goo

日本語の散文について

水曜日、。今日は、公園で昼飯を食べた。日の光が気分良かった。コミック『墨攻』4-8巻を一気に読んだ。率直に言って、この5巻分は蛇足だと思う。1-3巻の完成度に比べると、あまりにも冗長で安易な展開だ。最後に、革離一行が東の果ての日本に着くという結末には笑った。まるで漫画だ!? これは、諸星大二郎がとっくの昔に想像力を駆使して描いている。蛇足を重ねたのは、作者の問題というより、編集者の能力の問題だろう。こんなに長くする意味はない。



日曜日は、句会だった。主宰が休みの句会だったのだが、それはそれで、非常に面白かった。連衆のみなさんの個性が発言に良く出てきて楽しいし、実力俳人ぞろいなので、俳句の批評も実に的確である。なにより、句会の後の飲み会が面白い。そのとき、ぼくの俳論のことをいろいろコメントしてくれたのだが、実に勉強になった。具体的に書くといろいろあるのだが、ここでは、ぼくにとって、一つの大きな問いかけとなった事柄だけを記したい。

それは、日本語の散文とは何か、という問いかけである。ぼくの書いた俳論は、図や表を駆使して科学的に俳句にアプローチした論文だったという見方が、審査員の間では共通のものだった。この見方は、一方で、もっとやさしく言えることを難しく述べているという否定的な評価にもなり、他方で、ああいう言い方(文体)でしか、この問題は扱えないという見方もあった。また、審査員の中には、「図表を使うなんて俳論じゃない」という意見もあったらしい。

この話しは、文体と問題、翻訳と文体、時代と文体といった問題圏に導いていく。「日本の名随筆」シリーズなどを読むと、ここに日本語の散文の粋があると感じることがある。感受性や感情が実に豊かに表現されている。このシリーズを読むと心が満たされる。癒される。豊かになる。一方で、藤田省三のゴツゴツしたエッセイを読むときの、視界が一気に開ける感覚、足元から大地が真っ二つに割れて、マグマが吹き上げて来るような感覚は、言葉に言い尽くせない。藤田省三の『精神史的考察』を読んで心底心が震えてただ涙が流れたこともある。

この2系列は、その文体がまった違う。名随筆は、いわゆる日本的名文。藤田は、その規範で言えば、完全な悪文だろう。欧文、とくにドイツ語の原文が先にあって、それを日本語に翻訳したような文体が藤田省三の文体である。ここには、藤田の問題を名随筆の文体で言えるのか、という問題があるように思う。もし、藤田の問題は、藤田の文体と切り離せないとしたら、その問題は、日本の翻訳と同時に生まれた、と言えるだろう。それ以前には存在し得なかった問題なのだ。逆に、藤田のような文体が開発されて始めて問題化したということだ。

ぼくの俳論は、実は、藤田省三のエッセイを理想として書いた。このうねるような思考の流れをモデルにしたいと願った。その結果、翻訳文体の影響を大きく受けることになった。この問題の結論は早急に出したくはない。いや、出してはいけないと思っている。思考や感受性、感情などを表現した多様な日本語を検討し実際に書いてみることで、じっくり考えていきたいと思う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

Vernunftをめぐって

水曜日、。旧暦7月2日。

以前、ヘルツォークの映画の感想を述べたときに、ドイツ語のVernunftについて触れた。このときは、夕刊に載った、ある翻訳家のコラムからの孫引きだったのだが、ずっと気になっていた。仕事も一段落したので、少し、調べてみた。

手元にある語源が載っている独和辞典を3、4冊調べてみると、Vernunft(理性)は、すべてvernehmen(聞き取る、聞き分ける)という動詞と同根・同系であることがわかった。先の翻訳家の情報源はこのあたりなのだろう。Wahrigを引いてみると、Vernunftは中高ドイツ語のvernunft、古高ドイツ語のfirnunftが語源となっている。

ここでは、Vernunftの同根である動詞vernehmenにこだわってみたい。その前に、なぜ、ぼくが「語源」などと言い出すのか、その理由を説明したい。ある言葉は、すべて一定の言語ゲームの中で使われる。言語ゲームは社会的なものであるから、歴史に規定される。つまり、今のVernunftの使い方と過去の使い方は異なっている可能性が高い。過去の使い方がある程度理解できれば、その言葉をめぐる言語ゲームのありようが、垣間見える。言語ゲームが垣間見えるということは、つまり、当時の社会のありようが瞬間的に見えるということである。言葉の使われ方を通して、社会のありようを想像してみようというのが、語源にこだわる趣旨である。

【Vernunftの使われ方】

Vernunftを独和大辞典で引くと、3つの意味がある。1)理性、理知 2)判断力・思考力、分別、思慮、(道理をわきまえた)常識 3)(哲学)理性

1)と3)は重なる部分があるように思う。

用例としては、
keine Vernunft habenで思慮分別がない
Vernunft annehmenで正気に戻る
zur Vernunft kommen正気に立ち返る
Das ist gegen alle Vernunft. それは非常識きわまる。

次にWahrigでは、Vernunftを次のように定義している。

der bewusst gebrauchte Verstand(意識的に用いられた思考力)
Einsicht(理解、分別、洞察、認識;面白いことに「閲覧、閲読」という「文書を読む」という意味もある)
Besonnenheit(思慮深いこと、慎重、落ち着いていること)

用例としては
nimm doch Vernunft an!(落ち着け/よく考えろ)
er ist aller Vernunft beraubt.(あいつは自分を失っている/軽率だ)
あとは、だいたい独和大辞典と同じ。

■以上から、大きく分けてVernunftには2系列の意味がある。一つは、日常的に使われる「分別、常識、正気、思慮」といった意味、もう一つは、哲学史とも重なりながら使われてきた「理性」の意味。前者が身体全体の働きや反応を前提にするのに対して、後者は「読むこと(その意味で視覚)」が中心である。たとえば、日本語の「理性」を哲学辞典で引いてみると、「一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力をいう。人間は理性的動物である、といわれる場合の理性はこの意味である」となっている。概念は耳で聞くものではなく、テキストを媒介に読むものである。Vernunftを「理性」と日本語で理解したとたんに、「読むこと(視覚)」中心の用例に変換されてしまい、ドイツ語の言語ゲームの中にある「身体的な意味合い」が捨象されてしまう。

【vernehmen】

それでは、Vernunftと同根のvernehmenという動詞はどうか。これは、同根であって、語源ではないので、二つの言葉の共通の祖先があるということになる。しかし、注目したいのが、Vernunftの同根が「見分ける(underscheiden)」ではなく、「聞き分ける/聞き取る(vernehmen)」であるという点だ。言い換えれば、Vernunftの対象は、「読むもの、見るもの」ではなく、「聞き取るもの、聞き分けるもの=声や物音」に比重があるということだ。Vernunft→(翻訳による)理性→テキスト・文字→読むものといった流れの外に(その流れより古くから)、Vernunft→聞き取るもの、聞き分けるものという流れがあり、それがドイツ語の言語ゲームの中で「分別、常識、正気、思慮」といった意味を生じさせているように思える。

このことの意味は、単純に口語の歴史は文字より古いから、というだけではない。Vernunft(理性)は、本来、主張やモノローグではなく、他者の声や自然の物音を聞き取り、聞き分ける受動的な働きだったことが窺われるのである(それは、狩猟社会の中で生死にかかわる重要な能力でもあったろう)。また、他者や自然には聞き取るべき声や聞き分けるべき音があるとする世界は、前近代に固有の問題を孕みながらも、人間が謙虚な世界だったと言えるだろう。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )