verse, prose, and translation
Delfini Workshop
往還日誌(93)
■9月29日、金曜日。御所東側、寺町御門。
朝から、カンカン照りだった。
パスカルに関する記事にアクセスがあり、何気なく、パスカルのシリーズを読み始めると、2010年くらいの日記ともなっており、なかなか面白かった。なにか、きっかけがないと、過去ログは読まないが、記録をどんな形でも残しておくと、過去との比較ができる。
10年前と同じ部分や違う部分、進展したところや後退したところ。歴史というものの、ミニチュアを見るような気がした。
支配権力というものは、歴史性がないか、言い換えれば、時間が「現在」しかないか、支配権力を正当化する「過去」をでっちあげるか、そのどちらしかないので、こういう、極私的なブログのようなものが、将来、消されずに、残るとしたら、なにがしかの意味もあるかもしれない。
きょうは、中秋の名月だった。
仕事が遅くまでかかり、深夜、南西の空高くに、月を見た。
外に出ると、京都は、この時間は、半そでではもう寒い。
9月の京都滞在も、あと、一日半。
今回も善戦したと思う。
御所外周を回ることが習慣になりつつあるのが収穫。
京都観世会館で、隣に座ったおばちゃんが、やけに意識するので困った。
とくに、もてたくもないのに、もてているのか。
今度は、自由席にしよう。
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往還日誌(92)
■9月28日、木曜日。
朝、ストレッチをして、掃除して、若宮より持ち込んだ道具で薄茶を立てる。
その後、御所一周にでかける。
梨木神社で萩を見ていると、修学旅行で来たという東京世田谷の中学生に声を掛けられた。
梨木神社の手水舎の水は地元の人はどのように使用していますか、という質問なのである。
そりゃ、清めにきっまとろうや、と言いかけて、やめた。
梨木神社の手水舎は、普通の神社のように、手や口を清める竹の柄杓のある水の流れる台の脇に、蛇口が一つ突き出ていて、そこから清めの水を、ペットボトルなどに詰められるようになっているのである。
しかも、そこには、張り紙があって、500ml百円と書いてある!
この中学生たちは、この水の「地元での」使い道を聞いたのである。
いいところを突いている。
観光客が飲み水として使うのではなく、地元ではどう使っているのか、という質問なのである。
これは、答えに窮した。
端的に知らないからである。
想像だが、お茶を淹れたり、珈琲を淹れたり、やはり、飲むために使うのではないだろうか。
ちなみに、地元の人が水を汲んでいるのは見たことがない。
帰りがけに、その蛇口を通りかかると、中学生たちは、水を飲んでいた。冷たくて気持ちがいい、と言いながら。
もちろん、百円払った気配はなかった。
それでいいのだ。かみさんが、金とるなど、とんでもない。
一周、50分ほどでまわると、やはり、汗はかく。
ウォーキング用のジャージなどは、用意がないので、ずっと、普通の黒いズボンで、インターバル・ウォーキングしていたが、やはり、ジャージくらいは必要だろう。
帰りに、アイハートでムネ肉を買う。
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往還日誌(91)
■9月26日、火曜日。
めづらしく8時間半、覚醒なしで眠れた。気候が良くなってきた証拠だろう。
朝、御所の周りを、時計回りに、インターバル・ウォーキングを行う。時計回りだと、ジョガーなど、向こうから来る人の顔が見えて面白いのである。
御所の周りは、週末はもちろん、平日も、ジョギングをするひとが多い。しかし、ウォーキングをするひとはまだ見たことがない。インターバル・ウォーキングに至っては皆無である。
観光で来ている人々のそぞろ歩きはあるけれども。
今、御所の門の名前を覚えようと思っていて、東側の3つの門は覚えた――石薬師御門、清和院御門、寺町御門。北に1つ、東に3つ、南に1つ、西に4つの計、9つの門がある。
ネットで調べれば、名前はすぐにわかるが、その存在のありようと一致させたいので、時間をかけている。
だいたい、インターバル・ウォーキングで、一周すると、50分程度かかる。
東側の駐車場付近に彼岸花が咲いていた。京都は、まだ、これからのようで、つぼみがたくさんついていた。
これも、京都で3つのライフワークを完遂するための条件作りの一環なのである。
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往還日誌(90)
■9月22日、金曜日。
朝、牛乳を一杯飲んで、御所の散策。石薬師御門の周辺の欅は葉が黄葉し始めている。ポツリポツリと秋雨が腕に落ちかかる。
今週は、ずっと忙しく、仕事が終わるのが遅く、寝つきがよくない。2時、3時まで眠れず、良い睡眠がとれていない日が続いた。
朝、雑穀入り玄米のパンケーキを焼く。パンケーキに使用する牛乳によって、出来上がりが異なってくることに気が付いた。土曜特売で買ったような、安い牛乳で作ると、他の材料は同じでも、パンケーキがもろくなる。
粉と卵と牛乳だけなので、材料をケチると、却って、もったいない。
きのう、珈琲を調子に乗って飲みすぎたので、きょうは、一杯も飲まなかった。一日、一杯か多くて二杯が、長期的に見て、自分には、適正だということが体の調子を観察しているとわかる。
きょうは、アイハートで、京都では今季初の梨を買って食べた。長野県産だった。
終日、六本木の仕事を行う。
「場の言葉」シリーズを始めて、「DELTA」「夜の三つの橋」「一の丘」「石庭、あるいは初秋の劇」と4つの詩を書いた。
自分にとって、どうしても、避けて通れない「場」がある。それは宇治のウトロである。
ウトロには3回行った。
だが、どのように書けばいいのか、まったくわからない。
そもそも、私に書けるだろうか。朝鮮人でもない私に。いわば、朝鮮人をウトロへ閉じ込めた側の人間である。
詩は資料を読めば、書けるものではまったくない。それは百も承知しているが、1923年9月の虐殺の資料を収集し、また、ウトロ関係の本も読み始めている。詩の肉体が立ち上がってくるには、少し、時間がかかる。
私とは何か、を問う地点と、ウトロや1923年9月の聲が交差する地点に、「詩」は、あるのかもしれない。
当分、手探りが続くのだろう。
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