのよう。

ある日の子規のメニュー

9月13日

朝飯 ぬく飯3椀 佃煮 梅干 牛乳五勺紅茶入り 菓子パン2個
昼飯 粥3椀 鰹のさしみ 味噌汁1椀 梨1個 りんご1個 葡萄1房
間食 桃のかんづめ3個 牛乳五勺紅茶入り 菓子パン1個 せんべい1枚
夕食 稲荷寿司4個 湯漬半椀 せいごと昆布の汁 昼のさしみの残り 焼せいご
佃煮 葡萄 りんご

凄い! 普通3日分ですな。 

子規の俳句は、まだ、詳細に検討していないが、今まで読んだ印象では、虚子に劣る印象がある。しかし、俳句・短歌・批評・随筆と多岐に渉る革新活動、しかも、ただ、新しい創作者というだけでなく、今で言うプロデューサーに近い活動もしていたことを考えると、そのエネルギーの質量には圧倒される。

巨大なエネルギーが仰臥せざるを得なくなったとき、なにが起きたのか。そのドキュメントが『仰臥漫録』だったような気がする。

なかなかリベラルな批評も展開する子規だが、母と妹の食事が、普段は、香のものだけだったという状態は、子規の収入が家計に大きかったとは言え、時代的な限界を感じた。また、このエッセイには、句読点がない。まだ、近代日本語の散文体の形が整わず、過程にあることを示唆しているように思う。子規の死後5年経った明治40年に書かれた漱石の日記を読むと、きれいに、句読点の入った文章を書いている。ただし、漢文書き下し調であるが。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

廃墟

金曜日、。昨日は、遅くまで、「廃墟解体新書」というDVDを観る。全国の廃墟を探検するというドキュメンタリーで、全部で7つくらいの廃墟が紹介されている。昭和7年開業で10年前に廃業したアールヌーボー調の観光ホテルや地域医療に貢献して15年前に廃業した大型病院、廃炭鉱や廃校、一村丸ごと廃村になった村、麻布のゴーストタウン、軍事要塞など。

はじめの一本だけ観て寝るつもりだったのだが、映像が美しく、興味深いので全部観てしまった。ウェブで「廃墟」をキーワードに検索すると、かなりヒットする。廃墟探検はブームでもあると言われる。ぼくもそうだが、なぜ、ひとは廃墟に惹かれるのだろうか。

昭和7年開業の廃観光ホテルは、山の中に建っている。ゆっくり、自然に還るところである。その広間は大きく、作りは堅牢で、一面のガラスから差し込む夕日が、なんとも言えない雰囲気を醸し出す。天井は、雨漏りのせいで、ところどころ、カビが繁殖している。その映像を観ていて、「滅びの美」という言葉が浮かんできた。盛んだった時代を経て滅んでいくときの事物の美しさ。一時、地上に住まう人間の残した痕跡が、母なる大地に還る一瞬の光芒。

東北の廃村を探訪したレポーターが、雪の降りしきる画面の中で、「普段なら、この寒さは不快なものですが、こうしていると、この寒さを、この村に生きた人も感じていたんだなと思い、当時の人たちに触れたような気がします」と述べていた。この言葉は印象的だった。山に依存した生活をしていた93人ほどが住んでいた村。生活道具はそのまま、人だけがいない。

商都、大阪の防衛のために小島に作られた軍事要塞。明治20年に作られたという総レンガ作りの要塞は、その目的を失ったまま、時間だけが流れた。無意味。その要塞は無意味に還ったのだろう。まるで、人間の行いはすべて無意味であるかのように。どこからか、笑い声が聞こえた気がした。



廃墟 解体新書 [DVD]
クリエーター情報なし
GPミュージアムソフト





※ 「廃墟解体新書」監修者の栗原亨さんのウェブサイト。



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

芭蕉の俳句(123)

火曜日、。風の冷たい一日だった。叔母の確定申告も作成して、税務署に提出に行った。その帰り、税務署前までデモを行う一団と遭遇。何を訴えているのか、しばらく、観察していると、プラカードのスローガンがてんでんバラバラ。「年金引き下げ反対!」「消費税値上げ反対!」「税金引き上げ反対!」「憲法九条改悪反対!」「税金を福祉へ!」一つ一つの要求には、賛成だが、どうも散漫な印象をぬぐえない。デモの目的を一つに絞って、メディアを巻き込んだ戦略が必要ではないか。確定申告で込み合う税務署に税金関連のデモをかけるのもいいが、どれだけ効果があるのか、疑問に思った。現代のデモは、新旧のメディア(ウェブとマスメディア)をいかに有効に利用するかが、大きなポイントになっている。ちなみに、このデモは共産党市議団が主導していた。デモの参加者は90%以上が高齢者だった。やってもやらなくても大差ない、おざなりのデモという感じを禁じえない。



