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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(16)


■旧暦8月15日、日曜日、台風17号、中秋の名月

(写真)無題

数年ぶりで、本格的な夏バテになった。今週一週間は、ガタガタだった。話を聞いても、音としてしか、耳に入らない。英文を読んでも、アルファベットしか、映らない。昨日、今日と、ひたすら眠った。詩人の高見順が、死の床で、本が読めなくなったので、音楽なら大丈夫だろうと、音楽を聴いてみたら、音としてしか認知できなかった、という話をなんとなく思い出していた。詩人の清水昶さんと、最晩年、電話で話したとき、この頃、本が読めない、としきりに言っていたのも思い出される。活字や音楽が「物」に化したということだろう。言語も音楽も、「客観的に」存在するのではなく、主体の側で解釈してはじめて存在していることがよくわかるエピソードだと思う。

疲労の極あるいは死の直前の老化というのは、世界の無意味化ということに近いのだろう。これは、人間(おもに、支配・統制する側の)が、もっとも恐れて来た事態だろう。その証拠に、古くから宗教が、最近は、科学が、世界の有意味化を担っている。世界が偶然で覆われてしまうことを防いでいるのである。無意味は悪なのだ。

無意味から生まれて無意味に還る。問題は、その間の有意味化の仕方なのだが...。



さし木つきたる月の朧夜   凡兆

苔ながら花に竝ぶる手水鉢   芭蕉

■古今集と、古今六帖を踏まえた安東次男の解釈には、唸った。確かに、芭蕉は、この伝統を踏まえて句を付けていると思える。古典や教養の使い方は、美学的なのだが、人間関係(場面)という社会的文脈に強く規定されている点がとても面白い。これは、ある言葉が意味を持つときの機制と同じで、言語ゲームならぬ「俳諧ゲーム」といったものがあるのは確かだろう。古典を踏まえる分、二重に、深みのあるゲームになるのだろうけれど。



Sound and Vision



※ このところ、よくKhatia Buniatishviliの演奏を聴いている。2011年4月、まだ、3.11後一ヶ月しか経っていないとき、ギドン・クレメールのトリオで来日する予定だった。まだ、若い女性なので、来日を見合わせ、代わりに、急遽、コンサートを終えたばかりのヴァレリー・アファナシエフが、来てくれたのだった。しかし、チェルノブイリで亡くなった友人を持つこの三人、よく来日してくれたと今も思う。この夜のコンサートは、大変感動した。ブログは、ここから>>>





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一日一句(475)







破芭蕉なほも風受くみどりかな






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一日一句(474)







遊びせんやがて死ぬ身の秋の風






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一日一句(473)







冷やかな悟り顔にはなるまいぞ






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一日一句(472)







細道に新米の日々続きをり






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一日一句(471)







秋扇ひとの話をうわの空






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一日一句(470)







重ねたる器の日々や萩の花






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一日一句(469)







心中に叫ぶこゑあり秋の天






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一日一句(468)







秋刀魚の火やはり怒りと言ふほかなし






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一日一句(467)







蟋蟀の無心といへど一途なる






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