旅行
煤掃は杉の木の間の嵐かな  (己が光)

この句は、「煤掃(すすはき)」が身近ではない時代には、その面白さがわかりにくいかもしれない。「煤掃」は「煤払い」のことで、芭蕉の時代には、12月13日に行うのが常だったらしい。杉の木立を吹いているはげしい嵐が、煤払いをしているようだ、という句意であるが、楸邨の言うように、旅を続けているうちに煤払いの時期になったが、「(わが)煤掃は杉の木の間の嵐かな」という心境なのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

春の日と幸福

月曜日、。終日、確定申告の書類の作成。今日は、遅く起きたが、春日だった。朝は寒かったらしい。晩もいささか冷え込んできた。

春の日を浴びながら、しばらく、ブラームスの後期のピアノ曲を聴いていた。どうもすぐに、確定申告の書類を作る気になれないのだ。すると、奇妙なことが起きた。少年時代の春の日がなんとなく甦ってきたのである。遠藤周作は、一般に、人は、中学を出たあたりから次第に不幸になると言っているが、確かに言えている気がする。少年時代は、なんも考えていなかった。ただ、春の日が退屈だった。何も考えなくてよいこと、退屈であることは、幸福とイコールだろう。それは後になってわかる。春の光は幸福のイメージとどこかで結びついている、そんな気がしないだろうか。ブラームスは、たぶん、過去を回想させる音楽なのだろう。

ベンヤミンは、幸福のイメージについて面白いことを言っている。

よく考えてみると分かるが、ぼくらがはぐくむ幸福のイメージには時代の色―この時代のなかへぼくらを追い込んだのは、ぼくらの生活の過程である―が、隅から隅までしみついている。ぼくらの羨望をよびさましうる幸福は、ぼくらと語り合う可能性があった人間や、ぼくらに身をゆだねる可能性があった女とともに、ぼくらが呼吸した空気のなかにしかない。いいかえれば、幸福のイメージには、解放のイメージがかたく結びついている。(歴史の概念について 今村仁司『ベンヤミン 歴史哲学テーゼ精読』pp.54-55 岩波現代文庫)

司馬遼太郎や先日亡くなった、飯田龍太など、早春を愛した文学者は多い。こうした人たちが密かに「人間の解放のイメージ」を「春の日」に感じていたとしたら、どうだろう。まったく的外れとも思えない。

「春の日」と言えば、どうしても、この句が口をついて出てくる。

春の日やあの世この世と馬車を駆り   中村苑子

「春の日」は、一方で、確かに、あの世に通じるものがあるように感じる。ゲーテではないが、天国は退屈なところだという見方も、あながち、見当はずれではないように思う。春の日=幸福のイメージ=解放のイメージ=退屈な天国。一生、金に振り回されているよりは、退屈な天国の方がましだということもできるか。幸福について、こんなことを言う人もいる。

幸福は突発的に訪れるから、幸福によって打ちのめされる恐れがある。不幸は動きがのろいので、いつでもそれに合わせて対応する余裕がある。(ハンナ・アーレント『思索日記 (1) 1950‐1953』叢書・ウニベルシタス p.20)

なるほど、一理ある。とくに幸福に不慣れなぼくなどには。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

陽炎

日曜日、のち。北風。寒い一日。

午前中、伯父の3回忌の線香を上げに従弟の家に行く。風雨がひどかったが、帰る頃には雨は止んだ。

実相寺昭雄監督の「姑獲鳥の夏」を観る。ちょっと、内容的に複雑すぎて、映像になじまないように思った。榎木津礼二郎の阿部寛と京極堂の堤真一が相殺してしまってミスキャストではあるまいか。映像は、なかなか面白かった。科白がすべて字幕のように画面下に出るのもトーキーのようで面白かった。なかでも、水木しげるに扮した京極夏彦自身の演技がなかなか達者で印象的だった。小説家や詩人は、ある意味、役者でもあるから、当たり前と言えば当たり前だが。実相寺監督には、興味があるので、他の作品も観てみたいと思っている。



春の季語で印象的なものの一つが、「陽炎」である。陽炎という自然現象も面白いが、ゆらゆらと立ち上る陽炎も一つの現実であるということが面白い。

かげろふと字にかくやうにかげろへる   富安風生

かげろふの中の義歯となりにけり   真鍋呉夫

枯れ芝やまだかげろふの一二寸  芭蕉

陽炎を見て、気が遠くなっているとき、この世にありながら、この世にいない、陽炎のようになっているのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